第24話 “涙”
『26日目……
日記書いてるうちに夜が明けちゃった……多分今日で、日記を書くのは最後かな。
今からあの子の元へ行きます……これが……あの子に会える最後です――』
「――この先……今までで、一番文字が崩れてる……ぐちゃぐちゃで……これ、なんて書いて……あ……っ!!」
目を凝らした少女の視界に、崩れた文字の隙間から……悲痛な叫びが飛び込んでくる――
――
――――
――――――
――手記を閉じ、チーシャは震える体で席を立った。
(……早く……早くあの子の元へ、行かないと……私も、もう……っ!!)
立ち上がっただけで……視界が一瞬暗くなる。
机の端を握ってなんとか体を支えた。
それでも止まれない。
もう時間は残されていないと、本能が告げていた。
あらかじめ荷を詰めていたリュックを背負う。
背負ったはずの重みが、自分ではない誰かの身体にかかっているようだった。
自分の体が、自分のものではなくなっていくような――そんな嫌な感覚。
それでも、足を動かす。
あの子だけは、生きてほしい。
その思いだけが、今の自分を立たせていた――
――地下室の鉄の扉を押し開ける。
キィ……と鈍い音が響く。
いつもはなんでもない重さが、今日はやけに腕に食い込んだ。
「……んく……っ!! ふぅ……」
わずかに息が漏れる。
家からここまで歩いただけで、息はすでに乱れていた。
足元を確かめながら、1段ずつ階段を降りていく。
地下へ近づくにつれ、空気は冷えていく。
それなのに、身体の内側だけが熱を持っていた。
こんな場所に……ずっと閉じ込めていた。
罪悪感が、足取りをさらに重くした。
そして――
薄暗い地下室の簡素なベッドの上。
膝を抱え、小さくなっている少女の姿があった。
「……おかあさん?」
いつもより早い時間に現れた母を見て、少女の表情に、わずかな不安が浮かぶ。
「……立って、子猫ちゃん……ここから出るわよ……」
「……え?」
少女は、驚いたように瞬きを繰り返した。
無理もない、突然のことだ。
でも……説明している時間はない。
チーシャは鉄格子を開け、そっと少女の腕を取った。
……細い。
思っていたよりも、ずっと軽い。
「…………」
数週間ぶりに地上へ出るというのに、少女の顔は晴れなかった。
(……あんなに外に出たがっていたのに……まだ警戒しているのかしら……? 無理もないわね……)
当然だった。自分達がしてきたことを思えば。
『あなたの為だった』
――なんて、言い訳も出来ない。
それでも、守るしかなかった。
扉の向こうから流れ込む外気が、ふたりの頬を撫でる。
光は白く鈍く、目に刺さるようだった。
(……っ!!)
喉元まで、込み上げてくるモノが……
だが……
(せ、咳が……!! でも、我慢しないと……ッ!!)
そう、ここで咳をしてはいけない。
娘に気づかれてはいけない。
唇を噛み、呼吸を浅く刻む。
肺が悲鳴を上げているのに、顔だけは何事もないように装った。
少女の足取りはまだおぼつかない。
母に手を引かれながら、慎重に、1歩ずつ。
久しぶりの地上へ……ふたりは歩き出した――
――外は曇天だった。
重たい雲が村の上空を覆い、陽の光を薄い灰色に削っている。
夜は明けたはずなのに、辺りは薄暗く、景色の輪郭もぼんやり滲んで見えた。
村は……静まり返っていた。
かつて慣れ親しんだ家々は、何ひとつ変わらない形で並んでいるのに。
人の姿だけが、どこにもない。
気配が消えた、というより――最初から誰もいなかったみたいに、音がない。
遠くの鳥の声すら途切れがちで、風が屋根を撫でても、どの家も応えなかった。
もう住人は、ほとんど居なくなってしまった。
窓は閉ざされ、扉には鍵。
まるで村そのものが、息を潜めて喪に服しているみたいだった。
「……にゃんで……誰もいないの……?」
「……っ」
チーシャは、出かかった言葉を喉の奥へ飲み込んだ。
答えが出ないのではない……言えない。口にすれば、娘にも病気がうつってしまうかもしれない。
病気の存在を知ると、感染してしまう――その迷信が、2人を苦しめる。
その沈黙のせいで、少女の表情はさらに曇っていく。
不安が、目の奥で濁っていくのがわかった。
(ごめん……早く……!! 早くこの村から、あなたを……!!)
チーシャは何も言えないまま、娘の手を引いた。
歩みを急ぐほど、握った小さな指は、ますますこわばっていった。
追い立てるみたいな歩幅になっていると気づいても、止まれなかった。
少女の胸に芽生えた、黒い想像に……気づかぬふりをするしかなかった――
――そして。
「……え? ……ここは……」
辿り着いたのは、村の外れ。
木々のざわめきが遠くから聞こえる、森の入口だった。
村の最後の家を背にすると、空気の匂いが少し変わる。
湿った土と、青い葉の匂い。
「……ねえ、おかあさん。ここ……なんで……?」
「…………」
問いかける声が、縋るように細くなる。
チーシャは答えられず、背負っていたリュックをゆっくり降ろした。
そのまま、それを少女の胸元へ押しつける。
ズシリと重い。
「……なに……これ……」
「……っ!!」
リュックを抱えた少女の腕が、かすかに震えていた。
重さのせい……ではない。
(怯えてる……次の私の一言が……この子にとって、どれだけ恐ろしいものになるか、考えてる……)
そう、自分の言葉を……娘は恐れている。
母である……自分の言葉を……
そしてその予感は……残酷なほど正しかった。
チーシャが返したのは……たった一言――
「――この村から、出なさい」
「――え……?」
少女は固まった……
そして、小さく首を横に振った。
拒絶が、言葉より先に体から溢れた。
「な、なんで……? なんでそんなこと……っ!!」
声がかすれ、涙がじわりと滲む。
震えているのは喉だけじゃない。指先も、肩も、全部が。
「ねえ……ミャー、なにか悪いことしたの……? なんで……なんで独りで行かなきゃいけないの……?」
小さな手が、チーシャの服のすそをつかむ。
力は弱い。
それでも、その指先の感触はチーシャの心を強くかき乱した。
「……いやだよ……ミャー、いやだ……! ずっとこの村に居たいよ……っ! おかあさん……!!」
「っ……!!」
悲痛な声……ホントは頭を撫で、慰めてあげたい。
けれど……チーシャの体は動かなかった。
目を伏せたまま、まるで自分の心ごと固まったみたいに。
(ごめん……ごめん、子猫ちゃん……ッ!!)
「……これからは……独りで……生きていきなさい……」
絞り出した声は――冷たく聞こえるように作ったモノだった。
優しくしたら、ここで終われない。
泣いたら、抱きしめてしまう。
「やだ……やだぁ……っ!! もう勝手に村の外に出ないからァ……!!!」
少女は膝から崩れながら、チーシャにしがみつく。
その体温が、必死さが、固めたはずの決意を揺らがせる。
「ごめんなさい……っ!! 家から抜け出してごめんなさい……!!! 地下室でご飯に文句言ってごめんなさい……!!!
おかあさんの大事にしてた花瓶割ってごめんなさい……!!! 村の秘密の倉庫に入ってごめんなさい……!!!
これからは、おかあさんの言うこと……みんなの言うこと、全部ちゃんと聞くからぁ……っ!!」
少女は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、思いつく限りの謝罪を絞り出す。
その健気さが、痛い。
(違う……!! あなたはなにも、悪くない……ッ!!!)
言いたいのに、喉が閉じる。
(うぐ……!! 限界が……近い……ッ!!!)
わずかな道のりでさえ、呼吸はもう細切れになっていた。
体の奥で、見えない秒針が終わりへ向かって進んでいる。
「……もう……無理なの……限界なの……この村は……ッ!!」
「限界……? にゃんで……それって……」
少女の顔から色が引いていく。
理解が追いつくより先に、予感が形になる。
「どうじでェ……どうじでェ……ッ!!!」
涙と嗚咽が絡まって、声が言葉にならない。
その叫びを聞くたび、前へ進ませなければという気持ちが、少しずつ削がれていく。
「……ッ……!!」
今まで聞いたことのない壊れた声。
(……ッ!! ホントは抱き返したい……最後の瞬間まで、一緒に居たい……!! でもこの村は……この村のみんなは……もう……ッ!!!)
記憶の中で、かつての村の景色が息を吹き返す。
チーシャは、生まれてからずっとここにいた。
森を走り回った日々。
村の誰かと交わした、取るに足らない会話。
それらは全部、もう戻らない。
みんな――みんな、いなくなった。
涙が込み上げる。
必死に堪えようとするが……それと同時に、涙とは別のものが喉の奥からせり上がってくる。
(……ッ!!? ング……ッ!!! 胸が……もう、体が……ッ!!!)
声を漏らすまいと、爪が食い込むほど拳を握り締めた。
倒れたら終わる。ここで倒れたら、この子は――村へ戻ってしまう。
「ひぐ……!! やだぁ……!!! いやだぁ……ッ!!!」
少女の折れそうな細い腕が、最後の命綱みたいにチーシャの服を掴んで離さない。
(引きはがさないと……早く……!!! 早くこの子を……ッ!!!)
わかっている。
わかっているのに――手が、動かない。
抱きしめたい心と、突き放せと叫ぶ理性が、噛み合わない。
――そして。
「――もうみんな……会えないのよッ!!!」
叫ぶと同時に、チーシャの腕から、堪えていた力が弾けた。
振りほどくつもりだった。
ただ、離して、前へ進ませるだけの――はずだった。
けれど――
ドンッ!!
手のひらに、柔らかい衝撃が返ってくる。
そして……
少女の身体が跳ね、地面に叩きつけられる。
「あうッ!!?」
「……あ……っ!!」
尻もちをついた彼女が、目を丸くする。
信じられない、という顔で――母を見上げた。
今、自分が何をしたのか。
理解するより先に、手が震え始める。
(あ……なんて……ことを……わた、しは……!!)
倒れた娘を見下ろした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
抱き起こしたい。
謝りたい。
今すぐ全部……取り消したい。
――でも……それは出来ない。
(……いや……これでいいんだ……ッ!! この子を……村から出すには……これで……ッ!!!)
チーシャは、泣き出しそうな顔を無理やり冷たく固めた。
「……おとうさんにも……シヤくんにも……みんな……みんなもう……ッ!!」
「え……?」
チーシャが告げたのは、少女が村の中でも特に親しくしていた人達の名前だった。
その名前が意味するものを、身体だけが先に悟った。
「ううううゥ……!!! うええええェ……っ!!」
堰を切ったように、少女の顔から雫が落ちていく。
涎も鼻水も……そのすべてが。
「にゃんだよォ……!! にゃんで……みんにゃァ……ッ!!!」
悲しみ。怒り。裏切り。
子供の心に収まりきらない感情が、表情の奥で絡まり合っているのがわかる。
(……っ!! こんな……こんな酷いこと……私は……!! うぐッ!!?)
悲痛なその姿を見て、チーシャに限界が来る。
そして体と心は、娘を突き飛ばしたことに耐えきれず、その場に崩れ落ちた。
「はァ……はァ……っ……!!」
(苦しい……!! 立っていることすら出来ない……でも……ッ!!!)
肩で息をしながら、うわずった声で叫ぶ。
「はやく……!! 行きなさい……ッ!! 森を抜けて……街道を東に半日近く歩いたら……町がある……!!!」
こんな言い方しか出来ない。
言葉の裏に、〝生きて〟という想いを隠す。
それだけは、伝えなきゃいけない。
けれど、返ってきたのは――
「……ばか……バカァ……ッ!」
「……ッ!!!」
少女の口から、恨み言がこぼれ落ちる。
たった一言で、最後まで保っていた母親の顔が、崩れそうになる。
(ああああああ……ッ!!! 違うの……私は……あなたを……ッ!!!)
最愛の娘からの罵倒。
後悔と悲しみが一気に押し寄せ、視界が滲む。
それでも――最後の力を振り絞って叫ぶ。
「行きなさい!!! ミヤ――!!!」
名前を言おうとした。
呼び止めるためじゃない。
せめて最後に、〝大好き〟を乗せたかった。
けれど――
「――おかあさんのバカあ"あ"あ"あ"ああああああああああああ"あ"あ"ァ"!"!"!"!"」
言葉は遮られ、少女が全身で叫び返す。
その声は、ひっくり返って、割れて、もう言葉の形すら保っていなかった。
彼女はリュックを抱え、地を蹴った。
大粒の涙を地面へ零しながら、ただ森へ、森へと駆け出していく。
「う"わ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あああああああ"あ"あ"あ"あああ"あ"あ"ああああああ"あああァ!!!!
あ"あ"あ"ああああああああ"あ"あ"ああああああああああああああああ"あ"あ"あ"あああああああ"あ"あ"あ"ああァ"ァ"ッッ!"!!!」
悲痛な叫びが、曇り空の森へ吸い込まれていく。
冷たい風が木々を揺らし、枝葉がざわざわと鳴った。
――まるで、泣き声を隠すみたいに。
背中も声も、瞬く間に遠ざかる。
届きもしないのに……届いちゃいけないのに、チーシャは無意識にその手を伸ばす。
「うう……うああああああ……!! ミヤ――ゲホッ!!! ゴッホォッ!!!」
抑えきれなくなった咳が、湿った音を立てて溢れ出す。
口を押さえた指の隙間から、赤が滲んでいた。
「……あ……ッ!! ゴボッ!! オエェッボ……ッ!! ……ヒュー……ヒュー……」
息が、吸えない。
肺の奥が焼ける。世界が歪む。
森の奥へ消えていく娘の背中だけが、滲んで見えた。
――もう、追えない。追ってはいけない。
「う"わあ"あ"ア"ア"ア"アアアア"ア"ア"ア"アあ"ッ!!!!"
あ"あ"ア"ア"アアアアア"ア"ア"ア"アア"アアアアアア"あ"ッッ!!!!"!"!」
叫びが、悲しみが、後悔が、壊れた息と一緒に漏れ出す。
(最後なのに……!! これでもう……会えないのに……ッ!!! こんな……別れ方……ッ!!!!)
「ごめんなさい……!! ごめんなさい……!!
うわ"あ"あ"アアアアアアああ"あ"あ"あ"あああああアアァァァァァぁぁぁ"ぁ"ぁ"ぁ"……ッ!!!」
声は震え、言葉は崩れ、涙と一緒に落ちた。
うずくまる母の嗚咽だけが、冷えた空気を細く震わせていた。
そして、静かな村に……チーシャひとりだけが、取り残された――
――
――――
――――――
『――あの子を……追い出してしまった……っ!!!
なんで……どうして……!! こんな形でしか……伝えられなかったの……ッ!!!
最後なのに……言い合いになって……あの子は泣き叫んでた……』
「……っ!!! おがあざん……!!!」
声が潰れた。
息を吸おうとしても嗚咽に押し返され、喉から痛い音しか出てこない。
少女の中で、あの日の情景が、焼けつくような鮮明さで蘇る――
『――この村から、出なさい』
幼い日の記憶。
無慈悲に突き放された、あの言葉。
けれど今は、違う。
冷たい刃だと思っていたあの一言は、自分を傷つけるためのものではなかった。
死にゆく村から少女を切り離すために、母が選んだ――あまりにも痛い優しさだった。
長いあいだ、胸の奥に刺さり続けていた棘。
その正体が〝愛〟だったと知ったことが、今は何より痛かった。
『いや、いいんだ……!! これで……!!
もう余裕はなかった……立っているのもやっとだった……声を出すのもやっとだった……
だからあれしか、出来なかった……!!
万が一にも……あの子にうつさない為……
万が一にも……あの子が振り返らない為……
でも、やっぱり苦しい……ごめん……ごめんね……!!! 子猫ちゃん……っ!!!!』
文字が、震えている。
いや……紙の上の文字じゃない。
その奥で、母の呼吸が震えている。熱と咳と、泣き声を噛み殺す喉の痛みまで、伝わってくる。
「うぐゥ……!! うう……っ!!!」
少女は声を詰まらせ、嗚咽を押し殺す――
『――これからは……独りで……生きていきなさい……』
あまりにも冷たく、残酷で。
何度も心の中で繰り返し、呪いのように恨んだ言葉。
でも……少女は知っていた。
見ないふりをしてきた。
あの時、母の頬を伝った……たった一筋の〝涙〟を――
『――後悔だらけだけど……自分勝手だけど……でも、最後に……あなたへの感謝の言葉を記させて――
――
――――
――――――
――ねえ……〝見てるんでしょ〟? 子猫ちゃん……』
「――ふぇ……?」
日記の文面は、確かに――今この場にいる〝自分〟へ向けられていた。
『この日記を見る可能性がある人なんて……きっとあなただけだもの……
本当にごめんね、こんな情けない母親で……』
「……っ!! そんにゃことない……!!! おかあさんは……ミャーにとって……大切な……っ!!」
もはや手記を読んでいるとは言えない。これは会話だ。
文字を通して、過去と現在が交差する。
『こんな私に……資格なんてないかもしれないけど……
こんな私が……残していい言葉じゃないかもしれないけど……
けれど、こんな私の……大切な――」
――その時だった。
少女の瞳には、確かに〝映っていた〟。
「……え……? おかあ……さん……?」
泣き腫らした目。
穏やかな微笑み。
もう、いるはずのない……母――チーシャの姿が……そこに――
「――こんな私の……娘になってくれてありがとう…………!!!
私はあなたのおかあさんになれて、幸せでした……!!」
その言葉が届いた瞬間、少女の中で、長いあいだ閉ざされていた扉が音もなく開いた。
「お……おかあ……さ……っ!!」
母に手を伸ばす……
だが……その指先が触れるより先に、チーシャの輪郭は、ゆっくりと薄くなる。
光の粒みたいにほどけて、空気の中に溶けて……
消えた――
「う"わ"あ"あ"あ"あ"あ"あああぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁぁぁぁぁあああああ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"ああああ"あ"あ"あ"あ"あ"あああ"あ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁああああアアアア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"アアアアアアあああああああ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あああああああああああああああ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あああああァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァァァァッ"ッ"ッッ!"!"!"!"」
「っ!!? ミーちゃァん!!!」
絶叫が少女の身体を突き抜けた。
呼吸も、声も、思考も、ぜんぶ間に合わない。
少女は手記を投げ出し、気づけば走り出していた。
どこへ? なぜ? そんなことはもう、どうでもよかった。
ただ――
(――ホントはわかってたんだ……あの時、おかあさんは何かを背負っていたんだって……!!
……何か理由があるんだって……だけど……!!!)
少女の足が自然と向かったのは、村の奥だった。
何度も往復した道。草の匂い、土の感触、角を曲がる癖まで覚えている。
その先にあったのは――
(――村から離れることが悲しくて……みんなと会えないことが悲しくて……
それで気づかないふりをしてた……っ!! 恨むことで……悲しみを紛らわせてた……!!!)
出発前には泥のように混ざり合っていた感情が、走るたび、ひとつの答えへ澄んでいく――
『――だから……だから問いただしたい……!!
にゃんであの日、ミャーを牢屋に閉じ込めたのか……
にゃんであの日、ミャーを村から追い出したのか……!!
問いただして……それで……!!! あれ……?
それで……ミャーは……
〝なに〟がしたいんだ……?』
(――そうだ……ミャーは、ただもう一度――)
――少女の足が、1軒の家の前で止まる。
それは、かつて母チーシャと2人で暮らした家だった。
「おがあさんっ!!!」
恐怖はあった。けれど、確かめずにはいられなかった。
少女はためらいなく、扉を開け放った――
そして――
「……っ!!! あ……あ゛あ……っ!!」
息が、止まる。
そこにいたのは――
ひとつの人影。
家の床に、まるで少女の帰りを待っていたかのように静かに座っていた。
着ている服は、あの日のまま。
胸元には、少女が幼い頃に贈った白い花のブローチ。
どんな時も、大切に身につけてくれていた――
(――ミャーは……ただもう一度……
おかあさんと……会いたかったんだ……
おかあさんと……話したかったんだ……
ただ……それだけなのに――)
――けれど、その人影は、もう何も語らない。
そこにあるのは、かつて母だったもの。
近づく。
床を踏む音が、やけに大きい。
膝が、笑う。
白い花のブローチが、かすかに光を返す。
――その下。
衣の隙間から覗く、乾いた白。
指が、骨ばっている。
いや、違う。
骨だ。
皮膚はない。
温もりもない。
時間だけが、そこに積もっている。
空っぽの眼窩が、少女を見ている。
その瞬間、理解が落ちてきた。
これは、母だ。
けれど――
もう、少女を抱きしめることはない。
もう、彼女の名前を呼ぶこともない。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああアアアアアアアああああ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛ああ゛ああ゛あアアア゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああアアアアあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛あ゛あアアアアアあああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああ゛あ゛あ゛ああああああアアアああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああアああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああアアアアアアアアあ!!!!゛うわ゛あ゛あ゛ああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああアアアアアアアアアあああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛アアアあああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああ゛あ゛あ゛ああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛あ゛あ゛あ゛ああ!!゛!!!゛」
喉が裂ける。
肺が焼ける。
それでも叫ぶ。
返事がないと分かっていても、叫ぶ。
少女の絶叫が、家の中に、村の中に――虚ろに響き渡った。




