第52話 “よくない夢”
――時間は少し遡り、昨夜。
グリングリン・ロッジ、村長の家の一部屋では、静かな湯気が立ちのぼっていた――
「――ふう……いいお湯……」
ルリノは長旅の疲れを癒すように、ロマが村中の小屋に設置してくれた浴槽へと身を沈めていた。
木製の浴槽から立ちのぼる湯気が、ほのかにハーブの香りを漂わせる。
薄い金色の髪が湯に濡れ、光を受けたように艶やかに輝く。
肩を湯に預けるたびに、張りつめていた緊張がゆっくりとほどけていった。
その湯の中で、彼女は先ほどのことを振り返る。
(……さっきはつい勢いで、ロマに抱き着いちゃったな……だ、大丈夫だよね? 今日はいっぱい歩いたから、汗かいちゃってたかも……くさいとか思われてないよね……?)
思い出した瞬間、湯気の熱よりも早く顔が熱くなる。
ルリノは慌てて湯の中に沈み、ぷくぷくと泡を立てながら小さくうめいた。
(うう……考えたら、ちょっと……い、いや……でもロマって薬の激臭を嗅いでるせいで、鼻が壊れてるって言ってたし、大丈夫……!! だよ、ね……?)
自分に言い聞かせるように、彼女は湯の中で小さく頷く。
頭の中では、ロマの穏やかな笑顔が浮かび続けている。
(……うん、大丈夫に決まってる!! て、てか……別にロマにくさいって思われても、そんなの別に……別に……)
言葉にすればするほど、自分で自分を追い詰めてしまう。
ごまかそうとすればするほど、胸の奥がくすぐったくなる。
(ああもう!! なんでこんなこと考えちゃうんだろう!! ……ううん、今は今日の疲れを癒すことに集中だ……)
ルリノは両頬を軽く叩くと、深呼吸をひとつ。
小さな水音とともに肩まで湯に沈め、目を閉じる。
「……はふぅ~……」
しっとりとした静寂。
湯気が髪を包み、木の壁をつたって水滴がぽとりと落ちる。
風の音が遠くに微かに響き、お風呂場の中には、ただ湯の音とルリノの小さな息づかいだけが満ちていた――
(――大都市での生活……楽しかったな……まあ1番はここなんだけど。たまには人がいっぱいいる、賑やかなのもいいよね……)
ルリノの脳裏に、病気の治療のため訪れた大都市での日々が蘇る――
――
――――
――――――
――〝ミストヴェル〟。
東の大陸では、〝ラクシャマ王国〟と肩を並べるほどの交易都市国家。
街は常に薄暗い霧に包まれ、空にあるはずの太陽さえ、どこか遠く霞んで見える。
それでも、その街には眩しいほどの活気が満ちていた。
道を埋める人々。
絶えず飛び交う売り子の声。
見たこともない装飾の服。
そして、村では決して耳にしない不思議な機械音。
(〝ミストヴェル〟って、〝東の大陸〟じゃ技術大国としても有名だもんね。〝北の大陸〟とも頻繁に交易してて……あの、動く箱……そうだ、〝エレベーター〟! あれにはびっくりしちゃったな……)
湯のぬくもりに包まれながら、ルリノはくすりと小さく笑った。
けれど、その笑みは長くは続かない。
ふとした拍子に、そこへ薄い影が差す。
(村からミストヴェルまではちょうど1週間。往復2週間、滞在期間は2週間の計1ヶ月の冒険だったけど……あっという間だったな……そりゃあ、そうか。だって……)
思考の先にあるものを、指先で触れるみたいに探りながら。
彼女はポト……と、湯気の中へ言葉を落とした。
「……はあ……〝治療中の記憶〟戻らないのかな……」
呟きとともに、閉じていた瞳が静かに開く。
そう――彼女には……
ミストヴェルに滞在していた間の、〝数日分の記憶〟がない。
本来なら、決して見過ごしていいことではない。
けれど、人に話せば心配をかけてしまうかもしれない――そう思って、まだほとんど誰にも打ち明けていなかった。
(……病気が治って、咳も出なくなって、本当にうれしい。今は走ったって息も切れないし……でも……やっぱり記憶がないって、不安……)
結局、その事実を打ち明けた相手は〝主治医〟ただ1人だけだ。
胸の内には、ぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。
思い出せない数日間は、ただの空白ではなかった。
その穴の縁から、不安がじわじわと滲み出し、気づけば心の奥を薄暗く覆っている。
あの数日、自分は何を見て、何を聞いて、何をしていたのか。
思い出そうとするたび、指先で霧を掴むみたいに、輪郭だけが曖昧に逃げていく。
ルリノは、そっと自分の腕を抱いた。
湯はあたたかいはずなのに、肌の内側だけが少し冷えているような気がする。
気を紛らわせるように、ぼんやりと湯面を見つめる。
そこに映る自分の顔は、揺れる水に合わせてゆらゆらと形を変え、少しずつ、少しずつ元へ戻っていく――
――その、はずだった。
湯の揺れがほとんど凪いだあともなお、水面の中の自分だけが、どこかおかしかった。
頬の輪郭が、わずかに滲んでいる。
指先の境目が、曖昧にぼやけている。
まるで、水に映った像ではなく――
映っている自分そのものが、ゆっくり形を失い始めているように。
「……え……?」
ルリノは息を呑み、恐る恐る右腕を持ち上げた。
その瞬間。
ぬるり、と。
腕の輪郭が、音もなく崩れた。
白く細い肌がどろりと溶け、淡い緑色の液体へと変わっていく。
肘から先が、まるで熱で溶けた飴細工みたいに形を失い、筋も骨も何もかもが曖昧になって、湯の中へと流れていく。
「な……に……これ……?」
反射的に自分の身体を見下ろす。
足も……もう駄目だった。
膝から下の輪郭がふやけるように歪み、脚は湯の中でゆらゆらと揺れながら、薄緑の粘液へと変わっていく。
最初からそこに境界なんてなかったみたいに、身体そのものが、ぬめった液体へと還っていく。
「なんで……これ……」
湯船から出ようとした。
立ち上がろうとした。
けれど……膝に力を入れる感覚がない。
腰を支える芯がない。
腕を伸ばそうとしても、もう肩口から先が自分の命令通りに動かない。
そして――
バシャッ。
右腕が、肩口から〝落ちた〟。
湯を跳ね上げながら、重みのない肉塊みたいに浴槽の中へ沈んでいく。
「嘘……っ!? あ、ああ……なんで……っ!!」
肌の下から、とろりとした熱が込み上げる。
骨がある感覚も、筋肉が張る感覚もない。
そこにあるはずの身体が、内側から煮崩れていくようだった。
「やだ……やだっ……!! こんなの……!!」
湯面に映る自分の顔も、もう人の形をしていない。
瞳が溶け、口が崩れ、まるでバケモノのようになっていく。
「ひ……っ! い、いや……!! ひあああああっ――」
絶叫が漏れた。
視界がぐにゃりと歪み、天井も壁も溶けて混ざり合う。
世界が、崩れる――
そして――
「――んはアッッ!!? ……あ……んえ……?」
ばしゃばしゃと溢れる水音が、現実へと彼女を引き戻す。
荒い息を吐きながら、湯船の縁に手をついていた。
「……へ……? あ、あれ……? う、腕は……?」
ルリノは自身の腕を見るが、そこには何時ものように白く細い腕があった。
当然湯船に溶けてなどいない。
体の方も見るが、いつも通りだ。
その細くもメリハリのあるスタイルは、依然として確かにそこにあった。
「……は、はは……まいったな……ちょっと、疲れすぎかも……」
先程まで見ていた、恐ろしい幻想を忘れようとするかのように、乾いた笑みが、震え混じりに漏れる。
恐怖で強張った肩から力を抜き、ルリノは深く息を吐いた――
――
――――
――――――
――湯船から上がり。
「……あれは一体……なんだったのかしら……?」
小さな電球が僅かに照らす室内。
湯気がまだ肌にまとわりつく。風呂から上がったルリノは、タオルで髪を拭きながら、ぼんやりと宙を見つめていた。
思い返すのは――つい先ほど風呂場で目にした光景。
自分の体が緑色の粘液に変わり、ゆっくりと湯の中へ溶けていく。
息も出来ず、指の1本すら動かせないまま、視界がどろりと歪んでいくあの悪夢。
「私……寝ちゃってたのかな……」
ぽつりと零したその独り言は、湯上がりの静かな部屋にひどく小さく響いた――
「――それは随分とお疲れなようで……」
「っ!!?」
――背後から、声。
耳元で囁かれたわけではない。
けれど、あまりにも近くで聞こえた気がしてルリノの肩がびくりと跳ねた。
反射的に振り返る。
そこには、部屋の隅に落ちた暗がりと一体化するように、小さな影が立っていた。
まるで最初からそこにいたかのように、音も気配もなく。
暗緑の瞳だけが、じっとこちらを見ている。
「わ!? ビックリした……なんだ〝マリーさん〟か。脅かさないでよ……」
心臓がまだ速い。
笑ってごまかそうとした声は、わずかに上擦っていた。
「ふへへ、すまないね。そんなつもりはなかったんだが……」
小柄な影――マリーは、まるで貼り付けられたような笑みを浮かべた。
年端もいかない少女のように見えるが、その顔はどこか怪しい影を纏い、年齢を感じさせない。
彼女の瞳の奥は光を反射せず、深い井戸の底のように静まり返っていた。
「……なにやら浮かない顔をしているね。どうかしたのかい?」
声は穏やかだった。
けれど、その視線は冷たく、ねっとりと纏わりついてくるような湿り気を帯びていた。
表面ではなく、もっと内側を覗き込まれているような感覚がルリノの背筋をぞくりと撫でた。
「いえ大したことは……ただお風呂場で少し転寝をしてしまって……それで〝よくない夢〟を見て……」
〝よくない夢〟。
その言葉に、マリーの唇がゆっくりと持ち上がる。
笑っているのに、まるで別の誰かが口角を引っ張っているかのように不自然な動きだった。
「ほう……〝悪夢〟を見たのかい、それは災難だったね」
「あはは、別に大丈夫ですよ。子供じゃないんですから、怖い夢を見たって平気です」
ルリノは気丈に笑ってみせた。
だが、マリーの視線は少しも揺るがない。
顕微鏡のように冷たく、彼女の表情の揺れをじっと観察していた。
「それにしても風呂場で見た〝悪夢〟か……それってもしかして……」
マリーは首を傾げ、影が伸びるみたいに音もなく一歩近づく。
そして、他人の記憶を勝手にめくるような口ぶりで静かに続けた。
「浴槽に〝自分の体が溶けていく〟……みたいな夢かい?」
「っ!!? ……ど、どうして……それを……!?」
言葉を失ったルリノの顔から血の気が引く。
瞳が怯えに揺れ、両腕が無意識に自分の体を抱きしめていた。
マリーの視線が、ルリノの顔から腕へと下りた。
「ふへへ、なんてことはない。たまにあるんだ、こういうことは。一応私はキミの〝主治医〟……これは医者のカン……いや……」
マリーは一度言葉を切り、顔をわずかに傾げた。
薄い唇がゆっくりと吊り上がり、瞳の奥に淡い光が灯る。
「〝錬金術師〟のカンさ……」
その声は壁に反響し、空気を震わせた。
まるで遠い地下の奥底から、何かが囁いているかのようだった――
第53話は明日の20時10分に投稿です。




