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勇者になりたいのに賞金首になっちゃったボク ~人助けするたびに、懸賞金と仲間が増えていく~ バンディット!!  作者: ちゃんなか
異世界の夜明け!ヤマモモ村編

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第22話 “チーシャの叫び”

 もし……もしも。


 誰(だれ)かが村を出て、森を抜(ぬ)け、どこかで生(い)き延(の)びていたなら。

 この手記も、遺(のこ)された骨(ほね)も、〝終わり〟ではなくなるかもしれない。


 少女は廃墟(はいきょ)の中で、そんな身勝手な願いにすがりそうになってしまった。


 祈(いの)るしかなかった中で、それがほんの少しだけでも叶(かな)ったような――






 ――そんな錯覚(さっかく)。







『9日目――』



 ――

 ――――

 ――――――



 ――早朝。

 まだ湿(しめ)った冷気が地面に張(は)りつく村を、土を蹴(け)る音が裂(さ)く。


「はぁ……っ!!! はぁ……!!! そんな……ッ!!!!」


 走るチーシャの瞳(ひとみ)には、すでに涙(なみだ)が浮(う)かんでいた。

 荒(あら)い息は熱いのに、身体の芯(しん)は冷え切っていた。


「嘘(うそ)だと……言って……ッ!! お願い……!!!」


 祈(いの)りに近い言葉。


 だが……その願いは、無惨(むざん)にも砕(くだ)ける――



 ――

 ――――

 ――――――



「――お父さんッ!!!!」


 村長の家の扉(とびら)が、乱暴(らんぼう)に開かれる。


 玄関(げんかん)からすぐのリビングに、駐在(ちゅうざい)がいた。

 いつもなら柱みたいに真っ直(まっす)ぐ立っている男が、今は椅子(いす)に沈(しず)み、うなだれている。

 拳(こぶし)だけが、壊(こわ)れそうなほど強く握(にぎ)られていた。


「ぐ……っ!!! ちくしょう……!!!」


 その声は怒鳴(どな)り声ではなかった。

 耐(た)えきれず、内側から漏(も)れた音だった。


 チーシャは……ゆっくりと、恐(おそ)る恐(おそ)る訊(き)く。


「……レオさん……ねえ、おとうさんは……?」

「……すまねェ……見回りのオレが、もっと早くに気づいていれば……っ!!!」

「っ……!!? 嘘(うそ)……いや……おとうざん!!!」


 涙(なみだ)がぽろぽろ落ちる。

 拭(ぬぐ)う暇(ひま)もない。


 レオは目を伏(ふ)せたまま、短く告(つ)げた。


「……書斎(しょさい)の方だ……」

「うぅ……!!" う"あ"あ"あ"あああああ"あ"ッ!!!」


 叫(さけ)びが喉(のど)を裂(さ)く。

 チーシャは書斎(しょさい)へ走った。

 足音が廊下(ろうか)を叩(たた)き、家の空気が揺(ゆ)れる。






 そして――






「――あ……え……?」


 書斎(しょさい)は、驚(おどろ)くほど静かだった。

 カーテンが閉(と)じられ、朝の光は入らない。机(つくえ)の上の蝋燭(ろうそく)が、ただ小さく揺(ゆ)れている。


 椅子(いす)に腰掛(こしか)ける背中(せなか)が見える。

 何度も見た父の後ろ姿(すがた)。

 子供(こども)の頃(ころ)から見(み)慣(な)れた、書斎(しょさい)に向き合う姿(すがた)。


 いつも通りに見える。


 だからこそ――呼吸(こきゅう)が止まる。


「おとう……さん……?」


 声を掛(か)けても、返事はない。

 静寂(せいじゃく)が重く、耳の奥(おく)が痛(いた)い。


 そして、その横に――顔を覆(おお)い、震(ふる)えるコハンがいた。

 その存在(そんざい)が、この光景が〝いつも通りではない〟ことを決定的にする。


 コハンは涙(なみだ)を零(こぼ)しながら、絞(しぼ)り出(だ)すように口を開いた。


「すまない……っ!!! チーシャ……すま"ない……!"!!」

「っ……!!! ……う"う……!! そんな――」


 その背中(せなか)は……動かない。




 黙(もく)した部屋。

 蝋燭(ろうそく)だけが、淡(あわ)く揺(ゆ)れていた――



 ――

 ――――

 ――――――



『――今朝……おとうさんが、死んでしまいました……』



「っ!!? そんな……っ!! おかあさん……!!」



 少女は言葉を失った。


 手記の端(はし)には、乾(かわ)いた水の跡(あと)が残っている――




『――村長がいなくなって……これから村は、どうすればいいのか……


 でも、それよりも……やっぱり身近な人の死は、辛(つら)い。

 とても……苦しいです。

 昨日まで元気だった人達も何人か体調を崩(くず)して……


 今日は、山菜採(と)りにも行けませんでした――』




(――悲しみ、苦しみ、絶望(ぜつぼう)――

 この時、おかあさんは……どんな想いで……)


 手記に記された祖父(そふ)の書斎(しょさい)……ちょうど今、その場所に少女は居(い)る。


 書斎(しょさい)の机(つくえ)の前、椅子(いす)に座(すわ)る白骨(はっこつ)は動くはずはない。

 だが、あの時のチーシャ……自分の娘(むすめ)の気持ちを知った今、少女には祖父(そふ)の背中(せなか)がどこか悲しげに見えた。



 日記の一文字一文字が、まるで母の心から零(こぼ)れた血のように見えた。

 あの日、死んでいく村を見て、どんな気持ちで筆を取っていたのか……そう思うだけで、呼吸(こきゅう)が浅くなる。




 ――そして。




 次のページへ目を移(うつ)した時、ふと……引っかかることがあった。


「……あ……あれ……?」


 声に、僅(わず)かに疑問(ぎもん)の色が混(ま)じる。


「次のページ、日付が飛んでる……なんで……」


 全身の産毛(うぶげ)が、ぞわりと逆立(さかだ)った。


 これまでの日記は、1日たりとも欠かさず書かれていた。

 だから、その空白は……あまりに不自然だった。


 少女は首をかしげながらも、どこかで理解(りかい)していた。

 理屈(りくつ)ではなく、心の奥底(おくそこ)で。


 ページとページのあいだに、何か〝取り返しのつかないこと〟が起きたのだと。


 不安という名の黒い波が、静かに彼女(かのじょ)の心を飲(の)み込(こ)んでいく――






 そしてその予感は、最悪の形で的中することになる――



 ――

 ――――

 ――――――



『19日目。

 ……少し日記が途切(とぎ)れてしまいました。





 その理由は――





 ついに私(わたし)にも、〝病気の症状(しょうじょう)〟が出てしまったからです』



「ッ!!!? あ……あっ……そんな……ッ!!!」



 息が詰(つ)まる。


 心のどこかで否定(ひてい)し続(つづ)けてきた、最悪の答え……


 それがついに、文字になって突(つ)きつけられた――




『――日記を書けなかった間に何が起きたのか、思い出せるところから順に書きます。


 それがわかったのは、9日目の昼のことでした……


 その日は、なんとなく体が重くて、ボーッとした感覚があって……その朝のおとうさんのこともあるし、ただ疲(つか)れてるだけだと思いました。


 けれど……昼に、子猫(こねこ)ちゃんにご飯を渡(わた)しに行ったときに、気づきました――』



「――え? ミャーにご飯を……?」



 少女の脳裏(のうり)で、記憶(きおく)がざわめく。

 9日目の昼……あの日に何があったのか――



 ――

 ――――

 ――――――



 ――チーシャの家、昼前のリビング。


 部屋からは、いつもの生活音が消えていた。



 父が死んだ。



 そんな日だというのに、太陽の陽ざしは、部屋の中を明るく包(つつ)み込(こ)む。


「……」


 だがチーシャの瞳(ひとみ)には、その光は届(とど)かない。



 真っ暗だ。



 カーテンを揺(ゆ)らす心地よい風も、どこかの家から漂(ただよ)う昼食の匂(にお)いも……今のチーシャには、遠い世界のものに感じられた。


 それでも、その香ばしい香りが、ひとつの事実を思い出させた。


「……昼食……」


 声を出しただけで、喉(のど)が痛(いた)い。

 身体(からだ)が重い。指先が自分のものじゃないみたいに鈍(にぶ)い。

 頭に薄(うす)い霧(きり)がかかったようで、考えがまとまらない。




 ――だが、それでも。




 崩(くず)れかけた心の中で、最後まで離(はな)れずに残っているものがあった。


「……そうだ、子猫(こねこ)ちゃん……」


 声が、掠(かす)れる。

 泣(な)き疲(つか)れたせいか、言葉が舌(した)の上で転がるだけで、うまく形にならない。



 けれど――娘(むすめ)のために。あの子だけは。



 チーシャはふらつく身体(からだ)に鞭(むち)を打ち、台所へ向かった。


 棚(たな)を開ける。

 皿を出す。

 水を汲(く)む。


 ひとつひとつの動作が、いつもより遅(おそ)い。

 なぜか、順番が分からなくなる瞬間(しゅんかん)すらある。


「……しっかり……しないと……」


 呟(つぶや)きながら、彼女(かのじょ)は材料を抱(かか)えた――



 ――

 ――――

 ――――――



 ――村長の家。

 父の家へ向かう道のりが、やけに長い。

 足元がふわふわして、地面が遠い。


 辿(たど)り着(つ)くと、チーシャは玄関(げんかん)で一度だけ立ち止まった。


「……」


 そして……書斎(しょさい)の方へ、ほんの一瞬(いっしゅん)目を向ける。


 そこに、まだいる。

 座(すわ)ったままの父が。




 あの……もう動かない、背中(せなか)が――




 ――だが、チーシャは書斎(しょさい)から顔を背(そむ)け、キッチンへ向き直った。


 今は……止まれない。


「ご飯……作らないと……」


 自分に言い聞かせるように呟(つぶや)き、チーシャは台所へ向かった。

 まるで命令でもするかのように、無理やり体を動かす。



 ――けれど。



 包丁を握(にぎ)る手は、わずかに震(ふる)えていた。

 野菜を刻(きざ)む音も、どこかぎこちない。


 それを誤魔化(ごまか)すように、彼女(かのじょ)は手元に目を落とし、黙々(もくもく)と昼食を作(つく)り続(つづ)けた――



 ――

 ――――

 ――――――



 ――ガチャリ。


 地下室の扉(とびら)が開く。


 皿を手にしたチーシャは、ゆっくりと、慎重(しんちょう)に階段(かいだん)を下りていく。

 一段(いちだん)下りるごとに、足音が石壁(いしかべ)へ反響(はんきょう)し、呼吸(こきゅう)が苦しくなる。



 それでも辿(たど)り着(つ)いた階段(かいだん)の先……



 鉄格子(てつごうし)の向こうに、擦(す)り切(き)れた毛布(もうふ)をかぶって座(すわ)る少女の姿(すがた)が見えた。


 俯(うつむ)いたまま、顔を上げようともしない。

 側まで近づいても、反応(はんのう)はなかった。

 チーシャは何も言わず、そっと皿を差し入れる。


(おとうさんが死んじゃった事……子猫(こねこ)ちゃんに……ううん、言えない……)


 喉(のど)の奥(おく)が詰(つ)まる。


(だって……それを言ってしまったら、この子に村の事、病の事を……全部……)


 言えないことが、増(ふ)えていく。

 隠(かく)さなければならないことが、積み重なっていく。

 その重さが、心を押(お)し潰(つぶ)していた。


 チーシャは罪悪感(ざいあくかん)を抱(かか)えたまま、背(せ)を向けようとする。



 その時だった。



「……また少なくなってる……」


 ポツリ……か細い声。


 少女が皿を見つめながら呟(つぶや)いた。

 同時に、グゥ……と小さく腹(はら)が鳴る。

 痩(や)せ細(ほそ)った体が、充分(じゅうぶん)な栄養を得(え)られていないことを、無言で訴(うった)えていた。


「……ちょっと最近、ご飯足りないにゃ……」


 無理もなかった。


 パン2つ、薄(うす)いスープ、わずかなサラダ。


 前と比(くら)べ、量は減(へ)っていた。


(倉庫がダメになって……食料が枯渇(こかつ)してる……レオさん達が王国から幾(いく)らか買ってきてくれたけど――)


 思い返すのは、あの日のこと――



 ――

 ――――

 ――――――



 ――レオ達が帰ってきた日。


「え……? こ、これだけ……?」


 チーシャは困惑(こんわく)した。


 荷車は3台。

 けれど、そのどれもが満載(まんさい)には程遠(ほどとお)い。

 荷台の半分にも満たない食料が、やけに頼(たよ)りなく見えた。


「ああ……!! 値(ね)が上がっとるんだとよ……なんでも大陸の中央で、〝凶悪(きょうあく)な賞金首(しょうきんくび)〟が現(あらわ)れて情勢(じょうせい)が不安定になってるって……だから危機(きき)を感じた貴族達(きぞくたち)による食料の買(か)い占(し)めが横行しているらしい……ッ!!!」

「そんな……ッ!!」



 賞金首(しょうきんくび)、情勢不安(じょうせいふあん)、買(か)い占(し)め。



 遠い場所の出来事のはずなのに……ここヤマモモ村の食卓(しょくたく)を、あっさり奪(うば)っていく。


「それだけじゃねェ……こんな状況(じょうきょう)だから、支援(しえん)を要請(ようせい)したんだ。この村を助けてくれって……でも、商人も医者も、誰(だれ)1人オレ達に手を差(さ)し伸(の)べてくれるヤツはいなかった……!!

 むしろ、病人のオレ達を疎(うと)ましくすら思ってて……最後は追い出されたようなもんだった!!!!


 見(み)捨(す)てられたんだよッ!!! オレ達は……ッ!!!」


 悔(くや)しさに歯を食いしばり、彼(かれ)は近くの木を思いっきり殴(なぐ)る。

 ミシミシと鈍(にぶ)い音。

 拳(こぶし)の痛(いた)みさえ、今は怒(いか)りの燃料(ねんりょう)にしかならないようだった。



 だが……そんな彼(かれ)を、諭(さと)すような声が落ちる。



「……こんな時代じゃ、仕方ない」



 ミケだった。



「みんなが苦しんでおる……魔物(まもの)に恐怖(きょうふ)し、戦火に怯(おび)える……この世界は、みんなそうじゃ……」

「……村長……」


 小さい。けれど、折れない声だった。

 その言葉を聞いた瞬間(しゅんかん)、レオの語気がわずかにしぼむ。


「恨(うら)んでは駄目(だめ)じゃよ。みんな同じじゃ……」

「……悪いな。みんな、あんたみたいに外の事に詳(くわ)しくないし、聡(さと)くない……はっ。だから今、こんなことになってるのかもしれねェが……」


 言葉は恨み言(うらみごと)に近い。


 けれどそこにあったのは、誰(だれ)かを責(せ)めたい気持ちより……自分達の無力さへの悔恨(かいこん)と痛(いた)みだった――



 ――

 ――――

 ――――――



(――食料は昨日来たばかり……確(たし)かにこんな日ぐらい、少し多めでも……)


 そんなことを思う、自分がいる。


 けれど、チーシャはすぐに首を振(ふ)った。


(ううん! ダメ……!! 買ってこれた食料は、考えてたよりもかなり少なかった……!! だから量も、今までより少なく……)


 明日。明後日(あさって)。そして来週。

 未来を生(い)き延(の)びるためには、今を削(けず)らなければならない――それが現実(げんじつ)。


 そう、村の状況(じょうきょう)は何ひとつ良くなっていない。

 減(へ)る一方の食料。

 そして、未だ治す方法が見つからない病。


(このままじゃ……本当に村は……)


 残された食料をどう分けても、足りない。

 考えれば考えるほど、答えが遠のいていく。



 その時――



 鉄格子(てつごうし)の向こうから、小さな問いが届(とど)いた。


「おかあさん、せめてミャー……みんにゃに会いたい……ちょっと顔を見ることだけでも出来ない?」

「っ……!!」


 1週間以上、閉(と)じ込(こ)められたまま過(す)ごしてきた少女の……精一杯(せいいっぱい)のお願い。


 けれど、それは同時に、今のチーシャにとって、最も残酷(ざんこく)な問いでもあった。


(みんな……村のみんな……)


 脳裏(のうり)に浮(う)かぶのは、もう戻(もど)らない人々の顔。


 笑っていた声。

 交わした言葉。


(私(わたし)も会いたい……でも……ッ!!)


 チーシャは奥歯(おくば)を噛(か)みしめた。

 泣(な)き叫(さけ)びたい衝動(しょうどう)を、どうにか押(お)し殺(ころ)す。


 そして――絞(しぼ)り出(だ)すように、答えた。


「……会っちゃダメ……」


 それは、あまりにも小さく。

 そして、あまりにも重たい一言だった。


「ダメって……いいじゃん、それくら……」


 戸惑(とまど)う少女を遮(さえぎ)るように、チーシャは続ける。


「みんなとは……もう会っちゃダメ……ッ!!」

「……え?」


 唐突(とうとつ)すぎる言葉に、少女の瞳(ひとみ)が大きく開かれる。


「もう会っちゃダメ……? にゃんだよそれ……」


 理解(りかい)できない。

 受け入れられない。

 不安と混乱(こんらん)が、幼(おさな)い声に滲(にじ)んでいた。


「ね、ねえ……それじゃあまるで、もう〝二度と〟みんにゃと会えないみたいじゃないか……」


 少女は鉄格子(てつごうし)へ身(み)を寄(よ)せ、縋(すが)るようにチーシャを見上げた。



 ――それを、チーシャは正面から受け止めることができなかった。



 ほんのわずかに目を逸(そ)らし……

 そして、静かに頷(うなず)く。


「ええ、そうよ……」

「にゃ!? ……にゃんで!!!?」


 真実は言えない。

 村が崩(くず)れていることは――まだ、伝えられない。


 心が押(お)し潰(つぶ)されそうになる。


 それでも必死に踏(ふ)みとどまり、顔を上げた。

 涙(なみだ)をこぼさないように。


 だが――その瞬間(しゅんかん)。


「……ッ!!?」


 少女が、凍(こお)りついたように動きを止めた。

 じっと、チーシャの顔を見つめている。


 少女の唇(くちびる)が、かすかに震(ふる)えた。


「……〝あの人〟と……一緒(いっしょ)……」

「……え?」


 嫌(いや)な予感が、背筋(せすじ)を走る。


「あの時……〝病院の前にいた男〟と……同じ顔をしてる……!!」

「っ!!?」


 チーシャの呼吸(こきゅう)が止まる。


 虚(うつ)ろな瞳(ひとみ)。

 生気の抜(ぬ)けた表情(ひょうじょう)。



 ――それは、病に侵(おか)された者に現(あらわ)れる兆候(ちょうこう)。



「……っ……!!」


 意味を悟(さと)った途端(とたん)、視界(しかい)が揺(ゆ)らぐ。

 逃(に)げるように、チーシャは立ち上がった。


「あ……え……? おかあさん?」


 少女の声が背中(せなか)に刺(さ)さる。


 振(ふ)り返れば、あの瞳(ひとみ)が見える。

 あの子の不安が、もっと膨(ふく)らむ。


 だから……振(ふ)り返れなかった。


 チーシャは階段(かいだん)を上り、地下室の扉(とびら)を閉(し)めた。



 ――ガチャン。



 鍵(かぎ)の音が、やけに大きく響(ひび)いた。


 扉(とびら)に背(せ)を預(あず)けたまま、チーシャはずるずると床(ゆか)に座(すわ)り込(こ)んだ。

 息がうまく吸(す)えない。喉(のど)の奥(おく)が乾(かわ)いて、唾(つば)すら飲(の)み込(こ)めない。


(さっきからのダルさも……ボーっとする頭も……)


 思い返せば、心当たりはいくつもあった。

 朝からずっと、世界に薄(うす)い膜(まく)がかかったみたいで。

 目の前の景色が遠くて、音が遅(おく)れて届(とど)くみたいで。


 なのに……目を逸(そ)らしてきた。


 けれど、もう逃(のが)れられない。

 無情(むじょう)な事実を確信(かくしん)する。



「……私(わたし)も……〝発症(はっしょう)〟したんだ……っ!!」



 自分だけが大丈夫(だいじょうぶ)だなんて、最初から思っていたわけじゃない。

 だけど……村の数少ない〝まだ倒(たお)れていない者〟でいられることに、どこかで安心していた。


 縋(すが)れるものが、1つずつ失われていく。


 父も、村も、希望も。


 そして今……自分の体までもが。


「うう……っ!! ああ……ッ!!!」


 恐怖(きょうふ)と絶望(ぜつぼう)が、遅(おく)れて追いついてきて、チーシャを闇(やみ)へ突(つ)き落とす。


 息が荒(あら)くなる。心臓(しんぞう)が痛(いた)いほど鳴る。

 指先が冷たくて、でも額(ひたい)には汗(あせ)がにじむ。


「……助けて……誰(だれ)か助けてよォ……ッ!!」


 漏(も)れ出(で)た助けを求める言葉は、すぐに悲鳴へ変わった。

 壁(かべ)にぶつかって、返ってくる自分の声が、知らない人みたいに聞こえる。



 ――その時。



 さっきの娘(むすめ)の言葉が、頭の奥(おく)でまた聞こえた。



(みんにゃに会いたい……)



 その一言が、チーシャの寂(さび)しさまで呼(よ)び起(お)こした。



「私(わたし)も……会いたい……」



 かすかに零(こぼ)れた……願い。


 〝会いたい相手〟は、もういない。わかっている。



 けれど――



「あい"だいよォ……!! おとうざァん……ッ!!」



 声が裂(さ)ける。

 涙(なみだ)が溢(あふ)れ、流れ落ちるのも構(かま)わず、チーシャは叫(さけ)んだ。



 返事なんて来ない。


 届(とど)くはずもない。



 それでも……叫(さけ)ばずにはいられなかった。


 悲痛(ひつう)な声は、誰(だれ)に拾われることもなく、沈黙(ちんもく)に吸(す)い込(こ)まれていく。


 そして部屋には、泣き声だけが残った――



 ――

 ――――

 ――――――



『――その日、子猫(こねこ)ちゃんと少し口論(こうろん)になってしまいました。


「みんなと会いたい」と言ったあの子に……

 私(わたし)は「もう二度とみんなとは会っちゃダメ」って……そう、言ってしまった。


 どうして、あんな言い方を……

 おとうさんのこともあって、心が乱(みだ)れていたんだと思う……本当にごめんなさい――』




「――おかあ……さん……」



 あの日の、あまりにも冷たかった母の言葉。

 突(つ)き放(はな)されたように感じた、あの瞬間(しゅんかん)。

 その裏(うら)に……こんなにも、張(は)り裂(さ)けそうな苦悩(くのう)があったなんて――




『――でも、その時の……子猫(こねこ)ちゃんの一言で気づきました。



「――あの人と、同じ顔をしてる」って。



 〝あの人〟は、たしか3週間近く前に診療所(しんりょうじょ)の前で子猫(こねこ)ちゃんが見た男の人のこと。

 村の人達に聞いたところ、たぶんそれは〝ナメさん〟のことだと思います。

 〝ナメさん〟は生気のない顔で子猫(こねこ)ちゃんを見て「……なぜあの子だけ……そうか。あの子は、〝外から来た子〟だからか……」と言ってたらしいです。


 子猫(こねこ)ちゃんには、その言葉が自分への差別のように感じられたらしいけど……

 実際(じっさい)は、村のみんなが病に倒(たお)れていく中、ひとりだけ元気な子猫(こねこ)ちゃんを羨(うらや)んでいただけだったんじゃないかと……思います。



 〝思います〟としか言えないのは……


 もう本人に確認(かくにん)が取れないからです――




 彼(かれ)は、その翌日(よくじつ)に亡(な)くなりました――』



「な……っ!!?」


(――やっぱり……あの人の言葉は、ミャーを軽蔑(けいべつ)してたわけじゃなかったんだ……)


 誤解(ごかい)。すれ違(ちが)い。

 少女がすでに辿(たど)り着(つ)いていた答えに、母の推測(すいそく)が重なった――




『――そのナメさんと同じような目をしている……


 そう言われて、気づきました。

 私(わたし)も……感染(かんせん)してしまったんだと。


 その日の夜から咳(せき)が出はじめて、熱も上がって……

 10日間、ベッドから一歩も出られませんでした。


 咳(せ)き込(こ)むたびに、呼吸(こきゅう)ができなくなる。

 死の恐怖(きょうふ)。そして、この村がゆっくり崩(くず)れていく絶望(ぜつぼう)……

 私(わたし)が日記を書けなかった10日の間にも、たくさんの人が……亡(な)くなりました――』




「――っ……おかあさん……」


 声が、うまく形にならなかった。


 心臓(しんぞう)のある場所が、冷たい鉛(なまり)を流(なが)し込(こ)まれたように重い。


 まばたきをすると、文字が滲(にじ)む。

 涙(なみだ)が出るより先に、視界(しかい)だけがぐらついた――




『村の食料も、もう底をつきかけています。

 すべて、終わってしまうのかもしれない……

 ようやく、咳(せき)が少し治まって、立ち上がれるようになりました。

 頭はまだふらふらするけど……今度はコハン先生が、また寝(ね)込(こ)んでしまいました。


 先生には、私(わたし)の代わりに子猫(こねこ)ちゃんのご飯を用意してもらっていました。

 今日からは、また私(わたし)が……ご飯を届(とど)けようと思います――』




(――ミャーが地下にいる間に……村がこんなことになってるなんて……)


 すべてを知るには、あまりにも遅(おそ)すぎた。


 地下室で過(す)ごした日々の記憶(きおく)が、今になってすべて別の痛(いた)みへ変わっていく。


(ミャーは、どれだけ守られてたんだ……ッ!! それを知らずに……どれだけ……憎(にく)んでたんだ……)


 思い出したくない場面ほど、鮮明(せんめい)に浮(う)かぶ。


 口にした恨み言(うらみごと)も、見せた態度(たいど)も、全部――取り消せない。



 舌(した)が乾(かわ)き、行き場を失った悔(く)いだけが、少女の内側に残った。



 だが、絶望(ぜつぼう)はまだ……止まらない――

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