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勇者になりたいのに賞金首になっちゃったボク ~人助けするたびに、懸賞金と仲間が増えていく~ バンディット!!  作者: ちゃんなか
相対する転生者達――グリングリン・ロッジ編

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第51話 “大冒険”

 ――それから2人は電車に揺(ゆ)られ、海を目指した。


 ミドリは、先ほど自動改札機に通した切符(きっぷ)を見つめていた。

 その端(はし)には、小さな穴(あな)が開いている。


「むう。子供料金(こどもりょうきん)って小学生までなんだね……でも私達(わたしたち)も、まだ子供(こども)だと思うのに……」

「そうだね、入院してるのも小児科病棟(びょうとう)だもんね」


 少し損(そん)をしたような気分になり、ミドリは不満そうに口を尖(とが)らせる。

 けれど、すぐに機嫌(きげん)を直すとロマに笑いかけた。


「ねえねえ!! 買い方はもう覚えたから、帰りは私(わたし)が買ってあげるね!!」

「そうかい……じゃあ任(まか)せるよ」


 そんな雑談(ざつだん)をしている間にも、車窓(しゃそう)の景色は緑から青へと変わっていく。


 車輪の響(ひび)きに混(ま)じって、潮(しお)の香りが少しずつ強まっていった――



 ――

 ――――

 ――――――



「――おお~!! すご~い!!」


 駅を出た瞬間(しゅんかん)、視界(しかい)いっぱいに広がる海と砂浜(すなはま)。

 ミドリは両手を広げて、歓声(かんせい)を上げた。


「私(わたし)、自分の目で海を見たのって初めてかも~!!」

「うん……オレも多分、見たことないな……」


 目の前すべてが青。

 それは病院の屋上から見ていた〝空の青〟よりも、ずっと広くて深かった。


「こんなに綺麗(きれい)な砂浜(すなはま)が近くにあって良かった」

「そうだね~。あんまり遠かったら、お金かかっちゃうもんね~」


 ミドリは笑いながら、白い砂(すな)に足跡(あしあと)を残して海の方へ進んでいく。

 風が彼女(かのじょ)の服の裾(すそ)をふわりと揺(ゆ)らした。


「誰(だれ)も泳いでないんだね~」

「まだ泳ぐにはちょっと寒いだろ」

「そっか。確(たし)かに私(わたし)もこのワンピース、ちょっと肌寒(はだざむ)いもん」

「おいおい、体壊(こわ)すなよ……? 元々病人なんだから……ほら」


 ロマは自分のジャケットを差し出した。


「へへ、ありがと……スンスン。ロマくんのにおいだ~」

「嗅(か)ぐな変態(へんたい)……」


 くすくす笑いながら、ミドリはジャケットを羽織(はお)り、波打ち際(ぎわ)へと駆(か)けていく。


「えへへ。ちょっとベタですけど、遊びますか~!」


 靴(くつ)を脱(ぬ)ぎ、勢(いきお)いよく海に足を入れる。


「ひゃ~!! ちべたい!! ……でも気持ちぃ~!!」

「そうか、じゃあオレも……」


 ロマも恐(おそ)る恐(おそ)る足をつけ――


「んおっ……!! ちゅめてッ!!?」


 想像以上(そうぞういじょう)の冷たさに、情(なさ)けない悲鳴が漏(も)れる。


「あはは!! 変な声出てるよ~!!」

「むう……く……」


 腹(はら)を抱(かか)えて笑うミドリに、ロマは顔を赤くしてそっぽを向いた。


「……水とか、かけるなよ? 風邪(かぜ)ひいちゃうからね」

「お? それは『押(お)すな押(お)すなよ』的な……?」

「違(ちが)うよ!! 本気だよ!!!」


 悪戯(いたずら)な笑みを浮(う)かべて構(かま)えるミドリを、ロマが必死に止める。


 2人の足元で、波がゆっくりと寄(よ)せては返す。

 その度に、光の粒(つぶ)が水面で砕(くだ)けて、濡(ぬ)れた足をきらきらと照らした。


 時間が止まっているかのようだった。


 笑い声と潮騒(しおさい)が混(ま)ざり合(あ)い、2人の世界だけが、柔(やわ)らかな陽射(ひざ)しの中に閉(と)じ込(こ)められていた――



 ――

 ――――

 ――――――



 ――やがて一通り遊び終えると、2人は並(なら)んで砂浜(すなはま)に腰(こし)を下ろした。


「ぐにぐに~」

「……ん? なんだ、外にまで持って来てたのか……」


 ミドリの手の中には、いつもの小さなスライム。

 海の光を受けて、緑色の体がキラキラと輝(かがや)いていた。


「だって好きなんだモン、この感触(かんしょく)」


 ミドリは穏(おだ)やかに笑いながら、手の中でスライムを押(お)しつぶす。

 グニ、と音がして、その形がゆっくりと変わる。


「自由に姿(すがた)を変える、ねばねばドロドロ……ふふ、いいなぁ……」


 最後のひと言だけが、ため息のようにこぼれた。

 ロマはその横顔を見つめながら、何故(なぜ)か何も言えずにいた。


「……ねえ……ロマ……昨日聞いたこと、覚えてる?」

「ん? ……ああ『もし、生まれ変わったら』ってやつか」


 ミドリは少し間を置き、波打ち際(ぎわ)を見つめながら呟(つぶや)いた。


「私(わたし)はね……“スライム”になりたいな」

「……ラノベや漫画(まんが)の読(よ)み過(す)ぎだよ」

「む。ロマだけには言われたくないかな」


 ロマの軽口に、ミドリはぷくーっと頬(ほお)を膨(ふく)らませる。

 けれど、その仕草(しぐさ)のあとに、ほんの少しだけ――寂(さび)しそうに笑った。


「ふふ……でもスライムなら形が自由自在(じゆうじざい)だもん。背中(せなか)に翼(つばさ)を生やしたり、ヒレを生やして海で泳いだり……」


 口にしながら、ミドリの視線(しせん)は遠くの水平線へと吸(す)い込(こ)まれていく。


「……そんな風に……自由になって、おっきな世界に飛び出したいな……」

「……ミドリ……」


 そう願うミドリの横顔は、光に透(す)けるように儚(はかな)かった。


 ロマは声をかけようとして――やはり言葉を失う。

 彼女(かのじょ)の想いをどう受け止めればいいのか、いつも分からない。


 波音が2人の間を満たし、沈黙(ちんもく)をやさしく包(つつ)み込(こ)む。

 その静けさを破(やぶ)るように、ミドリが口を開いた。


「さて……それじゃあ次はどこにいきますか?」

「……次は……」


 少し考えて、ロマは顔を上げた。


「劇(げき)を……見に行こう」

「劇(げき)?」

「そう、毎年見てるやつ。正義(せいぎ)のヒーローが悪い怪人(かいじん)をやっつける……子供向(こどもむ)けの劇(げき)さ」

「……それって……」


 ミドリは一瞬(いっしゅん)、目を伏(ふ)せる。

 すぐにその意味を悟(さと)ったのだろう。


「病院に来る……小さな人形劇(にんぎょうげき)だよね……」

「……うん」

「……そっか……」


 ミドリは膝(ひざ)の上で指を組み、しばらく海を見つめた。

 ロマのジャケットを羽織(はお)った肩(かた)が、ゆっくりと落ちる。


「もう終わりか……この〝冒険(ぼうけん)〟も……」

「冒険(ぼうけん)って、ちょっと大げさじゃないかい?」

「ううん、私(わたし)にとっては〝大冒険(だいぼうけん)〟だったよ」


 柔(やわ)らかく笑うその顔は、ロマには壊(こわ)れそうなほど繊細(せんさい)に見えた。

 額(ひたい)に浮(う)かぶ汗(あせ)の粒(つぶ)が、彼女(かのじょ)の頬(ほお)をすべって落ちる。


「……いつからだい? 無理をしていたのは……」

「あちゃ~、バレてましたか……ここに来てからかな」

「……もっと早く、気づくべきだった……」

「ふぇ?」


 ロマはため息をつき、ミドリの手をぎゅっと握(にぎ)った。

 そのまま強引に立たせ、駅の方へ歩き出す。


「も~、ロマくん強引~!!」

「救急車(きゅうきゅうしゃ)を呼(よ)ぶ」

「大丈夫(だいじょうぶ)だって~、それに帰るまでが冒険(ぼうけん)でしょ?」


 明るく笑っているけれど、その手のひらは湿(しめ)っていた。

 ロマは返事の代わりに、ポケットからスマホを取り出す。


「ホントに大丈夫(だいじょうぶ)だって。電車で座(すわ)ってればちょっとは良くなるよ~、だからお願い」


 ミドリの声が、かすかに震(ふる)えていた。

 ロマは何も言わず、助けを呼(よ)ぶため液晶(えきしょう)をタップする。



 だがその背(せ)に、小さな声が落ちた――



「――お願い……〝最後〟かもしれないじゃん……」

「っ……!!」


 その一言で、ロマの手が止まった。

 海風が2人の間をすり抜(ぬ)け、麦(むぎ)わら帽子(ぼうし)の影(かげ)がミドリの表情(ひょうじょう)を隠(かく)す。


「病院の外に出るのなんてさ……もうこれで……〝最後〟かもしれないじゃん……」

「……」


 その言葉は、潮風(しおかぜ)よりもずっと冷たく……そして鋭(するど)く、ロマの胸(むね)の奥(おく)を裂(さ)いた。

 さっきまで耳に入っていた波の音が、急に遠くなる。

 足元の砂(すな)を踏(ふ)む感触(かんしょく)さえ曖昧(あいまい)になって、世界にはただ、ミドリの声だけが残ったような気がした。


 そして――ほんの少しだけ。

 ロマの握(にぎ)る手の力が緩(ゆる)んだ、その瞬間(しゅんかん)――



 ――するり、と。



 ミドリの指が、ロマの手の中から抜(ぬ)けていった。


「えい! スキあり!!」

「あ……!! お、おい!!?」


 そして彼女(かのじょ)は、ロマのスマホを奪(うば)い去(さ)ってしまった。


「へへ!! こっちだよ~!!」


 ミドリはスマホを掴(つか)んだまま、またあの無邪気(むじゃき)な笑顔を浮(う)かべる。

 けれどその笑顔は、さっきまで浜辺(はまべ)で見せていた明るさとはどこか違(ちが)っていた。

 軽やかで、楽しそうで――それなのに、触(ふ)れようとすると指のあいだから零(こぼ)れてしまいそうな、妙(みょう)な遠さがあった。


 彼女(かのじょ)はそのまま、波打ち際(ぎわ)へ駆(か)けていく。


 いや、それだけじゃない。

 白いワンピースの裾(すそ)を揺(ゆ)らしながら、ためらいもなく、さらに先へと進んでいった。


「ちょ……どこまで行く気だ……!! スマホは防水(ぼうすい)だから大丈夫(だいじょうぶ)だけど……いや、てかそんなことより、いい加減(かげん)に……っ!!」


 足首までだった水が、脛(すね)に届(とど)き、やがて彼女(かのじょ)の膝(ひざ)を濡(ぬ)らす。

 ロマもズボンを濡(ぬ)らしながら必死で追いかけるが、なぜか距離(きょり)が縮(ちぢ)まらない。

 腕(うで)を伸(の)ばしきっても、届(とど)きそうで届(とど)かない。

 波が寄(よ)せるたび、ミドリの身体(からだ)は小さく揺(ゆ)れて、そのまま海にさらわれてしまいそうだった。


「おい!!! ミドリィッ!!!!」


 ロマは声の限(かぎ)りに、彼女(かのじょ)の名を呼(よ)んだ――



 ――いかないでくれ。



 そう言おうとした、その時――


「――ねぇ。このまま私(わたし)と、一緒(いっしょ)にいこう?」

「っ!!?」


 ミドリが不意に振(ふ)り返(かえ)り、そこで足を止めた。

 陽を受けた水面がきらきらと揺(ゆ)れて、その向こうに立つ彼女(かのじょ)の輪郭(りんかく)を滲(にじ)ませる。

 ロマは息を呑(の)んだ。


「……いくって……どこに……」

「……あの〝水平線〟の向こうだよ」


 そう言うと彼女(かのじょ)は、こちらに手を伸(の)ばしてきた。


 〝水平線〟――その言葉の意味が、ロマにはわかっていた。



「……」



 なのに……何も言えなかった。


 焦(あせ)っていて、体が熱を持っているのに、背中(せなか)から湧(わ)き上(あ)がるのは強烈(きょうれつ)な悪寒(おかん)。

 身動きが出来なかった。


 再(ふたた)び彼女(かのじょ)が口を開く。


「……ヤッシーが退院(たいいん)した日さ……私(わたし)が言ったこと、覚えてる?」

「え……?」


 ミドリは、水平線の向こうへ目を戻(もど)して続ける。


「独(ひと)りぼっちでいくのは……嫌(いや)だなって……」


(……ああ……そういえば……なんで、忘(わす)れていたんだろう……)


 その言葉で、ロマの中に沈(しず)んでいた記憶(きおく)が一気に浮(う)かび上(あ)がる――




 半年ほど前の、病院の白い屋上。

 フェンスの外の世界。

 あの日の、息が詰(つ)まるような沈黙(ちんもく)。



 そして――ヤッシーがもう戻(もど)ってこないのだと、2人だけが気づいてしまった時のこと――




「――そしたらさ……ロマくんは……」

「オレも一緒(いっしょ)にいくよ」


 ミドリが言い切る前に、ロマはかぶせるように言った。

 あの時の自分と同じように。

 いや、あの時よりも強く、縋(すが)るみたいに。


「……オレも独(ひと)りは嫌(いや)だからさ……だからいく時は……一緒(いっしょ)にいこう」


 そう言って、ロマはミドリの手を強く握(にぎ)った。


「……うん」


 ミドリも、その手をぎゅっと握(にぎ)り返(かえ)す――




 ――真昼の太陽に照らされ、きらめく波が2人の足元で揺(ゆ)れていた。


 このまま歩き続ければ、本当にこの世の果てまで行けてしまうんじゃないか。

 そんな錯覚(さっかく)すら抱(いだ)かせる、青くて眩(まぶ)しい海だった。



 けれど、ロマは小さく呟(つぶや)く――



「――でも……今日じゃない」

「……!!」


 その瞬間(しゅんかん)、ミドリの瞳(ひとみ)が大きく揺(ゆ)れた。

 それが驚(おどろ)きなのか、悲しみなのか、あるいはその両方なのか、ロマにはわからない。


「でも……いつか必ず……一緒(いっしょ)に……」

「……そっか……」


 ミドリはそれだけ言って、ふっと微笑(ほほえ)んだ。

 見慣(みな)れた、やわらかい笑みだった。

 でもその奥(おく)には、今まで見たことがないほど深い暗さが沈(しず)んでいる。


「……それじゃあ……ここから、どうしよっか」


 その一言に、ロマは唇(くちびる)を噛(か)んだ。


 胸(むね)の奥(おく)が、何本もの針(はり)で突(つ)き刺(さ)されたみたいに痛(いた)い。

 それでも、何か言わなきゃいけない。

 そうしなければ、本当に彼女(かのじょ)がどこか遠くへ行ってしまう気がした。


 心臓(しんぞう)の音が、耳のすぐそばで鳴っている。

 波の音も、風の音も、今は全部その鼓動(こどう)に押(お)し流(なが)されそうだった。

 焦(こ)げつくような沈黙(ちんもく)の中、ロマは必死に言葉を探(さが)す。


(助けを呼(よ)ばないと……すぐに戻(もど)らないと……でも……っ!!)


 そう、今の最善策(さいぜんさく)はきっとそれなのだろう。

 でもそんな正しさをそのままぶつけたら、きっと……


(そんな事をしたら……ミドリはもう一度、手を離(はな)してしまう……)


 だから。


 せめて。


 少しでも、今日の続きを歩いていく理由になるような言葉を――




 ――やっとの思いで、ロマの唇(くちびる)からこぼれたのは、どうしようもなく不器用(ぶきよう)な一言だった。



「――切符(きっぷ)の買い方は……覚えてるかい?」



 ――

 ――――

 ――――――



 ――電車に揺(ゆ)られる2人。

 ゆっくりと流れる景色の中、ミドリはロマの肩(かた)に頭を預(あず)けていた。


「……お腹(はら)……空いたね」

「ちょうど昼過(ひるす)ぎだからね」

「そっか……まだそんな時間なんだ……」


 窓(まど)から差(さ)し込(こ)む陽光(ようこう)が、ミドリのまつげを照らす。

 彼女(かのじょ)は目を閉(と)じたまま、小さく息をついた。


「短い……〝大冒険(だいぼうけん)〟だったな……」


 その声は、波打ち際(ぎわ)で弾(はじ)ける泡(あわ)みたいに、かすかに揺(ゆ)れて消えていく。

 ロマは、その言葉を聞き流すことが出来なかった。

 だからこそ、普段(ふだん)なら喉(のど)につかえて出てこないような言葉を、無理やり押(お)し出(だ)す。


「……〝最後〟……なんかじゃない……っ!!」

「……へ?」

「次は……山に行こう。少し遠いけど、綺麗(きれい)な港町が一望出来る展望台(てんぼうだい)があるんだ」

「……展望台(てんぼうだい)……」


 ミドリはその響(ひび)きを確(たし)かめるみたいに繰(く)り返(かえ)すと、ふっと口元を緩(ゆる)めた。


「うん……! ぜったい、いこ……っ!!」


 その笑顔は、雲の切れ間から一瞬(いっしゅん)だけのぞいた日差しのようだった。



 そして……その直後。



 ぐぅ~~……。


 間の抜(ぬ)けた音が、静かな車内にはっきり響(ひび)いた。


「えへへ……気分が良くなったらお腹(はら)が鳴っちゃった」

「駅で何か食べていこうか」

「うん、そうする」


 ミドリは少し照れくさそうに笑い、こくりとうなずく。

 その仕草(しぐさ)に、ロマも少しだけ肩(かた)の力を抜(ぬ)いた。



 ――やがて彼女(かのじょ)のまぶたは、静かに閉(と)じていった。



「……すぅ……すぅ……」

「はは……呑気(のんき)なもんだ、ホントに……」


 そう呟(つぶや)いた声も、だんだんと霞(かす)んでいく。

 車輪の音が一定のリズムを刻(きざ)み、眠気(ねむけ)を誘(さそ)った。


 まどろみの中、ロマは返してもらったスマホを取り出す。


「……アラームかけよう……オレも少し……眠(ねむ)く……」


 そうしてロマも、ゆっくりと……その意識(いしき)を手放した――



 ――

 ――――

 ――――――



 ――鳥のさえずりが聞こえる。

 潮(しお)の香りは、もうしない。

 気がつけば、電車の揺(ゆ)れも消えていた。



 朝。



 そこは、グリングリン・ロッジの外れにある小屋だった。


(……ああ……やっぱりか……昨夜は……)


 ロマはゆっくりと体を起こす。

 視界(しかい)に映(うつ)るのは、埃(ほこり)の積もった机(つくえ)、乱雑(らんざつ)に置かれた実験器具(じっけんきぐ)、薬の染(し)みた床(ゆか)――



 ――ここは異世界(いせかい)。



 白い清潔(せいけつ)な病室ではない。

 自分はもう、あの頃(ころ)みたいに病に縛(しば)られた子供(こども)でもない。



 そして――悪戯(いたずら)っぽく笑う彼女(かのじょ)も、ここにはいない――



「――最悪の……夢見(ゆめみ)だった……」


 掠(かす)れた声が、冷えた空気に落ちる。

 その直後、頬(ほお)を伝ったものが顎先(あごさき)でひとしずくにまとまり、音もなく手のひらの上へ落ちた。

 第52話は明日の20時10分に投稿(とうこう)です。

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