46話 黒猫の正体
「まず解剖を始める前に言っておきます。伯爵は時計塔から落ちたのではありません」
伯爵邸の一室。臨時に設けられた遺体安置室の中で、マリアージュはきっぱりと言い切った。
室内には、火葬されたモンタルボ伯爵の遺骨と、老執事ジュストの遺体が並べられている。
解剖を見届けるために立ち会っていたオスカーは、静かな声で尋ねた。
「断言するからには、根拠があるんだろうな」
「もちろんですわ」
マリアージュは手袋をはめ直し、ジュストの遺体を解剖し始めた。
「ご覧なさい、こちらのジュスト。頭蓋冠から頭蓋底にかけて、粉砕骨折と陥没骨折が生じています。頭部から強く叩きつけられた、あるいは落下の衝撃が頭部へ集中した時に見られる損傷ですわ」
いまだ遺体を直視することに慣れていないコーリーが、涙目で記録を取っている。マリアージュは構わず、ジュストの遺体を調べ続けた。
「さらに全身に多発骨折。肋骨の折れ方から見て、肺を含む胸部臓器にも損傷があります。つまりジュストは高所から落ち、ほぼ即死したと見ていい」
「それに比べて、伯爵は違うのか」
「ええ」
マリアージュは伯爵の遺骨を指し示した。
「伯爵の頭部には、レオポルドが家系譜で殴った時の打撲痕があります。でも頭蓋骨そのものはジュストのように粉砕していない。もし本当に時計塔から落ちていたなら、ジュストと似た損傷がもっと多く出ていたはずですわ」
「あー……つまり、伯爵もジュストも同じ塔から落ちた、って遺書には書いてあるけど、遺体はそう言ってないわけね」
「そういうことです」
ユージィンが補足する傍らで、マリアージュは脛骨と腓骨のあたりを指した。
「伯爵の足には足関節付近の斜めの骨折と、踵骨の圧迫痕があります。高所から落ちた、あるいは足から強く着地した時にも似ていますが、時計塔から落ちたにしては損傷が軽すぎる。むしろ足場の悪い場所で足をつきそこねたか、階段状の場所で崩れ落ちたと考えるほうが自然ですわ」
「つまり遺体の知識のない者が、姑息にも遺書を捏造して、二人が同じ場所で死んだように見せかけようとしてるってことだよね」
「その通りですわ、ユージィン」
マリアージュが頷くと、コーリーが涙目のままクリスタル板を抱え直した。
「そ、それと……ジュストさんの血液を分析した結果、薬物成分が検出されました。睡眠薬、というより鎮静薬に近いものです」
「量は?」
「致死量ではありません。でも足元がふらついたり、反応が鈍くなったりする程度には効いていたと思います」
今度はエフィムが白い眉を寄せた。
「つまり死の直前に、真犯人によって身体の自由を奪われていたということじゃな」
「手袋をつけて、指紋を残さないようにして、鎮静薬でふらついたジュストを時計塔まで連れていって、揉み合いのすえ突き落とした……」
「なんか、いかにも怪しい人が一人いるよね」
「キャンディス嬢か」
伯爵の孫娘キャンディス。
いつも手袋をつけている若い薬剤師。薬剤師であれば、鎮静薬を扱う機会もあるだろう。そして彼女には伯爵を恨む理由があるように見える。
しかしマリアージュはすぐには頷かなかった。
「決めつけるのは早いですわ。そもそも彼女がジュストを殺さなければならない理由がまだ見えません。ジュストを殺して得をするのは誰か。そこを考えなければなりませんわ」
「うーん、他になんか手掛かりはないかなー?」
ユージィンが腕組みしながら、ジュストの遺体を覗き込む。コーリーはさらに涙目になった。
「ユージィン、脳がはみ出した頭を、よく直視できるね……」
「慣れたくはないけどね。あれ、マリアージュ様。頭のてっぺんあたり、なんか付着してません?」
「どれどれ」
マリアージュは採取瓶を手に、ジュストの頭部に近づいた。
血に混じって、淡い黄色の粉のようなものが髪に絡んでいる。土埃にしては粒が細かく、光を受けると微かに白銀色にきらめいた。
「花粉……ですわね」
「靴じゃなくて髪に?」
「そこが重要ですわ。靴につくなら足元の草花でも説明できます。けれど髪につくなら、頭上から降った可能性がある。コーリー、分析できます?」
「ちょ、ちょっとお待ちください」
コーリーは震える手で植物図鑑とクリスタル板を取り出し、花粉の形状を照合し始めた。
「多分、銀鈴草です。今の季節にだけ咲く白い小花で、夜露を含むと銀粉みたいな花粉を落とします。それとこの花は蔓性です。壁や木に絡まって咲くので、花粉が上から降るという条件にも合致します」
「その銀鈴草は、屋敷のどこに咲いていますの?」
「部下に探させよう」
オスカーが片手を上げると、控えていた騎士がすぐに部屋の外へ出ていった。
ジュストが監視された部屋から消えた謎。その答えにはこの花粉がかかわっているはずだ。
「花粉。それに、靴底の苔と石粉……」
「多分、伯爵とジュストは同じ場所を通ってますよね?」
「ええ。でもまだ足りませんわ」
一通りの解剖を終えたマリアージュは伯爵の遺骨とジュストの遺体を見比べた。
あと少し。
あと少しで、事件の全体像が見えそうなのに、その最後のピースが埋まらない。
「にゃー」
「あら、ルフィ」
いつの間に忍び込んだのか、黒猫のルフィが遺骨の置かれた台へ軽やかに飛び乗った。
「ちょっと、そこはあなたの遊び場ではありませんわよ」
ルフィはマリアージュの注意など聞こえないふりをして、主である伯爵の下顎骨のあたりを、前足でちょいちょいとつついた。
「なんですの? 口の中は昨日調べましたわ。それはそれは見事な金歯が――」
言いながら、マリアージュは伯爵の下顎骨を持ち上げた。
そして、ふと動きを止める。
「……あら?」
「どうした?」
「金歯の間に、何か挟まっていますわ」
「えっ!?」
マリアージュはピンセットを取り出し、慎重にそれを採取した。昨日は金歯の輝きと骨折ばかりに目が行き、微細な残留物までは確認しきれていなかったのだ。
採取瓶の中に落とされたものは、黒く焦げたような細い繊維だった。
「何かの糸屑のようですわね」
「糸屑?」
「おそらく布。伯爵は顔に布を押し当てられ、もがくうちにそれを噛みしめたのでしょう。その一部が歯の隙間に挟まった」
「つまり伯爵は布で口を塞がれたということか」
「ええ。口と鼻を塞がれ、同時に喉を圧迫された可能性が高いですわ。舌骨大角の骨折とも合います」
「しかし火葬されておるのに繊維が残るものかのう」
エフィムの疑問に、マリアージュの歯切れが少し悪くなった。
「普通なら高温で燃え尽きてもおかしくありません。歯の隙間に深く入り込んでいたから残ったのか、それとも……」
マリアージュはエフィムの前に立つと、片手を彼の喉元へ、もう片方の手を口元へ当てた。
「おそらく犯人はこうして片手で伯爵の喉を強く押さえ、もう片方の手で布を使って口と鼻を塞いだのですわ」
「もがもが。そ、それで喉の骨が折れたんじゃな?」
「ええ。高齢で骨が脆くなっていたこともあり、強い圧迫で舌骨が折れた。窒息が直接の死因でしょう」
「それは例えば女性でも可能か?」
「バネッサ夫人の毒で弱り、レオポルドに殴られ、さらにどこかで足を負傷した伯爵は、かなり衰弱していたはずです。条件が揃えば、女性でも不可能とは言い切れません」
その時、扉がこんこんとノックされ、先ほど部屋を出ていった騎士が戻ってきた。
「報告します。時計塔付近を探索したところ、古い井戸に続く小道で銀鈴草を発見しました」
「古い井戸?」
「はい。さらにその井戸を調べたところ、井戸の内側に人が通れるほどの横穴がありました」
「……、隠し通路か!」
――おいおい、ここは忍者屋敷かーーーい!
マリアージュは思わず心の中で突っ込んだ。
◇◆◇
鬱蒼と緑が生い茂る古井戸の内側に、その隠し通路は確かに存在していた。
井戸の底ではなく、途中の石壁が横へ抜けている。人ひとりが身を屈めれば通れるほどの穴だ。苔むした石段が奥へ続き、冷たい空気がじっとりと肌にまとわりつく。
オスカーが先頭に立ち、マリアージュ、ユージィン、エフィム、コーリーが続いた。
「ずいぶんかび臭い場所ですわね」
「だがモンタルボ伯爵らしい。誰も信じていなかったからこそ、非常時の逃げ道を屋敷のあちこちに作らせていたのだろう」
天井から、ぴちょん、ぴちょん、と水滴が落ちる。
通路は古い石材で作られていた。壁も階段も湿っており、ところどころに青緑の苔が張りついている。
「マリアージュ様、足元見て」
「ん?」
ユージィンが指さした先には、靴底に付着していたものとよく似た苔があった。さらに石段の角は白く削れ、石粉が溜まっている。
コーリーは言われる前に、それを素早く採取した。
「これで伯爵の靴とジュストさんの靴についたものを照合できます」
「おそらく伯爵は、この隠し通路のどこかで足を負傷したのですわ」
「なんだと?」
「そして昨夜、ジュストもこの通路を使って部屋から外へ出た。執事なら、この隠し通路の存在を知っていてもおかしくありませんもの」
その時だった。
ふぅっと、どこからか強い隙間風が吹いた。オスカーの持っていた松明の火が掻き消える。
途端に、通路内が真っ暗になった。
「ぎゃああああーーーっ! 滑る、滑る! 暗い! 狭い! じめじめする!」
「仮にも公爵令嬢なんだから、もう少し品のある悲鳴を上げてよ」
「公爵令嬢でも暗闇は苦手なんですの! 誰か、誰か早く灯り!」
「はい、ただいま。“照ら”――」
「にゃあ」
……ぽっ。
コーリーが照明魔法を唱えるより先に、暗闇の中に一つの火の玉が浮かび上がった。
空中でゆらゆら揺れるそれは、まるで墓場に漂う幽霊の魂のようだ。
「ぎゃあああああ! 出た! 出た! 伯爵の幽霊が出た!」
「マ、マリアージュ殿!?」
「いやいやいや、こっち来ないでーーー!」
マリアージュは咄嗟に、すぐそばにいたオスカーに抱きついた。
柔らかな身体を押しつけられ、暗闇の中でも分かるほど、オスカーの顔が真っ赤になる。
「マ、マリアージュ殿、お、落ち着いてください!」
「落ち着いてなんかいられませんわ! 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、モンタルボ伯爵、どうか成仏なさってーー!」
「え、マリアージュ様って幽霊が怖いんですか? 意外だー……」
「それよりいつまでくっついてるんだよ!」
ユージィンが大声で怒鳴る。
しかしいくら非科学的だと言われても、怖いものは怖い。
前世で医大に通っていた時、看護師から実地の霊体験を聞かされてから、マリアージュは心霊現象が大の苦手になったのだ。
法医学者の間でも、幽霊が犯人を教えた……という例も聞いたことがある。
ましてやここは異世界。幽霊が出てきてもおかしくはない。
「いや、ちょっと待て。コーリー、今お前、照明魔法使わなかったよな?」
「え? あ、うん。使う前に、勝手に火の玉が……」
相変わらずマリアージュは涙目でオスカーにしがみつき、オスカーも完全に石像と化していた。その光景に呆れながら、ユージィンとコーリーは恐る恐る足元を見る。
……ぽっ。
すると二つ目の火の玉が現れた。
その淡い光が、術者の姿を照らし出す。
「にゃあ」
「……お前か」
ユージィンは眉間に皺を寄せつつ、背後に立つ黒猫を見下ろした。
「マリアージュ様」
「な、何ですの?」
「こいつ、魔法が使えます」
「――え?」
「はぁ?」
奇しくも、マリアージュとオスカーの声がぴたりと重なった。
隠し通路の石段の上で、ルフィは得意げにピョンと跳ねる。
「こいつ、炎魔法の使い手です」
「にゃん♪」
「え……えぇぇぇぇぇーーーっ!?」
かび臭い隠し通路の中で、マリアージュの叫び声が幾重にもこだました。




