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勇者になりたいのに賞金首になっちゃったボク ~人助けするたびに、懸賞金と仲間が増えていく~ バンディット!!  作者: ちゃんなか
異世界の夜明け!ヤマモモ村編

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第24話 “涙”

『26日目……


 日記書いてるうちに夜が明けちゃった……多分今日で、日記を書くのは最後かな。

 今からあの子の元へ行きます……これが……あの子に会える最後です――』






「――この先……今までで、一番文字が崩(くず)れてる……ぐちゃぐちゃで……これ、なんて書いて……あ……っ!!」



 目を凝(こ)らした少女の視界(しかい)に、崩(くず)れた文字の隙間(すきま)から……悲痛(ひつう)な叫(さけ)びが飛(と)び込(こ)んでくる――



 ――

 ――――

 ――――――



 ――手記を閉(と)じ、チーシャは震(ふる)える体で席を立った。


(……早く……早くあの子の元へ、行かないと……私(わたし)も、もう……っ!!)


 立ち上がっただけで……視界(しかい)が一瞬(いっしゅん)暗くなる。

 机(つくえ)の端(はし)を握(にぎ)ってなんとか体を支(ささ)えた。


 それでも止まれない。

 もう時間は残されていないと、本能(ほんのう)が告(つ)げていた。


 あらかじめ荷を詰(つ)めていたリュックを背負(せお)う。

 背負(せお)ったはずの重みが、自分ではない誰(だれ)かの身体にかかっているようだった。


 自分の体が、自分のものではなくなっていくような――そんな嫌(いや)な感覚。



 それでも、足を動かす。



 あの子だけは、生きてほしい。


 その思いだけが、今の自分を立たせていた――




 ――地下室の鉄の扉(とびら)を押(お)し開(あ)ける。


 キィ……と鈍(にぶ)い音が響(ひび)く。

 いつもはなんでもない重さが、今日はやけに腕(うで)に食(く)い込(こ)んだ。


「……んく……っ!! ふぅ……」


 わずかに息が漏(も)れる。

 家からここまで歩いただけで、息はすでに乱(みだ)れていた。


 足元を確(たし)かめながら、1段(いちだん)ずつ階段(かいだん)を降(お)りていく。

 地下へ近づくにつれ、空気は冷えていく。

 それなのに、身体の内側だけが熱を持っていた。


 こんな場所に……ずっと閉(と)じ込(こ)めていた。

 罪悪感(ざいあくかん)が、足取りをさらに重くした。




 そして――




 薄暗(うすぐら)い地下室の簡素(かんそ)なベッドの上。

 膝(ひざ)を抱(かか)え、小さくなっている少女の姿(すがた)があった。


「……おかあさん?」


 いつもより早い時間に現(あらわ)れた母を見て、少女の表情(ひょうじょう)に、わずかな不安が浮かぶ。


「……立って、子猫(こねこ)ちゃん……ここから出るわよ……」

「……え?」


 少女は、驚(おどろ)いたように瞬(まばた)きを繰(く)り返(かえ)した。

 無理もない、突然(とつぜん)のことだ。


 でも……説明している時間はない。


 チーシャは鉄格子(てつごうし)を開け、そっと少女の腕(うで)を取った。



 ……細い。



 思っていたよりも、ずっと軽い。


「…………」


 数週間ぶりに地上へ出るというのに、少女の顔は晴れなかった。


(……あんなに外に出たがっていたのに……まだ警戒(けいかい)しているのかしら……? 無理もないわね……)


 当然だった。自分達がしてきたことを思えば。



『あなたの為(ため)だった』



 ――なんて、言い訳(わけ)も出来ない。



 それでも、守るしかなかった。


 扉(とびら)の向こうから流(なが)れ込(こ)む外気が、ふたりの頬(ほお)を撫(な)でる。

 光は白く鈍(にぶ)く、目に刺(さ)さるようだった。


(……っ!!)


 喉元(のどもと)まで、込(こ)み上(あ)げてくるモノが……



 だが……



(せ、咳(せき)が……!! でも、我慢(がまん)しないと……ッ!!)


 そう、ここで咳(せき)をしてはいけない。

 娘(むすめ)に気づかれてはいけない。


 唇(くちびる)を噛(か)み、呼吸(こきゅう)を浅く刻(きざ)む。

 肺(はい)が悲鳴を上げているのに、顔だけは何事もないように装(よそお)った。


 少女の足取りはまだおぼつかない。

 母に手を引かれながら、慎重(しんちょう)に、1歩ずつ。


 久(ひさ)しぶりの地上へ……ふたりは歩き出した――






 ――外は曇天(どんてん)だった。


 重たい雲が村の上空を覆(おお)い、陽の光を薄(うす)い灰色(はいいろ)に削(けず)っている。

 夜は明けたはずなのに、辺りは薄暗(うすぐら)く、景色の輪郭(りんかく)もぼんやり滲(にじ)んで見えた。


 村は……静まり返っていた。


 かつて慣(な)れ親(した)しんだ家々は、何ひとつ変わらない形で並(なら)んでいるのに。

 人の姿(すがた)だけが、どこにもない。


 気配が消えた、というより――最初から誰(だれ)もいなかったみたいに、音がない。

 遠くの鳥の声すら途切(とぎ)れがちで、風が屋根を撫(な)でても、どの家も応(こた)えなかった。


 もう住人は、ほとんど居(い)なくなってしまった。

 窓(まど)は閉(と)ざされ、扉(とびら)には鍵(かぎ)。

 まるで村そのものが、息を潜(ひそ)めて喪(も)に服しているみたいだった。


「……にゃんで……誰(だれ)もいないの……?」

「……っ」


 チーシャは、出かかった言葉を喉(のど)の奥(おく)へ飲(の)み込(こ)んだ。

 答えが出ないのではない……言えない。口にすれば、娘(むすめ)にも病気がうつってしまうかもしれない。

 病気の存在(そんざい)を知ると、感染(かんせん)してしまう――その迷信(めいしん)が、2人を苦しめる。


 その沈黙(ちんもく)のせいで、少女の表情(ひょうじょう)はさらに曇(くも)っていく。

 不安が、目の奥(おく)で濁(にご)っていくのがわかった。


(ごめん……早く……!! 早くこの村から、あなたを……!!)


 チーシャは何も言えないまま、娘(むすめ)の手を引いた。

 歩みを急ぐほど、握(にぎ)った小さな指は、ますますこわばっていった。

 追い立てるみたいな歩幅(ほはば)になっていると気づいても、止まれなかった。


 少女の胸(むね)に芽生えた、黒い想像(そうぞう)に……気づかぬふりをするしかなかった――





 ――そして。





「……え? ……ここは……」


 辿(たど)り着(つ)いたのは、村の外れ。


 木々のざわめきが遠くから聞こえる、森の入口だった。

 村の最後の家を背(せ)にすると、空気の匂(にお)いが少し変わる。

 湿(しめ)った土と、青い葉の匂(にお)い。


「……ねえ、おかあさん。ここ……なんで……?」

「…………」


 問いかける声が、縋(すが)るように細くなる。

 チーシャは答えられず、背負(せお)っていたリュックをゆっくり降(お)ろした。


 そのまま、それを少女の胸元(むなもと)へ押(お)しつける。


 ズシリと重い。


「……なに……これ……」

「……っ!!」


 リュックを抱(かか)えた少女の腕(うで)が、かすかに震(ふる)えていた。

 重さのせい……ではない。


(怯(おび)えてる……次の私(わたし)の一言が……この子にとって、どれだけ恐(おそ)ろしいものになるか、考えてる……)


 そう、自分の言葉を……娘(むすめ)は恐(おそ)れている。

 母である……自分の言葉を……


 そしてその予感は……残酷(ざんこく)なほど正しかった。



 チーシャが返したのは……たった一言――




「――この村から、出なさい」




「――え……?」


 少女は固まった……


 そして、小さく首を横に振(ふ)った。

 拒絶(きょぜつ)が、言葉より先に体から溢(あふ)れた。


「な、なんで……? なんでそんなこと……っ!!」


 声がかすれ、涙(なみだ)がじわりと滲(にじ)む。

 震(ふる)えているのは喉(のど)だけじゃない。指先も、肩(かた)も、全部が。


「ねえ……ミャー、なにか悪いことしたの……? なんで……なんで独(ひと)りで行かなきゃいけないの……?」


 小さな手が、チーシャの服のすそをつかむ。

 力は弱い。

 それでも、その指先の感触(かんしょく)はチーシャの心を強くかき乱(みだ)した。


「……いやだよ……ミャー、いやだ……! ずっとこの村に居(い)たいよ……っ! おかあさん……!!」

「っ……!!」


 悲痛(ひつう)な声……ホントは頭を撫(な)で、慰(なぐさ)めてあげたい。


 けれど……チーシャの体は動かなかった。

 目を伏(ふ)せたまま、まるで自分の心ごと固まったみたいに。



(ごめん……ごめん、子猫(こねこ)ちゃん……ッ!!)



「……これからは……独(ひと)りで……生きていきなさい……」


 絞(しぼ)り出(だ)した声は――冷たく聞こえるように作ったモノだった。


 優(やさ)しくしたら、ここで終われない。

 泣いたら、抱(だ)きしめてしまう。


「やだ……やだぁ……っ!! もう勝手に村の外に出ないからァ……!!!」


 少女は膝(ひざ)から崩(くず)れながら、チーシャにしがみつく。

 その体温が、必死さが、固めたはずの決意を揺(ゆ)らがせる。


「ごめんなさい……っ!! 家から抜(ぬ)け出(だ)してごめんなさい……!!! 地下室でご飯に文句(もんく)言ってごめんなさい……!!!

 おかあさんの大事にしてた花瓶(かびん)割(わ)ってごめんなさい……!!! 村の秘密(ひみつ)の倉庫に入ってごめんなさい……!!!

 これからは、おかあさんの言うこと……みんなの言うこと、全部ちゃんと聞くからぁ……っ!!」


 少女は涙(なみだ)と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、思いつく限(かぎ)りの謝罪(しゃざい)を絞(しぼ)り出(だ)す。

 その健気(けなげ)さが、痛(いた)い。


(違(ちが)う……!! あなたはなにも、悪くない……ッ!!!)


 言いたいのに、喉(のど)が閉(と)じる。


(うぐ……!! 限界(げんかい)が……近い……ッ!!!)


 わずかな道のりでさえ、呼吸(こきゅう)はもう細切れになっていた。

 体の奥(おく)で、見えない秒針(びょうしん)が終わりへ向かって進んでいる。


「……もう……無理なの……限界(げんかい)なの……この村は……ッ!!」

「限界(げんかい)……? にゃんで……それって……」


 少女の顔から色が引いていく。

 理解(りかい)が追いつくより先に、予感が形になる。


「どうじでェ……どうじでェ……ッ!!!」


 涙(なみだ)と嗚咽(おえつ)が絡(から)まって、声が言葉にならない。

 その叫(さけ)びを聞くたび、前へ進ませなければという気持ちが、少しずつ削(そ)がれていく。


「……ッ……!!」


 今まで聞いたことのない壊(こわ)れた声。


(……ッ!! ホントは抱(だ)き返(かえ)したい……最後の瞬間(しゅんかん)まで、一緒(いっしょ)に居(い)たい……!! でもこの村は……この村のみんなは……もう……ッ!!!)


 記憶(きおく)の中で、かつての村の景色が息を吹(ふ)き返(かえ)す。


 チーシャは、生まれてからずっとここにいた。

 森を走り回った日々。

 村の誰(だれ)かと交わした、取るに足らない会話。


 それらは全部、もう戻(もど)らない。

 みんな――みんな、いなくなった。


 涙(なみだ)が込(こ)み上(あ)げる。

 必死に堪(こら)えようとするが……それと同時に、涙(なみだ)とは別のものが喉(のど)の奥(おく)からせり上がってくる。


(……ッ!!? ング……ッ!!! 胸(むね)が……もう、体が……ッ!!!)


 声を漏(も)らすまいと、爪(つめ)が食(く)い込(こ)むほど拳(こぶし)を握(にぎ)り締(し)めた。

 倒(たお)れたら終わる。ここで倒(たお)れたら、この子は――村へ戻(もど)ってしまう。


「ひぐ……!! やだぁ……!!! いやだぁ……ッ!!!」


 少女の折れそうな細い腕(うで)が、最後の命綱(いのちづな)みたいにチーシャの服を掴(つか)んで離(はな)さない。


(引きはがさないと……早く……!!! 早くこの子を……ッ!!!)


 わかっている。

 わかっているのに――手が、動かない。


 抱(だ)きしめたい心と、突(つ)き放(はな)せと叫(さけ)ぶ理性(りせい)が、噛(か)み合(あ)わない。




 ――そして。




「――もうみんな……会えないのよッ!!!」


 叫(さけ)ぶと同時に、チーシャの腕(うで)から、堪(こら)えていた力が弾(はじ)けた。

 振(ふ)りほどくつもりだった。

 ただ、離(はな)して、前へ進ませるだけの――はずだった。




 けれど――




 ドンッ!!




 手のひらに、柔(やわ)らかい衝撃(しょうげき)が返ってくる。


 そして……


 少女の身体(からだ)が跳(は)ね、地面に叩(たた)きつけられる。


「あうッ!!?」

「……あ……っ!!」


 尻(しり)もちをついた彼女(かのじょ)が、目を丸くする。

 信じられない、という顔で――母を見上げた。



 今、自分が何をしたのか。



 理解(りかい)するより先に、手が震(ふる)え始める。


(あ……なんて……ことを……わた、しは……!!)


 倒(たお)れた娘(むすめ)を見下ろした瞬間(しゅんかん)、視界(しかい)がぐにゃりと歪(ゆが)んだ。


 抱(だ)き起(お)こしたい。

 謝(あやま)りたい。


 今すぐ全部……取り消したい。



 ――でも……それは出来ない。



(……いや……これでいいんだ……ッ!! この子を……村から出すには……これで……ッ!!!)


 チーシャは、泣き出しそうな顔を無理やり冷たく固めた。


「……おとうさんにも……シヤくんにも……みんな……みんなもう……ッ!!」

「え……?」


 チーシャが告(つ)げたのは、少女が村の中でも特に親しくしていた人達の名前だった。

 その名前が意味するものを、身体だけが先に悟(さと)った。


「ううううゥ……!!! うええええェ……っ!!」


 堰(せき)を切ったように、少女の顔から雫(しずく)が落ちていく。


 涎(よだれ)も鼻水も……そのすべてが。


「にゃんだよォ……!! にゃんで……みんにゃァ……ッ!!!」


 悲しみ。怒(いか)り。裏切(うらぎ)り。

 子供(こども)の心に収(おさ)まりきらない感情(かんじょう)が、表情(ひょうじょう)の奥(おく)で絡(から)まり合っているのがわかる。


(……っ!! こんな……こんな酷(ひど)いこと……私(わたし)は……!! うぐッ!!?)


 悲痛(ひつう)なその姿(すがた)を見て、チーシャに限界(げんかい)が来る。

 そして体と心は、娘(むすめ)を突(つ)き飛(と)ばしたことに耐(た)えきれず、その場に崩(くず)れ落(お)ちた。


「はァ……はァ……っ……!!」


(苦しい……!! 立っていることすら出来ない……でも……ッ!!!)


 肩(かた)で息をしながら、うわずった声で叫(さけ)ぶ。


「はやく……!! 行きなさい……ッ!! 森を抜(ぬ)けて……街道を東に半日近く歩いたら……町がある……!!!」


 こんな言い方しか出来ない。

 言葉の裏(うら)に、〝生きて〟という想いを隠(かく)す。

 それだけは、伝えなきゃいけない。



 けれど、返ってきたのは――



「……ばか……バカァ……ッ!」

「……ッ!!!」


 少女の口から、恨み言(うらみごと)がこぼれ落ちる。

 たった一言で、最後まで保(たも)っていた母親の顔が、崩(くず)れそうになる。


(ああああああ……ッ!!! 違(ちが)うの……私(わたし)は……あなたを……ッ!!!)


 最愛の娘(むすめ)からの罵倒(ばとう)。

 後悔(こうかい)と悲しみが一気に押(お)し寄(よ)せ、視界(しかい)が滲(にじ)む。


 それでも――最後の力を振(ふ)り絞(しぼ)って叫(さけ)ぶ。


「行きなさい!!! ミヤ――!!!」


 名前を言おうとした。

 呼(よ)び止めるためじゃない。

 せめて最後に、〝大好き〟を乗せたかった。




 けれど――




「――おかあさんのバカあ"あ"あ"あ"ああああああああああああ"あ"あ"ァ"!"!"!"!"」


 言葉は遮(さえぎ)られ、少女が全身で叫(さけ)び返(かえ)す。

 その声は、ひっくり返って、割(わ)れて、もう言葉の形すら保(たも)っていなかった。


 彼女(かのじょ)はリュックを抱(かか)え、地を蹴(け)った。

 大粒(おおつぶ)の涙(なみだ)を地面へ零(こぼ)しながら、ただ森へ、森へと駆(か)け出(だ)していく。


「う"わ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あああああああ"あ"あ"あ"あああ"あ"あ"ああああああ"あああァ!!!!

 あ"あ"あ"ああああああああ"あ"あ"ああああああああああああああああ"あ"あ"あ"あああああああ"あ"あ"あ"ああァ"ァ"ッッ!"!!!」


 悲痛(ひつう)な叫(さけ)びが、曇(くも)り空の森へ吸(す)い込(こ)まれていく。

 冷たい風が木々を揺(ゆ)らし、枝葉(えだは)がざわざわと鳴った。




 ――まるで、泣き声を隠(かく)すみたいに。




 背中(せなか)も声も、瞬(またた)く間に遠ざかる。

 届(とど)きもしないのに……届(とど)いちゃいけないのに、チーシャは無意識(むいしき)にその手を伸(の)ばす。


「うう……うああああああ……!! ミヤ――ゲホッ!!! ゴッホォッ!!!」


 抑(おさ)えきれなくなった咳(せき)が、湿(しめ)った音を立てて溢(あふ)れ出(だ)す。

 口を押(お)さえた指の隙間(すきま)から、赤が滲(にじ)んでいた。


「……あ……ッ!! ゴボッ!! オエェッボ……ッ!! ……ヒュー……ヒュー……」


 息が、吸(す)えない。

 肺(はい)の奥(おく)が焼ける。世界が歪(ゆが)む。


 森の奥(おく)へ消えていく娘(むすめ)の背中(せなか)だけが、滲(にじ)んで見えた。




 ――もう、追えない。追ってはいけない。




「う"わあ"あ"ア"ア"ア"アアアア"ア"ア"ア"アあ"ッ!!!!"

 あ"あ"ア"ア"アアアアア"ア"ア"ア"アア"アアアアアア"あ"ッッ!!!!"!"!」


 叫(さけ)びが、悲しみが、後悔(こうかい)が、壊(こわ)れた息と一緒(いっしょ)に漏(も)れ出(だ)す。


(最後なのに……!! これでもう……会えないのに……ッ!!! こんな……別れ方……ッ!!!!)



「ごめんなさい……!! ごめんなさい……!!

 うわ"あ"あ"アアアアアアああ"あ"あ"あ"あああああアアァァァァァぁぁぁ"ぁ"ぁ"ぁ"……ッ!!!」



 声は震(ふる)え、言葉は崩(くず)れ、涙(なみだ)と一緒(いっしょ)に落ちた。

 うずくまる母の嗚咽(おえつ)だけが、冷えた空気を細く震(ふる)わせていた。


 そして、静かな村に……チーシャひとりだけが、取り残された――



 ――

 ――――

 ――――――



『――あの子を……追い出してしまった……っ!!!

 なんで……どうして……!! こんな形でしか……伝えられなかったの……ッ!!!

 最後なのに……言い合いになって……あの子は泣(な)き叫(さけ)んでた……』


「……っ!!! おがあざん……!!!」


 声が潰(つぶ)れた。

 息を吸(す)おうとしても嗚咽(おえつ)に押し返され、喉(のど)から痛い音しか出てこない。


 少女の中で、あの日の情景(じょうけい)が、焼けつくような鮮明(せんめい)さで蘇(よみがえ)る――




『――この村から、出なさい』



 幼(おさな)い日の記憶(きおく)。

 無慈悲(むじひ)に突(つ)き放された、あの言葉。


 けれど今は、違(ちが)う。


 冷たい刃(やいば)だと思っていたあの一言は、自分を傷(きず)つけるためのものではなかった。

 死にゆく村から少女を切(き)り離(はな)すために、母が選んだ――あまりにも痛(いた)い優(やさ)しさだった。


 長いあいだ、胸(むね)の奥(おく)に刺さり続けていた棘(とげ)。

 その正体が〝愛〟だったと知ったことが、今は何より痛(いた)かった。



『いや、いいんだ……!! これで……!!

 もう余裕(よゆう)はなかった……立っているのもやっとだった……声を出すのもやっとだった……

 だからあれしか、出来なかった……!!


 万が一にも……あの子にうつさない為(ため)……

 万が一にも……あの子が振(ふ)り返(かえ)らない為(ため)……


 でも、やっぱり苦しい……ごめん……ごめんね……!!! 子猫(こねこ)ちゃん……っ!!!!』



 文字が、震(ふる)えている。

 いや……紙の上の文字じゃない。

 その奥(おく)で、母の呼吸(こきゅう)が震(ふる)えている。熱と咳(せき)と、泣き声を噛(か)み殺(ころ)す喉(のど)の痛(いた)みまで、伝わってくる。


「うぐゥ……!! うう……っ!!!」


 少女は声を詰(つ)まらせ、嗚咽(おえつ)を押(お)し殺(ころ)す――




『――これからは……独(ひと)りで……生きていきなさい……』



 あまりにも冷たく、残酷(ざんこく)で。

 何度も心の中で繰(く)り返し、呪(のろ)いのように恨(うら)んだ言葉。


 でも……少女は知っていた。

 見ないふりをしてきた。

 あの時、母の頬(ほお)を伝った……たった一筋(ひとすじ)の〝涙(なみだ)〟を――




『――後悔(こうかい)だらけだけど……自分勝手だけど……でも、最後に……あなたへの感謝(かんしゃ)の言葉を記させて――



 ――

 ――――

 ――――――



 ――ねえ……〝見てるんでしょ〟? 子猫(こねこ)ちゃん……』




「――ふぇ……?」


 日記の文面は、確(たし)かに――今この場にいる〝自分〟へ向けられていた。


『この日記を見る可能性(かのうせい)がある人なんて……きっとあなただけだもの……

 本当にごめんね、こんな情(なさ)けない母親で……』


「……っ!! そんにゃことない……!!! おかあさんは……ミャーにとって……大切な……っ!!」


 もはや手記を読んでいるとは言えない。これは会話だ。

 文字を通して、過去(かこ)と現在(げんざい)が交差する。


『こんな私(わたし)に……資格(しかく)なんてないかもしれないけど……

 こんな私(わたし)が……残していい言葉じゃないかもしれないけど……

 けれど、こんな私(わたし)の……大切な――」



 ――その時だった。



 少女の瞳(ひとみ)には、確(たし)かに〝映(うつ)っていた〟。


「……え……? おかあ……さん……?」


 泣(な)き腫(は)らした目。

 穏(おだ)やかな微笑(ほほえ)み。




 もう、いるはずのない……母――チーシャの姿(すがた)が……そこに――




「――こんな私(わたし)の……娘(むすめ)になってくれてありがとう…………!!!

 私(わたし)はあなたのおかあさんになれて、幸せでした……!!」


 その言葉が届(とど)いた瞬間(しゅんかん)、少女の中で、長いあいだ閉(と)ざされていた扉(とびら)が音もなく開いた。


「お……おかあ……さ……っ!!」


 母に手を伸ばす……

 だが……その指先が触(ふ)れるより先に、チーシャの輪郭(りんかく)は、ゆっくりと薄(うす)くなる。


 光の粒(つぶ)みたいにほどけて、空気の中に溶(と)けて……




 消えた――




「う"わ"あ"あ"あ"あ"あ"あああぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁぁぁぁぁあああああ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"ああああ"あ"あ"あ"あ"あ"あああ"あ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁああああアアアア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"アアアアアアあああああああ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あああああああああああああああ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あああああァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァァァァッ"ッ"ッッ!"!"!"!"」


「っ!!? ミーちゃァん!!!」


 絶叫(ぜっきょう)が少女の身体を突(つ)き抜(ぬ)けた。

 呼吸(こきゅう)も、声も、思考も、ぜんぶ間に合わない。


 少女は手記を投(な)げ出(だ)し、気づけば走(はし)り出(だ)していた。


 どこへ? なぜ? そんなことはもう、どうでもよかった。





 ただ――





(――ホントはわかってたんだ……あの時、おかあさんは何かを背負(せお)っていたんだって……!!

 ……何か理由があるんだって……だけど……!!!)


 少女の足が自然と向かったのは、村の奥(おく)だった。

 何度も往復(おうふく)した道。草の匂(にお)い、土の感触(かんしょく)、角を曲がる癖(くせ)まで覚えている。




 その先にあったのは――




(――村から離(はな)れることが悲しくて……みんなと会えないことが悲しくて……

 それで気づかないふりをしてた……っ!! 恨(うら)むことで……悲しみを紛(まぎ)らわせてた……!!!)



 出発前には泥(どろ)のように混(ま)ざり合(あ)っていた感情(かんじょう)が、走るたび、ひとつの答えへ澄(す)んでいく――




『――だから……だから問いただしたい……!!

 にゃんであの日、ミャーを牢屋(ろうや)に閉(と)じ込(こ)めたのか……

 にゃんであの日、ミャーを村から追い出したのか……!!


 問いただして……それで……!!! あれ……?




 それで……ミャーは……

 〝なに〟がしたいんだ……?』






(――そうだ……ミャーは、ただもう一度――)






 ――少女の足が、1軒(いっけん)の家の前で止まる。

 それは、かつて母チーシャと2人で暮(く)らした家だった。


「おがあさんっ!!!」


 恐怖(きょうふ)はあった。けれど、確(たし)かめずにはいられなかった。


 少女はためらいなく、扉(とびら)を開(あ)け放(はな)った――




 そして――




「……っ!!! あ……あ゛あ……っ!!」


 息が、止まる。




 そこにいたのは――





 ひとつの人影(ひとかげ)。




 家の床(ゆか)に、まるで少女の帰りを待っていたかのように静かに座(すわ)っていた。


 着ている服は、あの日のまま。


 胸元(むなもと)には、少女が幼(おさな)い頃(ころ)に贈(おく)った白い花のブローチ。


 どんな時も、大切に身につけてくれていた――



(――ミャーは……ただもう一度……

 おかあさんと……会いたかったんだ……

 おかあさんと……話したかったんだ……

 ただ……それだけなのに――)




 ――けれど、その人影(ひとかげ)は、もう何も語らない。

 そこにあるのは、かつて母だったもの。


 近づく。

 床(ゆか)を踏(ふ)む音が、やけに大きい。

 膝(ひざ)が、笑う。


 白い花のブローチが、かすかに光を返す。




 ――その下。




 衣の隙間(すきま)から覗(のぞ)く、乾(かわ)いた白。

 指が、骨(ほね)ばっている。





 いや、違(ちが)う。





 骨(ほね)だ。





 皮膚(ひふ)はない。

 温もりもない。

 時間だけが、そこに積もっている。


 空(から)っぽの眼窩(がんか)が、少女を見ている。

 その瞬間(しゅんかん)、理解(りかい)が落ちてきた。




 これは、母だ。




 けれど――




 もう、少女を抱(だ)きしめることはない。

 もう、彼女(かのじょ)の名前を呼(よ)ぶこともない。




「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああアアアアアアアああああ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛ああ゛ああ゛あアアア゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああアアアアあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛あ゛あアアアアアあああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああ゛あ゛あ゛ああああああアアアああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああアああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああアアアアアアアアあ!!!!゛うわ゛あ゛あ゛ああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああアアアアアアアアアあああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛アアアあああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああ゛あ゛あ゛ああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛あ゛あ゛あ゛ああ!!゛!!!゛」



 喉(のど)が裂(さ)ける。



 肺(はい)が焼ける。



 それでも叫(さけ)ぶ。



 返事がないと分かっていても、叫(さけ)ぶ。



 少女の絶叫(ぜっきょう)が、家の中に、村の中に――虚(うつ)ろに響(ひび)き渡(わた)った。

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