第12話 “孤独の地下牢”
――夜。
静かな地下室の中。
何の音もしない。
ろうそくの火が、石壁に揺らめく影をつくるだけ。
冷たい床、崩れかけた石積みの壁、かろうじて備えられたベッドも、まともに眠るにはあまりに頼りなかった。
布団は古びて埃っぽく、薄くて、夜になれば底冷えする寒さが骨にまで染みた。
そのベッドの上で、少女は小さく身体を丸めていた――
(――にゃんだよ……これじゃあまるで、ホントに……)
膝を抱え、顔を伏せ、息を潜める。まるで自分の存在を、この空間から消してしまいたいかのように――
ガチャリ。
扉の軋む音。
その音だけが、時間の流れを告げてくれる。
「……ご飯、持ってきたよ……」
チーシャの声だった。
少女は顔を上げる。
その表情は、光の届かない夜のように暗く沈んでいた。
「……おかあさん……」
小さく、喉を震わせるような声で呼びかける。
チーシャはそっと食事の皿を差し入れ、腰を落として目線を合わせようとする。
その顔には、母親らしい優しさと、痛々しいほどの苦悩が入り混じっていた。
「……子猫ちゃん……あのね……」
言葉を最後まで紡ぐ前に、少女が遮った。
「みんな……! おかしいよ……!!」
小さな声が、檻の中で冷たく響く。
「ご、ごめん……さ、最近ちょっと調子が悪いのかしら……?」
「ちょっとじゃにゃいよ!!」
叫び声が、冷たい石壁にぶつかって散った。
「ここも……『有事の際に隠れるための地下室』だなんておじいちゃんは言ってたけど……ほとんど〝牢屋〟にゃ……!!!」
「そんな〝牢屋〟だなんて!! 確かに……長年使ってなかったから、かなり埃っぽいけど……」
「……ねえ、教えてよ……」
少女は力なく、それでもはっきりと問いかける。
「ミャー……にゃんでここにいなきゃいけないの……?」
チーシャの指が、宙で僅かに揺らぐ。
「……それは……ね……」
言いかけて、やめる。
いつもと同じ迷いの色が、その表情を曇らせていた。
「……ミャー、そんにゃに悪いことしたの……?」
「……ちがうの、子猫ちゃん……ちがうのよ……ただ……いまは……」
「〝いまは〟ばっかりにゃ……!」
その言葉が、もう何度目かも分からなかった。
そしてチーシャは、それに何ひとつ答えられず、また扉の外へと姿を消していった――
――
――――
――――――
――1週間後。
「……はい、ご飯よ」
無表情のまま、少女は運ばれてきた食事の皿に目をやる。
それはこの場所での、唯一の色彩だった。
「……今日はお魚さんよ」
(……ミャーの……好物だ……)
「……地上で食べたかったな……」
その声には、何の感情もなかった。
笑っていない。怒ってもいない。ただ、そこにある事実をなぞるだけ。
「お魚さん……少ない……」
「……ごめんね。あんまり……釣れなくて……」
「……そっか……」
かつては母が来る度に、怒鳴って、泣いて、問い詰めていた少女。
だが、今の彼女の声はまるで記号。冷たく響くだけ。
わずかな会話が終われば、また静寂が訪れる。
それが今の彼女の〝日常〟だった――
――
――――
――――――
――そして、次の日。
またいつものように、ガチャリと扉が軋む。
チーシャが入ってくる音。だが、今日はどこか様子が違った。
「……」
無言で、コト……と皿を置く母。
その顔は俯いていて、表情はよく見えなかった。
少女もまた、言葉なく皿の上に視線を落とす。
「……また少なくなってる……」
パン2つとスープとサラダ。見慣れたお昼ご飯だったが……パンのサイズが、昨日よりさらに小さくなっていた。
「……ちょっと最近、ご飯足りないにゃ……」
かすかなボヤキにも、チーシャは何の反応も返さなかった。
ただ静かに、うつむいたまま佇んでいる。
「おかあさん、せめてミャー……みんにゃに会いたい……ちょっと顔を見ることだけでも出来ない?」
少女は、それでも諦めずに声をかける。
ほんのささやかな希望だった。
けれど――
「……会っちゃダメ……」
落とされたその言葉は、あまりに重たかった。
「ダメって……いいじゃん、それくら……」
「みんなとは……もう会っちゃダメ……ッ!!」
「……え?」
小さな瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
「もう会っちゃダメ……? にゃんだよそれ……」
理解が追いつかない。
それは、まるで――
「ね、ねえ……それじゃあまるで、もう〝二度と〟みんにゃと会えないみたいじゃないか……」
願うように、縋るように言葉を紡ぐ。
チーシャは、その問いを静かに肯定した。
「ええ、そうよ……」
「にゃ!? ……にゃんで!!!?」
底のない不安が、胸を冷たく満たしていく。
「……ッ!!?」
その時、少女は母の顔をまじまじと見て、凍りつく。
彼女の目は、虚ろで、どこか焦点が合っていない。
――まるで、あのときの……
「……〝あの人〟と……一緒……」
「……え?」
「あの時……〝病院の前にいた男〟と……同じ顔してる……!!」
――
――――
――――――
――それから……3日。
「よお、ミーちゃん。また診察に来たぞ」
鈍い音と共に、地下室の扉が開く。
入ってきたのは……この村の医者、コハンだった。
手には診察道具と、食事を載せた木盆。
「……また先生か……おかあさんはいつ良くなるにゃ……?」
あの日以来、チーシャは姿を見せていない。
代わりに現れるのは、日に日にやつれていくこの医者だった。
「悪いな……もう少し時間がかかりそうだ……」
「また〝もう少し〟……〝ちょっと〟……そんな言葉ばっかり……」
少女は目を伏せながら、食事を受け取る。
皿の上を見れば、そこにはまた小さくなったパンがのっていた。
「また……少なくなってる……」
「すまんな……今、村では……」
「ねえ!! にゃんでミャーがこんな仕打ちを受けなきゃいけないの!!?」
耐えきれず、彼女は声を張り上げた。
「ここでミャーに……餓死しろってことか!!?」
「ち、違うぞミーちゃん! これは……ゴフッ!!?」
その時、コハンが激しく咳き込んだ。
肩を震わせながら、口元を手で押さえる。
「にゃんだよ、にゃにが違うって……」
苛立ちをにじませながらも、彼女はふと言葉を止める。
(……え? コハン先生……〝血〟が……)
彼の唇の端から、赤いものが滲んでいた。
地下室へ閉じ込められる前、村長とコハンが体調を崩していたことを思い出す。
(……もう歳だもんな……先生に問い詰めるのは……やめよう……)
そうやって自分に言い聞かせるように、小さく息をついた。
「……ああ……すまないミーちゃん、今日も診察をして……」
「……もういいよ……それをやったらさっさと出ていけよ……調子、悪いんだろ……?」
その声色には、怒りも悲しみも含まれていなかった。
そこに残っていたのは、感情を押し殺したような静かな諦めだけだった。
「……ミーちゃん……っ! ……ごめんなァ……っ!!」
コハンの声は、地下室の石壁に吸い込まれるように、どこまでも虚しく響いた――
――
――――
――――――
――それから……1週間後……
暗く、冷たい地下牢。
かすかな灯りのもと、小さな少女がひとり、壁際にうずくまっていた。
ぎゅるるるるるるるるゥ……
(おなか……へった……)
腹の鳴る音さえも、今では、自分がまだ生きていることを知らせる、わずかな証のようだった。
けれどその音も、力なく消えていく。
彼女の空腹は、もう限界を超えていた……
あれから、どんどん少なくなっていく食事。
スカスカのパン。
味のしないスープ。
それでも生きるために、無言で飲み込み続けてきた。
だが、成長期の子供の身体は、そんな誤魔化しにいつまでも耐えられるはずもなかった――
――夕食の時間。
ギイィ……と、今日も地下室の扉が軋む。
「あ……おかあさん……」
入ってきたのは、久しぶりのチーシャだった。
「もう……体調は、大丈夫なの……?」
娘の問いかけに、母は何も答えない。
ただ決められた動作をなぞるように、皿を鉄格子の向こうに置く。
「え? これだけ……?」
出されたのは、乾いたパン1個と、水だけはなみなみと注がれた、大きな金属のコップ。
明らかに〝これまでで、最も少ない〟。
「ま、待って!! ミャー、もうずっとおなかペコペコで……!!」
震える声で、手を伸ばす。
涙が自然にこぼれた。
もう〝泣かないように〟と気を張る力すら残っていなかった。
「……ごめん……」
チーシャは少女以上に震える声で……ただ一言、告げた。
けれど、その目はやはり虚ろで……かつての優しい母の顔ではなかった。
「このままじゃしんじゃうよお!! まってェ!!!」
涙を流し懇願する。
けれど彼女の声は、地上へと繋がる階段をのぼっていく母の背中には、届いていなかった。
やがて地下室の扉が閉まると、また、静寂だけが戻ってくる。
かすかな呼吸音だけが、消えかけた命の灯をつないでいた――
――
――――
――――――
「――お腹……減った……」
あれからすぐに、お皿の上は空になった。
貴重なパンは、大事に大事に、指先でちぎりながら食べた。
少しでも長く味わえるようにと、舌に乗せて溶かすように噛んだ。
……けれど、どれだけ大事に食べても、あっという間になくなってしまった。
ぎゅるるるるるるるるゥ……
空腹は遠慮なく、少女の腹の底で鳴り続ける。
「……うぅ……っ!! なにか……なにか食べ物は……」
彼女は縋るように、お皿をひっくり返した。
ほんの小さな欠片……粉でもいい。
何か残っていないかと、皿の裏に指を滑らせる。
その時。
「んえ……? これは……」
何かに気づいた。
皿の裏に、小さなものが貼られている……それは――
「――シール……?」
それは、彼女がうんと小さい頃に作ったモノだった。
少し形の崩れた肉球の柄だ。
胸の奥に、遠い日の光が、かすかに差し込む――
――
――――
――――――
――3年前(タイガ達のいる現在から見れば7年前)。
「――えい! ペタ!」
「わわ! ちょっと~!」
今よりも幼き日の少女が、母の頬に肉球シールを貼り付ける。
「えへへ……それあげる! あと使ってないシールもあげる!」
「ちょっと~、顔に貼るなんて……ありがとう……」
チーシャは、苦笑しながらも嬉しそうに目を細めていた。
「可愛いシール貰っちゃった、どこに貼ろうかな……ホウキとか?」
「え~ホウキ~?」
彼女はぷくっと頬を膨らませる。
「もっと大事なモノに……ううん、大切な時に貼ってほしいにゃ! だってこのシールは――」
――
――――
――――――
「――ふざけるなッ!!!」
その暖かな記憶を振り払うように、少女は皿を弾き飛ばした。
乾いた音が冷たい地下室に響く。
「こんな仕打ちしておいて……なにが……ッ!!
……なにが……」
声は叫びから、震えへ……そして掠れへと変わっていく。
怒りがある。
悔しさがある。
でもそれ以上に――
裏切られた痛みが、胸の奥でどうしようもなく広がっていく。
少女は力なく床へ崩れ落ち、膝を抱え込んだ。
(……もう……今はどうでもいい……村の事も……シールに込めた……意味も……)
もう怒る気力も、泣く力さえも残っていなかった。
暗闇が静かに、小さな体を包み込む――
――
――――
――――――
――それから、また……1週間。
出される食事は、日に日に少なくなっていった。
満たされることのないお腹、止まらない寒気。
時間の感覚すら曖昧になり、夜と昼の区別もつかなくなる。
人生で最も長く、最も冷たく、最も過酷な日々。
そして――
ついに。
〝人生最悪の日〟が訪れる。
第13話は明日の20時10分に投稿です。
第1章完結まで毎日投稿中!!




