43話 家系譜に残された証拠
バネッサ夫人と温室番ラウルが連行された後、モンタルボ伯爵邸には、重苦しい沈黙が落ちていた。
マリアージュは玄関ロビーの中央で腕を組み、左右に伸びる廊下と、やたらと多い扉を睨む。
「さて、次を調べるにしてもこのお屋敷、広すぎますわね」
伯爵家の屋敷は、ただ広いだけではない。無駄に複雑だった。
応接間、食堂、客間、喫煙室、書斎、古い展示室、温室、使用人区画。偏屈な老人が人目を避けるために増改築を繰り返した結果、屋敷そのものが迷路のようになっている。
マリアージュは、ちらりとルフィを見た。
ルフィは玄関ロビーに備え付けられた臙脂色のソファの上で、のびのびと寝そべっている。両足を伸ばし、へそ天し、完全に昼寝の構えである。
「ルフィ。あなた、この屋敷の猫でしょう? こういう時こそ怪しい場所へ案内なさい」
「にゃあ」
ルフィは片目だけ開けた。
そして、また閉じた。
ぐー。
鼻提灯を膨らませた猫に、マリアージュの頬がぴくりと引きつる。
「もう、肝心な時に限って……!」
「言葉の通じない猫に勤勉さを求めるな」
マリアージュに対するオスカーの口ぶりも、だんだん遠慮のないものになってきている。マリアージュは悔しそうに、ちっと舌打ちした。
「マリアージュ様!」
その時、廊下の奥から小走りで近づいてきたのはユージィンだ。手には屋敷の見取り図と、薄いクリスタル板を抱えている。
「いいところに来ましたわ。今、役立たずの猫に職務怠慢を問いつめていたところですの」
「えっ、猫にですか?」
ユージィンはソファで眠るルフィを振り返り、思わず憐みの目で見た。
「わかる、わかるぞ。どうせお前もマリアージュ様にこき使われたんだろう」
「にゃあ!」
「なんでそんなところだけ意思疎通が可能なんですのっ!?」
目の前で繰り広げられるコントに、オスカーはまたか……と頭が痛くなる。
どうしてメメーリヤ分院のメンバーは、殺人現場でこんなにものんきにしていられるだろう?
「まぁ、いいですわ。それでユージィン、伯爵の靴は?」
「残念ながらまだ見つかっていません。使用人に確認しても、どこへ片づけられたのか誰も知らないそうです」
「靴がない? それは不自然じゃのう」
「私、物置を当たってみましょうか?」
エフィムやコーリーも会話に加わり、様々な仮説を立ててみる。
そんな中、ユージィンが見取り図の一点を指さした。
「書斎です」
「え?」
「実は靴とは別に、屋敷内の床や絨毯に残った微小な血液反応を調べました。寝室は掃除されていましたが、反応はごくわずか。むしろ強い反応が出た場所が一か所あります」
「それが書斎?」
ユージィンは、確信を持って頷く。
「はい、絨毯の毛足の奥から、拭き取られた血液反応が出ました」
「血液反応……だと?」
「表面はかなり丁寧に拭かれています。でも絨毯の繊維の奥までは消せていません。伯爵は寝室へ戻る前、書斎で出血した可能性があります」
「さすがね、ユージィン。お手柄だわ」
マリアージュの言葉に、ユージィンは自信満々に微笑んだ。
「毒の次は頭部の陥没痕と防御創。つまり殴打ですわね」
「書斎で伯爵が殴られたと?」
「少なくとも、そこで血を流すだけの何かがあったのでしょう。さ、参りますわよ」
マリアージュが歩き出すと、オスカーとエフィムが続いた。ユージィンやコーリーもクリスタル板を抱えて同行する。
その背後で、ソファの上のルフィがゆっくりと顔を上げた。オスカーがいったん足を止め、振り返る。
「……来ないのか?」
「……」
ルフィはしばらく面倒くさそうに目を細めた後、ようやくソファから飛び降りた。あくびを一つして、気だるげに一行の後をついてくる。
「遅いですわ」
「にゃ」
「まったく、抗議だけは一人前ですのね」
「にゃあー!」
「わかる、わかるぞ、その気持ち。こき使うなら金払え、だな」
「にゃにゃにゃにゃん!」
「くぅぅぅ、後でいくらでも鰹節を差し上げますわ!」
――本当にお前ら、もう少し緊張感を持ってくれ。
直接口に出さないまでも、オスカーはメメーリヤ分院に振り回される状況に、どっと疲れを感じていた。
◇◆◇
目的の書斎は西翼の奥にあった。
重い扉を開けると、古い紙と革装丁の匂いがする。
壁一面の本棚。大きな執務机。重厚な椅子。暖炉。領地の地図。
いかにも偏屈な伯爵が、誰にも邪魔されずに籠もるための部屋だった。
ユージィンは絨毯の一角を指す。
「拭き取られていますが、解析魔法であの辺りに血液反応が出ました」
マリアージュは膝をつき、絨毯の毛足を確かめる。
「なるほど。ここで出血し足元をふらつかせた伯爵は、そのまま部屋を出た。毒入り煙草のせいで伯爵は一服した後、ぼんやりすることが多かったはずですわ」
「毒で弱り、判断も動きも鈍っていた。だから怪我をしても人を呼ばなかったのかもしれない」
オスカーの声が、一段低くなった。
そして皆が推理する中、ルフィが一番下の棚の前に座り込み、低く喉を鳴らしている。
「あら、やっと真面目に働く気になりましたの?」
マリアージュが近づくと、ルフィは前足で棚の下段を軽く叩いた。
そこには、ひときわ大きな本が収められていた。
黒革の装丁に角を守る金具。背表紙には古い金文字で、こう記されている。
『モンタルボ伯爵家系譜』
マリアージュは手袋をはめ直し、その本を慎重に引き抜いた。
重い。
ただの本というより、小さな板の塊のようだった。
「これはまた、殴るにはちょうどよい重さですわね」
「まさかその本が凶器だと?」
オスカーはあたりを見回し、それらしいものを探った。
「例えば窓際に置いてある天球戯や彫像は?」
「ユージィン」
「了解――“リブラル”」
オスカーが指さした置物を、ユージィンが次々と解析魔法にかけていくが、あいにくと血液反応は出てこない。
「そっちは私が調べてみますね。――“リブラル”」
今度はコーリーが家系譜を解析してみた。
机の上に置かれた系譜が、魔法の粒子を帯びて淡く光り出す。
「見つけました。血液反応です。ちょうど下の角金具のところ。血を拭き取った痕跡があります」
「どれどれ?」
今度はエフィムが凸レンズを取り出し、調べ出した。
確かに金具の端がわずかに歪み、革装丁の溝には、拭き残したような黒ずみもある。
「うむ、革の溝に血が入り込んどるな。拭いたつもりでも、こういうところには残るものじゃ」
「白髪も一本あります。伯爵の頭部から移ったものかもしれません」
「決まりね、これが凶器だわ」
マリアージュはそれらを採取し、封印袋へ入れた。
ユージィンがクリスタル板に所見を書き込む。
「でも本棚に戻されていたなら、誰が触ったかまでは……」
「分かりますわ。ね? ユージィン」
「指紋採取だね」
以前、下町でドナ=ラムリーが娘に刺殺された事件。
あの時、ユージィンは指紋採取の魔道術式、さらに補助アイテムとして皮脂を浮かび上がらせる魔道顕紋粉を完成させていた。
つまりこの家系譜が凶器ならば、犯人の指紋が確実に残っているはず。
なによりこの異世界ではまだ、指紋の実用性自体が広く知られていない。
つまり犯人には血をごまかす知恵はあっても、指紋を拭きとるという思考がない。
「“跡よ、浮かべ”」
ユージィンが魔道顕紋粉をかけ手をかざすと、複雑な魔術紋と共に指紋が青白く浮き上がった。ユージィンの補助として、コーリーがそれを記録魔法でクリスタル板に記録する。
「ほら、見てごらんなさい。家系譜に触れた人物が誰か、これで一目でわかりますわ」
「……これは確かにすごい」
「言っておくけど、これはただ指紋を採取するだけの魔法じゃないよ」
オスカーが息を呑む傍らで、ユージィンが得意げに解説する。
「家系譜に残った指紋は一つじゃない。伯爵のものと思われる指紋。使用人のものらしき指紋。そして角金具のすぐ近くに残る指紋」
「確かにたくさん重なってるわね」
「でも俺が作った術式は残留エーテルの濃度も加味して、どの指紋が一番古いか、どの指紋が一番新しいかも分析できる」
ユージィンの指先から放たれる魔力が、一瞬膨れ上がった。
「で、これが犯人と思われる指紋。血を拭き取った後に、本棚に戻した時のものが最新だね。しかも角金具を握り込む位置にある。これは本を読むのではなく、重い物を振り上げる持ち方だ」
ユージィンが差し示した先、たくさんの指紋の中で一つだけ金色に光る指紋があった。
マリアージュとオスカーは、顔を見合わせ頷く。
「……ということで」
「わかった、屋敷全員の指紋を取ろう」
するとそれまでおとなしく話を聞いていたルフィが、ちょんちょんとユージィンの靴を小突く。
「何?」
「にゃーん」
ユージィンの前に差し出されたのは、猫好きにはたまらないふかふかの肉球。
ヒゲをピクピクさせ得意げなルフィに、ユージィンは思わず脱力する。
「お前の指紋まで調べろって? 勘弁してよ。お前のそれは指紋じゃなくて肉球紋だろ……」




