*ディートリヒ*
「この一か月、お前たちがこれほど無能な者どもだとこうも必死に俺に知らせてくるとは思わなかった」
玉座にて、ドルツィア帝国ディートリヒは苛立ちを隠そうとせず、萎縮し平伏する家臣たちに吐き捨てた。たかだか逃げた獣一匹とそれにしがみつくことしかできない子兎を見つけ出すことがそんなに難しいのか。
「し、しかし……相手は神獣でございます……!!」
「我々の目をかいくぐり、もうこの国にいないのでは……」
スレイン王朝が統治した王国ロトはそれほど大きな国ではない。一か月もあれば国外へ脱出することは容易く、家臣たちは今頃海を渡って別の大陸に行っているとさえ考えていた。
「なぜお前たちはこうも愚かなんだ?俺が有能な者は俺へ歯向かう者だろうと生かしてやっているのに、昔から俺を信じてついてきているなどという顔の者どもは子供の使い一つできないのか?」
「陛下!!」
鬱陶しいと、ディートリヒはうんざりした。目を伏せると、それ以上叫んでも皇帝の怒りを煽るだけだと知っている家臣たちは、臣下の礼を取って下がる。次に皇帝に会う時に、今日と同じ報告をしないようにと、それは誰もがわかっていることだった。
「………………」
去り行く人の気配を感じながら、ディートリヒは何故誰も、事の危うさを理解できないのか不思議だった。
神獣が逃げた。
この国が千年以上捕らえていた獣が、この国に縛られるはずだった獣が、あっさりとこの玉座から遠ざかったのだ。
スレイン王家に妹を嫁がせたディートリヒは、妹より王家に伝わる神獣の伝説をある程度知っていた。外からの、それもドルツィア帝国からの王妃であるからと妹は全ての情報を手に入れられたわけではないらしいが、しかし、神獣が代々王妃の最初の子を融かした鎖で縛られていることは知った。
だというのに、玉座に就いたディートリヒの言葉は神獣にとって綿毛ほどの重さもなく、あっさりと目の前から去った。
去れたのだ。
つまり、どこからどこまでが「事実」だったのかと、ディートリヒは疑う必要があった。
建国を手伝った神の獣。
歴代の王に仕え、友のように傍らで国を見守った。
国の守護獣。
その、反面。
国に縛られ、半身を捕えられた獣。
イドラ・マグダレアとその妃を失った時に、人に見切りをつけたとされる獣。
それでも初代の王との契約により国を離れられなかった獣。
それがあっさりと、王の元から離れた。
「…………本気であの小娘を王に?」
いや、不可能だとディートリヒは考える。
百年前ならいざ知らず、文明の発達した時代だ。ただの獣の一存で、ただ強いというだけの存在が王座につくことなど、伝説の一幕でもあるまいしできるわけがない。統治を剣や牙で行う時代ではないのだ。
貴族をまとめ上げる才覚もなさそうな小娘が玉座に就いたところで、誰が付き従うだろう。
だが、その行動を「国を取り戻す神の獣の行動」と判断せずにいたらどうか?
ディートリヒは口元を抑える。
そもそも、どこからどこまでが、神獣が人に知らせた「事実」なのか?
人の使う言葉を話し、人にわかる言葉で語る。
獣の声は人に理解できるわけがないのに、なぜ我々は同じ言葉を発しているからと、あの獣の心がわかるというのだろうか。
「……ぅっ…………」
何かを掴みかけたディートリヒに激しい頭痛が走る。
時々、王位を手に入れようと思った時から時折、こうした痛みがディートリヒを襲った。医者に診せて、魔法使いに診せても「異常なし」と困惑されるだけだ。原因不明、ディートリヒの勘違いではないかとさえ思われる痛みに、ディートリヒは誰にも頭痛がすることを告げなくなった。
この痛みを無くすことができるのは神獣を手に入れることだけだと、そう思う。神獣さえ支配できれば、ディートリヒは何もかもが解決すると、痛みのない時には「正気か?」としか思えない考えが、頭痛の時にだけ強く浮かぶのだった。




