44話 老人と黒猫と聖騎士
モンタルボ伯爵を殴打した犯人は、あっさり見つかった。
屋敷内のすべての人間の指紋を採取し分析した結果、ある人物のものと完全一致したのだ。
レオポルド=モンタルボ。
何かあるごとに声を荒げ、周囲の反感を買っていた伯爵の甥である。
「……はあ、やっぱりつまらないですわ」
屋敷内の臨時取調室で、マリアージュはまた不機嫌になっていた。
指紋採取に時間がかかったため、すでに時刻は20時半を回っている。
それにしてもあまりに意外性がない。
推理小説のコンクールなら一次審査落ちレベルの筋書きだ。
レオポルドは言い逃れのできない証拠を突きつけられ、まるで別人のように意気消沈していた。
「指紋? そんなものが……」
「レオポルド様、ではご自分がなさったと、お認めになるのですね?」
そうレオポルドに尋ねたのは、遺言を管理するケネス弁護士だ。
今日一日だけでダン医師、バネッサ夫人、そして甥のレオポルドの犯行が暴かれた。
弁護士としては頭が痛いことだろう。
さらにオスカーがきつい口調で尋ねる。
「動機は何だ?」
「……」
「おそらく、借金でございましょう」
「ケネス!」
オスカーの質問に答えたのは当人ではなくケネスだった。レオポルドの顔色がますます悪くなる。
ケネスは手持ちのファイルから、一通の書類を取り出した。
「以前、レオポルド様が賭博による借金で自己破産寸前まで追い込まれた時、伯爵が全額肩代わりしたことがございました。これはその時交わした誓約書です」
「誓約書?」
オスカーは書類を手に取り目を通した。
そこには『借金の尻拭いは今回のみで、今後一切援助はしない』と書かれている。
「だけどまた放蕩が祟って借金が膨れ上がった。だから伯爵に金を無心した。でもすげなく断られた。それで逆上した。……そんなところかしら?」
「にゃーん♪」
マリアージュが推理すると、膝の上で寝そべるルフィが「正解!」と言わんばかりに鳴いた。
刹那、レオポルドの目がぎょろりと開き、突然逆上し始める。
「お前らに何がわかるっ!? この野良猫も! ふざけるな、余計なことばかりしやがって!」
「きゃあっ!」
「やめろ!」
レオポルドは目の前のマリアージュとルフィに向かって鋭い蹴りを入れた。だがその前にオスカーが立ちふさがり、素早くレオポルドを制圧する。
(――ん? そういえば、以前にこれと似たようなことが……)
レオポルドを締め上げながら、ふとオスカーの脳裏にある記憶がよぎった。
「お前らに何がわかるとおっしゃるなら、二週間前何があったのか話していただけます? このままではあなたが伯爵を殺した実行犯になりますわよ」
「違う、俺じゃない!」
しかしオスカーが古い記憶にとらわれている間も、マリアージュの尋問は続いていた。攻撃されて気が立ったのか、ルフィもフーッとしっぽの毛を膨らませている。
「事件があった夜、伯爵に何と言われました?」
「……お前のような男に、モンタルボの名は継がせん、と」
レオポルドの顔が、醜く歪んだ。
「あのジジイは俺を見下した。借金も立て替えない。相続からも外す。挙句に、どこの馬の骨とも知れない孫娘に財産を譲りたいなどと言い出したんだ!」
「だからその家系譜で殴った」
マリアージュの目に、侮蔑の色がにじむ。
「家名を欲しがった男が、家の歴史そのもので当主を殺す。実に品のない冗談ですこと」
「違う! 俺は殺すつもりなんかなかった! あの時、ジジイはパイプを吸った後でぼんやりしていた。俺が何を言っても馬鹿にしたように笑って……気づいたら、目の前の本を掴んでたんだ!」
「結果は同じです」
「違う、俺が殴った後もジジイは生きていて、ふらふらと書斎の外に出ていったんだ! 俺は怖くなって自室に戻った。嘘じゃない!」
「連行しろ」
オスカーの一言で部下の聖騎士達がレオポルドの両脇をつかんだ。
レオポルドは最後まで「俺は犯人じゃない!」と叫び続けていたが、その声も扉が閉まると聞こえなくなった。
「……さて」
室内が一瞬静寂に包まれた後、話を切り出したのはケネス弁護士だった。
色々なことがありすぎて、彼にも濃い疲労の色が滲んでいる。
「本日の捜査はこの辺りで切り上げてもよろしいでしょうか。いいかげん時間も時間ですし」
「そうね……そろそろお腹も空いてきたわ」
ぐう。
言うより早く、マリアージュのお腹が鳴った。
「食堂に夕飯を用意させております。皆様どうぞご自由にお食べ下さい」
「先ほどレオポルドが言っていた、キャンディス嬢がこちらに引き取られた経緯を聞きたいのですけれど?」
「それも今夜、資料としてまとめておきましょう。他に知りたいことがございましたら、何なりとお申し付けください」
残る容疑者の中に執事のジュストも含まれているため、屋敷内のことは現在ケネス弁護士が差配しているようだ。
レオポルドが書斎で伯爵を殴打したことは分かった。
けれどそれが直接の死因に結び付くかは、まだはっきりとしない。
明日以降も、ジュストやキャンディスから話を聞く必要があるだろう。
「容疑者となりそうな人物には、全員監視がついてるんですわよね?」
「……」
「オスカー殿?」
「え? ああ、悪い、聞いてなかった」
一方、オスカーと言えば、先ほど思い出した記憶に意識を持っていかれていた。
マリアージュも彼の様子がおかしなことに、すぐ気づく。
「何か気になることがあるなら、話していただけると助かりますわ」
「……」
オスカーは一瞬迷ったが、法医術士としてのマリアージュの優秀さは、今日一日共に行動しただけで嫌というほど理解できた。
だから、ただ黙って頷いた。
◇◆◇
その後、メメーリヤ分院の面々は、ケネスに案内されて食堂へ向かった。
長い食卓には温かいスープと肉料理、焼きたてのパンが用意されていた。ユージィンとコーリーは、徹夜明けのような勢いで食事にかぶりつき、エフィムは「年寄りには肉より酒が欲しいのう」とぼやいている。
マリアージュは軽く腹を満たすと、ワイングラスの代わりに温かい茶を片手にテラスへ出た。
夜の庭は静かだった。昼間の騒ぎが嘘のように、噴水の水音だけが響いている。
オスカーもまた、食事を早々に切り上げてテラスへと向かった。足元にはいつの間にかルフィがいる。先ほどレオポルドに蹴られかけたというのに、当の黒猫は平然とした顔である。
「それで? 何か思い出しました?」
「……ああ」
オスカーは少し迷った後、足元のルフィを見下ろす。
「一年前、俺はこの黒猫とモンタルボ伯爵に会っている」
そうしてオスカーはぽつりぽつりと、当時のことを語りだした。
記憶の中の夜会は、今よりもずっと華やかだった。
◇◆◇
眩しいシャンデリア。笑い声。宝石のきらめき。香水と酒の匂い。
今から一年前、王宮で王家主催の夜会が開かれた。その警備を担当していたオスカーは、庭の一角で何やら騒ぎが起きていることに気付いた。
「おい、そこで何をしている?」
警備主任として駆けつけると、庭の噴水近くに数人の貴族がたむろっていた。
しかもその足元には、暴力を振るわれたらしき黒猫がうずくまっている。
「貴公らがやったのか?」
オスカーは貴族たちの輪を押しのけ、弱っている黒猫を見た。
数人によってたかって虐められたようで、黒猫はひどく衰弱している。
「だって黒猫なんて不吉じゃないか」
「たかが猫一匹、蹴り殺したってどうということはない」
男たちは下品な笑いを浮かべ、自らの行動を正当化していた。
石畳の上に倒れている猫がほんの少し目を開け、弱々しく「みゃあ」と鳴く。
その視線の先に、一人の杖をついた老人が立っていた。
それがマルコ=モンタルボ伯爵。
当時のオスカーはそれが誰であるか認識していなかった。
けれど目の前の老人が黒猫の飼い主であろうことは、容易に想像がついた。
「これはあなたの猫ですか?」
「知らん」
オスカーが尋ねても、老人はつれなくそっぽを向くだけだった。どうやら人目を気にして、猫とは関係ないふりをしているらしい。
しかし主の態度を見ても黒猫は逃げない。それどころか、なおも老人の足元へ近づこうとする。
その時、酒に酔った貴族たちが、また口汚く罵り始めた。
「こんな汚い野良猫、貴族が飼うような猫じゃない」
「王宮にまで忍び込んできやがって。場が汚れる」
「もういっそ、蹴り殺してやろう」
「やめろ!」
オスカーは、考えるより先に動いていた。風のように黒猫を抱き上げ、酔った男の足を逆に蹴り返す。
貴族たちはさらに機嫌を悪くし、次々にオスカーを責め立てた。
「猫一匹のために、騎士が夜会を乱すのか!?」
「伯爵、何とか言ってやってくださいよ」
「そうです、こんな薄汚い猫、あなたにはふさわしくない」
オスカーは黒猫を腕に抱いたまま、気難しそうな老人を見た。
周りの粗野な言葉など、とうに耳に入っていなかった。
「この猫はあなたがどれだけ高い爵位なのか、どれほど財産を持っているかなんて知りません。あなたに取り入れば得をするなどとも考えていない。ただあなたという人を慕って、ここまでついて来たのでしょう。それを体面のために切り捨てるのですか」
「何?」
老人の目が怒りで細くなり、眉間には深い縦皴が何本も刻まれた。
「若造がわしに説教するか」
「説教ではありません。ただ人としての道を説いております。あなたは自分を慕う猫より、おべっかを使う取り巻きのほうが大事なのですか」
「……」
「自分にとって何が重要なのか、いま一度よくお考え下さい」
「――」
言った瞬間、周囲の空気が凍りついたのを覚えている。
老人はしばらくオスカーを睨んでいた。
しかしやがて無言で手を伸ばし――オスカーから黒猫を奪い取った。
その手つきは乱暴なようでいて、決して落とすまいという慎重さを含んでいた。
「行くぞ、ルフィ」
「にゃーん……」
老人は誰に聞かせるでもなく、猫の名を呼んだ。
それきり礼も言わず、少し足を引きずりながら夜会場を出ていった。
ただ――それだけのこと。
それだけのことを、モンタルボ伯爵は死の直前まで、決して忘れたりはしなかった。
◇◆◇
テラスには、夜風が吹き続けていた。
ようやく思い出した一年前の記憶に、オスカーは目を細める。
「俺はあの時、ただ猫を助けただけだ。あの老人がモンタルボ伯爵だと知ったのも、今日になってからだ」
オスカーがそう言うと、マリアージュはしばらく黙っていた。
するとルフィがオスカーの足元へ寄ってくる。オスカーは膝を折り、そっと手を差し出した。黒猫は少しだけ匂いを嗅ぎ、それから肉球をぽんとオスカーの手のひらに乗せた。
小さくて、あたたかな手だった。
「俺を覚えていたのか」
ルフィは答えない。ただ金の瞳で、真っ直ぐにオスカーを見つめている。
マリアージュはその様子を見て、ふっと相好を崩した。
「伯爵も覚えていたのでしょうね」
「伯爵が?」
「ええ。黒猫一匹のために、臆面もなく自分を叱った若い聖騎士を。ただ純粋に小さな命を守ろうとした人間を」
「俺はそんな立派なことをしたつもりはない」
「たとえ立派じゃなくても、モンタルボ伯爵の目を覚ますには充分すぎる言葉だったのですわ」
マリアージュの指摘に、オスカーはハッと息を呑む。
「モンタルボ伯爵は、人間を信じることに疲れていたのでしょう。後妻も、甥も、使用人も、誰もかも財産目当てに見えた。けれどこの子だけは違った。打算もなく、ただ自分を慕って夜会まで追ってきた。そのルフィを切り捨てようとした時、あなたの言葉で気づいたのではありませんか」
「何にだ」
「大事なものを守ろうとしない、己の醜悪さに」
「!」
これは推測ですけれど……と、マリアージュは微笑みながら続けた。
「人は一度疑い始めると、何もかも疑わしく見えるものですわ。愛情も、忠誠も、善意も。けれどすべてが打算とは限りません。少なくともルフィの伯爵に対する愛情は本物だった。そしてあなたはそれがいかに尊いことであるか、伯爵に訴えてみせた」
「だから俺を覚えていたのか」
「ええ、そして信用に足る人物だと確信し、わざわざ相続人の一人に指名した」
「……俺は、伯爵のことを何も知らなかった」
オスカーは、不意に星空を仰いだ。
「あの時も、ただ目の前で猫が傷つけられそうになっていたから止めただけだ。伯爵の孤独も、疑い深さも、何を抱えていたのかも知らなかった。そんな俺の言葉が、あの人に何かを残したのだとしたら……」
そこで言葉が途切れる。
夜風が優しく、テラスの石床を撫でていった。ルフィはオスカーの手のひらに置いた前足を、まだ引っ込めようとしない。
マリアージュは、茶器の縁に指を添えたまま静かに続けた。
「人は素直になれないまま、死んでしまうことがありますわ。モンタルボ伯爵もそうだったのでしょうね。けれど遺言状にあなたの名を残した。それが伯爵なりの返事だったのではなくて?」
「返事?」
「ええ。礼も言えなかった。謝ることもできなかった。でも自分が最後に頼るべき者の名は覚えていた。偏屈で、意地っ張りで、最低に面倒な老人らしい、不器用な返事ですわ」
「なるほど。困った御仁だ」
オスカーは思わず、小さく笑った。
確かにあの夜会の老人は、礼など言いそうにない男だった。
けれど黒猫を抱く手だけは、妙に慎重で……優しかった。
「マリアージュ殿」
「はい?」
「ありがとう」
「え?」
その言葉に、マリアージュは目を瞬かせた。
「……なぜ、わたくしがお礼を言われますの?」
「俺一人では伯爵が俺を覚えていた理由を、ただの気まぐれだと思ったかもしれない。だがあなたはあの人が何を見て、何を残そうとしたのかまで考えてくれた」
オスカーは手のひらに触れているルフィの小さな肉球を、きゅっと握り返した。
「伯爵をただの偏屈な老人で終わらせなかった。だから……ありがとう」
「……」
マリアージュはほんの一瞬、言葉に詰まった。
それからほんのりと頬を染め、ぷいと横を向く。
「わたくしは法医術士ですもの。偏屈老人の不器用な感謝くらい、読み解けて当然ですわ」
「あなたらしいな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
マリアージュは慌てて席を立ち、部屋の中へとそそくさと戻っていった。
その様子をからかうように、ルフィが、にゃあと鳴く。
まるでそれでいい、と言うように。
オスカーは手を引かず、もう少しだけその小さな温もりを受け止めていた。
夜の庭の向こうでは、相変わらず木々が風でざわめいている。
事件はまだ終わっていない。
モンタルボ伯爵の死の真相も、ルフィが最後の夜に何を見たのかも、何一つ明らかになっていない。
しかし少なくとも、オスカーには一つだけ分かった。
この黒猫は、伯爵にとってただの飼い猫ではなかった。
マリアージュもまた、その小さな命に託されたものを決して笑わない人間だった。
そして今夜、オスカーの胸の奥に、ほんのりと熱が灯った。




