第50話 “バックナンバー”
「長い夢? こんな賑やかな場所でよく寝られるね。寝不足?」
「ああ、まあ……そんなとこ……」
ミドリが首を傾げて、ロマの顔を覗き込む。
その仕草に合わせて、カーディガンと病衣の襟元がフワ……と揺れる。
ロマの心臓が、反射的に跳ねた。
「あ……い、いや……それよりも! 輪ゴムを飛ばしてくるなっ!! 輪ゴムを!!」
ロマは顔を背け、慌てて声を張り上げた。
「え〜、だってロマ好きでしょ? “ゴムゴムの~”って」
ミドリはクスクスと笑い、ロマが手にしていた漫画を指さす。
「再現度低すぎだろ……それじゃあ“ウソップ輪ゴーム”だぞ」
ロマが呆れたように睨むと、ミドリは舌を出して笑った。
「そっか、じゃあ次はもっと頑張るね!!」
「頑張らんでいい、そんなこと……」
変なところで気合いを入れようとするミドリに、ロマはすかさず待ったをかける。
「はぁ……全く、面白いところだったのに……」
ロマは漫画を閉じ、深くため息をつくと、のそのそと腰を上げた。
「お、今日も行きますか?」
「うん……今日も付いてくるのかい?」
「もちろん!」
ロマの返事に、ミドリは弾むような声で答え、トコトコとその背を追う。
彼の歩幅に合わせて小走りになるその足音が、なんとも軽やかだった。
「バレるなよ? ダルい事になるから」
「わかってるよ〜!!」
そう言って、ミドリは少しだけ足音を小さくする。
2人はこっそりと、階段を登っていった――
――
――――
――――――
――病院の屋上。
分厚い鉄扉を抜けた瞬間、ひんやりとした空気と共に、青が広がった。
雲ひとつない空が、まるでガラスのように透き通って見える。
風の音だけが通り抜ける屋上に、カポッ……と小さな音が響いた。
「うへへ~。ねばねばドロドロ~、気持ちいい~♪」
ミドリの手には、ぷるんと光を反射するゲル状のモノ。
半透明の緑色のスライム玩具を、子供のように握っては伸ばしている。
「屋上まで来てやることが、それか?」
ロマは半ば呆れ顔で、ミドリの方を見た。
けれどその声には、どこか安心したような色も混じっていた。
「だって気持ちいいンだモン、スライム~。輪ゴムもそうだけど、自由に伸び縮みするモノが好きなんだ~!!」
ミドリはケラケラと笑いながら、屋上のフェンスの方へと歩いていく。
パタパタと、スリッパがコンクリートを叩く。
「……いい風だね〜」
「そうだね……」
ミドリは目を細めて、スライムを握ったまま両腕を広げる。
淡い緑の病衣の裾が風に揺れ、栗色の髪がサラサラとたなびいた。
「このまま風に乗って、どこかに飛んで行っちゃいたいな~」
「……どこか……ね……」
ミドリはフェンスの前に立ち、遠くを見つめた。
街並みの向こうに広がる青空、ビルの間を抜ける車の音。
屋上の世界だけが取り残されたように静かで、どこか現実感が薄い。
「ねえロマ、“旅行するならどこに行きたい?”」
「はは……旅行か……」
どこかで聞いたことのある言葉に、ロマは小さく笑う。
空を仰ぎ、まぶしそうに目を細めながら呟いた。
「……海……かな……きれいな海が見たい。いや、森でもいいな……とにかく、自然がいっぱいなところ……」
「自然か、いいね~」
「……ミドリは?」
「え? 私……? そうだな~、私は……」
そう言ってミドリは少し考えた後、風に髪をなびかせながら小さく笑った。
「ここではない……どこかかな」
「なんだよそれ。つまりどこでもいいってことじゃないか……」
「違うよ~! ここじゃない、どこかだって!!」
頬をぷくっと膨らませる仕草が、あまりにもいつも通りで、ロマは思わず口元を緩めた。
けれどミドリは、ふっと表情を曇らせる。
視線はフェンスの向こう――空の彼方、どこまでも続く青の方へ向いていた。
「……でも……そうだね。病院の外に出られるのなら、どこでもいいのかも……」
彼女の声は風にかき消されそうに小さかった。
しばし、2人の間に沈黙が流れる。
そして、ミドリがゆっくりと口を開く。
「そういえば……〝ヤッシー〟……元気にしてるかな?」
〝ヤッシー〟。久々に聞いた響きに、ロマは少し口を緩める。
「ああ……あいつ、退院してからもう半年は経つんだっけ……」
〝ヤッシー〟はこの病院で同じように長く入院していた仲間だった。
歳もロマとミドリに近く、3人でよく遊んでいた。
「全く……手紙の1つも寄こさないなんてさ、薄情な奴だよな……」
「あはは、ホントにね~。外の生活が楽し過ぎて、私達の事なんか忘れちゃったのかな……?」
ミドリが冗談めかしてそう言うと、ロマもつられて少し笑う。
そうして、会話はまた途切れた――
――屋上で並んで、ただ風を感じる時間。
無理に話さなくてもいい、心地の良いひととき――
――そう、普段なら。
「……ううん……本当は嘘……」
ミドリの冷たい声が、沈黙を切り裂いた。
「ヤッシー、退院なんかしてない……」
ミドリは俯いたまま、静かに続ける。
「ヤッシー……本当は死んじゃったんだよ、先生達は隠しているけど……」
唐突に落とされた現実。
ミドリは思わず、ギュッと手に持っていたスライムを握りしめた。
ぷに、と小さな音が鳴る。
けれどロマは動揺することもなく、わずかに瞼を閉じて息を吐いた。
「……うん……そうだろうね……」
その返事は、悲しみよりも、ただ受け入れるような静けさを帯びていた。
「別れも言わずに、唐突に退院だって言われた……まあ、不自然だよね……」
「はは、先生も小さい子達にショックを与えないように言ったのかな~……まあ、流石に私達は気づいちゃうけど……」
笑いながら話しているはずなのに、どこか空気は重い。
それでも風だけは変わらず吹いていて、髪と病衣を優しく撫でていく。
まるで、彼らの言葉のひとつひとつを、空の彼方へ運ぶように。
「……ヤッシーはさ……幸せ……だったかな……?」
今にも消えてしまいそうなほど、か細い声。
ロマはその問いに、すぐには答えられなかった。
「さあ……楽しそうにはしてたけどね……」
やっとのことで出た言葉は、風の中にすぐ溶けていった。
「ヤッシー……確か5歳で入院したんだっけ。それから10年間はずっと病院の中で……」
ミドリの声は微かに震えていた。
それは自分達の未来も、重ねてしまってるような響きだった。
「私も……このままずっと、病院の中で生きていくのかな……?」
問いかけたミドリの瞳には、淡い光と影が揺れている。
「……それが……私の……人生……」
ミドリはふと、手元に視線を落とす。
半透明の緑色のスライムを何度かこねくり返し、しばらくしてから小さく息を吐いた。
「……たった、〝一度きりの人生〟……」
短い言葉。
けれど、その響きには、彼女がどれほどその言葉の意味を考え続けてきたかが滲んでいた。
「〝だから好きなことをしなきゃ〟とか〝夢をかなえなきゃ〟〝やるべきことをやらなくちゃ〟……とか、続く言葉は星の数ほどあるけど……」
ミドリは手の中のスライムを、指先で細く引き伸ばした。
「そんな言葉を言える人は、きっと……このフェンスの外側で、〝自由に生きてる〟人達なんだろうな……」
声の調子は明るい。
けれどその笑顔は、陽光を受けながらも、今にも泣き出してしまいそうだった。
ロマは一歩踏み出し、何かを言おうと唇を開く――が、声は出ない。
差し出しかけた手を、彼はそっと下ろした。
そんな彼の気持ちを察したのか、ミドリは静かに振り返る。
そして、目を細めて微笑んだ。
「ねえ、ロマくん……キミはさ――」
風の音の中、優しく、けれど少し震える声が届く。
「――もし、生まれ変われるなら――〝ナニ〟になりたい?」
「……」
その言葉は……白い屋上の空に、溶けていった――
――
――――
――――――
――夜、病院のベッドの上。
ロマは天井を見つめながら、昼間の事を思い出していた――
『――もし、生まれ変われるなら――〝ナニ〟になりたい?』
(……生まれ変わる……か……)
ミドリの言葉を、何度も頭の中で反芻する。
答えのない思考を抱えたまま、ロマは寝返りを打った。
カーテンの隙間から、街の灯りが淡く差し込んでいる。
「……たった、〝一度きりの人生〟……」
短くも重い言葉。
ロマはぽつりと呟き、まぶたを閉じた――
――
――――
――――――
――翌朝。
その日も快晴だった。
風が頬を撫で、木々の隙間からこぼれる陽光がまぶしくて……それだけで、世界がやけに広く感じられた――
「……はあ……」
ロマはベンチに腰かけ、見慣れない空を仰いでため息をついた。
そんなとき、不意に……聞こえるはずのない声が響いた。
「“ゴムゴムの〜銃”!!!」
「うあ"痛ってェッ!!?」
バシィ!! と乾いた音が公園に響き、ロマの額に鋭い衝撃が走る。
昨日よりもはるかに強い一撃に、ロマはその場にうずくまった。
額を押さえたまま顔を上げると、そこにはいつものミドリの笑顔があった。
手には割りばしで作ったゴム鉄砲を握っている。
「えへへ~!! どうだったかな? 私の銃の威力は」
「あぁ……昨日と比べたら随分と再現度が上がったね……だけどそれをオレで試すな……っ!!」
いつもと変わらない何気ないやり取り、けれど、その姿は見慣れたモノとは違っていた。
薄い緑色の病衣ではなく、真っ白なノースリーブのワンピース。
袖口には可愛らしいフリルがあしらわれ、裾は風を受けて軽やかに揺れている。
頭には、つばの広い麦わら帽子。
差し込む朝の光を反射して、彼女の輪郭がふっとかすむ。
まるで、陽だまりに溶けて消えてしまいそうなほど、眩しかった。
「……随分可愛らしい格好だね。お嬢さん、お出かけかい?」
「ありがとう! うん、〝病院から抜け出した悪い子〟を探しに来たんだ~」
ミドリは悪戯っぽく笑いながら、その〝悪い子〟へと歩み寄る。
「ふふ、ロマ君もかっこいいよ」
「そうかい、どうもありがとう」
ロマもまた、病衣ではなく深緑のジャケットを羽織っていた。
白いシャツに黒いジーンズ――それだけの違いなのに、まるで別人のように見える。
「念のために病室に置いてあった外用の服だけど、今まで着ることなかったんだよな……」
「私もそう! これよりも前に、もう小さくなっちゃって一度も着ずに捨てちゃった服もあったな~」
そう言いながらミドリはロマの隣に腰を下ろし、少し息をついた。
「……ここがよくわかったね」
「うん。近くで自然がいっぱいなところって、この公園かなって」
小さく笑いながら、ミドリは手を伸ばし、風にそよぐ木の葉をすくうように掴もうとする。
朝の光が2人の影を長く伸ばし、静かな時間が流れた――
――やがて、ミドリが顔を上げて言った。
「さて――それじゃあ次は、海にでも行きますか?」
「……〝悪い子〟を捕まえに来たんじゃないのかい?」
ロマが肩をすくめると、ミドリはぺろっと舌を出した。
「えへへ!! 残念! 私も〝悪い子〟でした!!」
その言葉に、ロマはやれやれと小さくため息をつく。
第51話は明日の20時10分に投稿です。




