45話 容疑者の怪死
モンタルボ伯爵邸に調査へ入って二日目の朝。
食堂にはマリアージュをはじめとするメンバーが集まっていた。とりわけルフィはマリアージュの膝の上に座り、ひどくご満悦だった。
「にゃあ」
「仕方ありませんわね。少しだけですわよ」
マリアージュがチーズを小さく裂いてやると、ルフィは満足げにそれをむにゃむにゃと食べる。
オスカーはその様子を黙って見ていた。
昨夜、テラスで交わした言葉が、まだ胸の奥に残っている。
マリアージュはルフィにチーズを与えながら、ふと顔を上げた。
刹那、ぴたりと二人の視線が重なり合う。
オスカーはなぜか咳払いをして、わざとらしく窓の外へ目をそらした。
「……?」
マリアージュが首を傾げる傍らで、ユージィンがパンをかじりながら、じとりと二人を睨む。
「なんか……嫌な予感がする」
「なんですの、朝から縁起でもない」
「いや、事件じゃなくて。もっとこう、男の勘的な」
「寝不足で頭が腐っているのではなくて?」
「人をこき使って万年寝不足にしているのは誰ですか。ていうか、腐ってないし!」
いつものように、些細なことで口喧嘩を始めそうなマリアージュとユージィン。コーリーが小声で「ユージィンの勘、大体当たりませんからね」と笑い、エフィムが「若いのう」とスープをすすっていた。
そんな中、食堂の扉が開いた。
現れたのは弁護士のケネス=サンダースだ。いつものように身なりは整っている。黒い上着には皺ひとつなく、手には数枚の書類がまとめられていた。
「お食事中、失礼いたします。キャンディス様の生い立ちなどについては、こちらの書類にまとめておきました」
「まあ、朝早くからありがとうございます」
ケネスは書類の束を食卓へ置いた。
その拍子に左手から紙の端が一枚だけ滑りかける。
「失礼」
ケネスは右手でそれを押さえ、穏やかに微笑んだ。
マリアージュはその最初の一枚を、ひょいと拾い上げる。
「キャンディス嬢がこの屋敷へ来られたのは、一か月ほど前のようですわね。年齢は24。モンタルボ伯爵の一人娘、メラニー様のお子様」
「ええ。ですがメラニー様は伯爵が薦めた政略結婚を拒み、身分の低い薬剤師の青年と駆け落ちなさいました。伯爵は激怒し、娘を勘当。その後、メラニー様が病に倒れても、最後まで正式には許されませんでした」
「え、ひどい」
思わずコーリーが素直な感想を口にすると、場の空気が一段重くなった。
「じゃあ、キャンディス嬢のお母様は……」
「すでに亡くなられております。父親も小さな薬房を営んでおりましたが、妻の治療費で困窮し、やがて過労で亡くなったとか。キャンディス様は知人の薬房に引き取られ、薬剤師として働いているようです」
「それ、伯爵を恨んでてもおかしくないね」
ユージィンが思わずつっこむと、ケネスは静かに頷いた。
「私の口から断定はできません。ですがご両親を最後まで認めなかった祖父を、心から慕っていたとは考えにくいかと」
「それにあの人、いつも手袋してない?」
さらにユージィンが質問を重ねる。
「ええ。薬剤師であれば手荒れを避けるため、あるいは毒性のある薬草を扱うため、手袋を常用していても不自然ではございません」
ケネスの答えは滑らかだった。
滑らかすぎるほどに。
マリアージュは書類をもう一枚手に取った。
「伯爵がキャンディス嬢を探し始めたのは?」
「記録上では、およそ一年前です」
「一年前……」
オスカーが小さく呟く。
その響きに、マリアージュはちらりと彼を見た。
「おそらくあなたが伯爵を叱責した頃ですわね。伯爵は過去、娘を勘当した。でもあなたに言われて考えを改め、自分が捨ててきたものを取り戻そうとした。……偶然と片づけるには、少々時期が合いすぎますわ」
「伯爵は償おうとしたのだろうか」
オスカーの質問に、マリアージュは首を振った。
伯爵が何を思ってキャンディスを呼び寄せたのか。
本人の口から聞くことができない以上は、すべて憶測でしかない。
その時だった。
食堂の扉が、突然バン!と乱暴に開いた。
「オスカー団長!」
入ってきたのは、伯爵邸の監視にあたっていた騎士の一人だ。
その焦ったような表情を見て、オスカーは即座に立ち上がる。
「どうした」
「ジュストが……執事のジュストの姿が消えました!」
「何!? 消えた?」
マリアージュも書類から目を離し、オスカーたちの話に耳を傾けた。メメーリヤ分院メンバーの間にも、緊張が走る。
「はい。部屋の前には夜通し騎士を立たせていました。扉からは誰も出ておりません。ですが今朝、取り調べのために呼びかけても返事がなく、踏み込んだところ部屋はもぬけの殻でした」
「はあ!? 見張ってたのに消えたってどういうこと!?」
「窓はどうじゃ?」
ユージィンたちもまた、やんややんやと騒ぎ立てる。
「窓も扉も、すべて内側から鍵がかかっていました。他に目に見える脱出口はありません」
「これは逃亡の危険性が高まりましたわね」
マリアージュはルフィを抱っこしたまま立ち上がる。
今屋敷の中にいる人物の中で、ダン医師に死因捏造を頼んだジュストは最重要参考人だ。その彼が、一体どんな手を使って密室から抜け出したかは謎だ。しかし今はそれより先にやるべきことがある。
「急ぎなさい。屋敷内と敷地内をくまなく捜索しないと逃げられるわ」
「全門封鎖。誰も屋敷の外へ出すな。ジュストを発見しても一人で近づくな。必ず報告しろ!」
オスカーは大声で命じた。騎士たちが「はっ!」と敬礼して、散り散りに走り出す。
「わたくしたちも探すわよ」
「はい!」
コーリーがクリスタル板を抱え、すぐにマリアージュの後に続く。
「オスカー殿、わたくしたちはジュストの私室を調べてみますわ」
「頼んだ」
そこでいったん、マリアージュはオスカーや騎士団と別れる。
チーズを突然取り上げられたルフィだけが、
「にゃにゃにゃにゃーーーっ!」
「食事は後になさい。行きますわよ!」
と、マリアージュの腕の中でじたばたともがき、不服を漏らしていた。
――そして。
「………………」
慌ただしくマリアージュたちが食堂を出ていく姿を、柱の影からキャンディスが、何かもの言いたげにじっと見つめていた。
◇◆◇
広大な伯爵邸での捜索は、思った通り難航した。
屋敷本館だけでも迷宮のように入り組み、さらに庭園、温室、倉庫、古い礼拝堂まである。人ひとりが隠れるには充分すぎるほどだった。
一方、マリアージュたちは手掛かりを求めてジュストの私室を捜索した。
クローゼットの奥に怪しいカバンがあり、中を見てみると泥で汚れた靴が入っていた。
「モンタルボ伯爵の靴かしら?」
「サイズは合うのう」
「何かしら、この白っぽい粉は?」
探していた物証が見つかり、ジュストが伯爵襲撃に関わっている線がますます濃厚となった。
靴底を指でなぞると、湿った緑色の破片と正体不明の白い粉が付着していた。とりあえず密閉袋の中に靴をしまい、保管する。
そして時刻が昼に近づき始めた頃、ようやく聖騎士団から知らせが入った。
「時計塔の下でジュストと思われる男性が倒れているのが発見されました!」
……そう、物言わぬ死体となって。
◇◆◇
見つかったのは、屋敷の北側にある古い時計塔の下だった。
ジュストは石畳の上に倒れていた。
黒い執事服は乱れ、白髪は血と土で汚れている。細い身体は不自然な角度に折れ曲がっていた。塔の高さを考えれば、生きているはずもない。
マリアージュが近づこうとすると、オスカーが一歩前に出た。
「足元に気をつけろ」
「分かっていますわ」
そう言いつつ、マリアージュは迷いなく遺体のそばに膝をついた。ルフィが少し離れた場所で、低く喉を鳴らす。
塔の屋上近くからは、一枚の紙が見つかった。
遺書だった。
そこには、乱れた筆跡でこう書かれていた。
長年、執事の立場を利用し、伯爵家の財産を横領していたこと。
しかしその事実を伯爵に知られ、破滅を恐れたこと。
事件の夜、書斎で伯爵とレオポルドの諍いを目撃してチャンスだと思ったこと。
その後、ぼんやりとする伯爵を時計台まで連れていき、首を絞め、屋上から突き落としたこと。
伯爵の遺体を寝室に移動させ、靴を隠し、ダンに死因偽装を頼んだこと。
捜査が進み、もはや逃げ切れないと悟ったこと。
すべての罪を告白し、死をもって償うこと。
読み上げられる内容に、周囲の者たちは息を呑んだ。
「では……ジュストが真犯人?」
マリアージュ達と一緒に駆けつけたケネスが沈痛そうに目を伏せた。
「伯爵を殺し、罪に耐えきれず自ら命を絶った。そう考えるのが自然か」
オスカーのつぶやきに、マリアージュは遺体から目を離さず、小さく笑った。
「自然、ですか」
「違うのか?」
「違和感だらけですわ」
マリアージュはジュストの手を取った。
指先は冷たく、硬直が始まっている。さらに手首、肘、顎、首筋を順に確かめた。
「死後硬直の進み具合、体温、血液の沈み方から見て、死亡時刻は深夜二時前後。少なくとも、今朝になってから飛び降りたわけではありません」
「深夜二時……」
マリアージュの見立てを聞き、オスカーの表情が険しくなる。
「全員のアリバイを調べ直せ。監視についていた騎士の交代時刻も確認しろ」
「はっ」
マリアージュはさらに、ジュストの手首を指で示した。
「ここ、皮下出血がありますわ」
「転落の衝撃では?」
「いいえ、これは落ちた時の傷ではありません。落ちる前、誰かに強く掴まれた痕です。ただし輪郭がぼやけている。素手ではなく、布か手袋越しでしょうね」
「つまり揉み合った?」
「その可能性がありますわ」
一応念のため、マリアージュはジュストの爪をチェックした。
だが残念ながら、別人の皮膚片などは見当たらなかった。
もし揉み合った人物がいるとしたら、かなり用心深い。
「さて」
続けて、ジュストの靴を見た。靴底には伯爵の靴とよく似た泥が付着している。湿った緑色の欠片と、白い粉。
コーリーがしゃがみ込み、眼鏡越しに目を凝らす。
「これは苔……それと石粉でしょうか。古い石壁か、湿った階段みたいな場所を通ったのかもしれません」
「記録なさい」
「はい!」
マリアージュは次に遺書に視線を移した。
一見したところ、内容は自分の罪を懺悔した普通の遺書に見える。
――けれど。
「ユージィン」
「はいはい、次は指紋ね」
ユージィンは魔導顕紋粉を取り出し、慎重に遺書の表面へ散らした。
「“跡よ、浮かべ”」
淡い魔法の光が紙面をなぞる。しかしそこに指紋は浮かばなかった。
ジュストのものも、発見者のものも、誰のものも。
「……ない。指紋がついていませんわ」
「なんだと?」
今度こそ、マリアージュの口元が、わかりやすいほど吊り上がった。
オスカーも改めて遺書を手に取り、すうっと目を凝らす。
「これから自殺しようという人間が、わざわざ自分の遺書に指紋がつかないよう配慮します?」
「しないだろうな」
「昨日のレオポルドの騒ぎで、屋敷の者は全員指紋が物的証拠になると把握していましたわよね?」
「だからこそ今回は、指紋を残さないよう慎重になった」
マリアージュとオスカーは視線を合わせ、立ち上がった。
「遺体を遺体安置所に運んでちょうだい。すぐに解剖します」
「屋敷の者を引き続き監視しろ。外出も禁止だ」
自殺か、他殺か。
ジュストの死の真相はまだわからない。
けれど伯爵家の遺産を巡って、とうとう二人目の死者が出てしまった。
最も怪しかった容疑者が密室から失踪。
そして伯爵を殺した罪を悔いて自殺。
普通ならばこれで事件は幕引きだ。
しかし法医術士としてのマリアージュの勘が、こう告げている。
「謎は解けたのではありません。むしろようやく本当の迷路の入口に立ったところですわ」
恐ろしくぬるい風が、時計台の針を揺らすように吹いていた。




