42話 毒婦の毒2
伯爵の寝室から消えたパイプ。
その煙草葉を調合していたのは、温室番のラウルという男だった。
お目当ての温室は長いガラス廊下の先、屋敷の東翼にあった。湿った土と花の甘い匂いが、扉の外まで漏れている。
「ここか。どうやら気温を一定に保つよう魔道装置が使われているようだ」
「ええ。伯爵のパイプに使われていた香草煙草は、ここで調合されていたはずです。そしてバネッサ夫人も伯爵愛用のパイプをどこかに隠している。ふふ、実に怪しいですわ。ここから先は、わたくしの鋭い勘で――」
そこでマリアージュはぴたりと足を止めた。
ガラス越しに温室の奥が見える。花棚の陰で、喪服姿のバネッサが若い男に抱きしめられていた。
男の手は明らかに主人を支える使用人のそれではない。バネッサもまた愛しい男にすがる女の顔をしている。
マリアージュは数秒、無言でそれを見つめた。
そして、その場で激しく地団駄を踏みだす。
「きーっ! こんな、こんな、いきなり答え合わせなんてつまらないですわっ! わたくしは華麗に推理したかったのに!」
「手間が省けていいだろう」
オスカーが呆れたように、突っ込む。
「よくありませんわ! 怪しい視線、震える指先、香水の移り香……そういう細かな手掛かりを積み上げて、最後に『あら、そちらの殿方が本命でしたの?』と、かっこよく秘密を暴く予定でしたのに!」
「予定が具体的すぎるな」
「どうどう。落ち着け、マリアージュ。馬でもここまで荒ぶらんぞ」
エフィムが苦笑しながら宥める。
ルフィだけは何も気にした様子もなく、扉の隙間へ鼻先を押しつけている。中へ入りたくて仕方がないらしい。
マリアージュは燃え上がる怒りそのままに、温室の扉を押し開けた。
「あなた方、不倫するなら夜になさい!」
「なっ……!」
駆け引きなしの正面突破。温室中の花が震えるほど、声が大きく響く。
バネッサが青ざめて振り向き、ラウルも抱きしめていた腕を慌てて離した。
「ち、違いますわ! これは少しめまいがして……ラウルに支えてもらっただけです」
「ええ。実に献身的な支え方でしたわね。胸と腰が妙に密着していて」
「奥様は体調が優れなかっただけです。オレは使用人として当然のことを――」
ラウルが言い終える前に、黒い影が飛んだ。
「ぎゃっ!」
ルフィがラウルの胸元へ飛びかかり、爪を立てるでもなく、器用に上着の襟だけを引っかけた。布がぐいと引き下げられ、ラウルの首筋が露わになる。
そこには赤い口紅の跡がくっきりと残っていた。
マリアージュはゆっくりとバネッサの唇へ視線を移す。
「まあ。使用人の首筋に、夫人と同じ色の口紅がついておりますわね」
「こ、これは……!」
「めまいを支えると首筋に口紅がつきますの? 初めて聞きましたわ」
オスカーは額に手を当て、深く息を吐いた。
「……バネッサ夫人。言い逃れは難しいと思うが」
「……っ!」
バネッサは唇を震わせた。ラウルは襟を押さえ、顔面蒼白になっている。
ルフィは満足げにラウルの足元へ降りると、温室の奥へ歩き出した。
まるで次に暴くべきものはそちらだと言うように。
「では目くるめく背徳の恋のお話は後ほどじっくり伺うとして……まずは香草煙草について、教えていただけますこと?」
「香草煙草……?」
「既に他の使用人から証言は取れていますわ。夫人が伯爵の死後、慌ててパイプを片付けさせたこともね」
バネッサとラウルは視線を合わせ、ガタガタと体を震わせ始める。
「オレはただ旦那様の寝つきがよくなるようにと頼まれただけです。輪香草と眠り苔を少し混ぜて……それ以上のものは何も」
マリアージュはラウルの証言を話半分に聞き流し、温室内を見回した。
色とりどりの花々。乾燥棚。小瓶の並んだ薬草棚。奥には古びた園芸道具箱と、種子を保管するための小さな防湿金庫がある。
その時、ルフィが薬草棚の上へ飛び乗った。かたり、と小瓶が揺れる。
「こら、勝手に――」
オスカーが止めようとした瞬間、温室の奥にあった古い魔道ランタンが、ぽっと灯った。
誰も火を入れていない。
淡い光が棚の奥を照らすと同時に、閉め切ったはずの温室にふわりと温かな風が流れる。
「……今のは何だ?」
「勝手に灯りがつきましたわよね?」
「古い魔道具の誤作動かのう。温室は湿気が多いからな」
マリアージュもオスカーもエフィムも、不可思議な現象に首をひねった。
さらに乾いた葉が舞い、園芸道具箱にかけられていた布が、床へ滑り落ちる。
布の下にはもう一つ、小さな金属箱が隠されていた。
ルフィは棚から飛び降りると、その箱の上へ当然のように座る。
「こ、この野良猫!」
ラウルが血相を変えてルフィへ駆け寄ろうとした。――が、その腕をオスカーが横からつかむ。
「何をする気だ」
「は、離せ! その猫が温室を荒らして……っ」
「荒らされて困るものが、そこにあるのか?」
「うっ!」
オスカーはラウルの腕を背中へ回して素早く押さえ込むと、腰に下がっていた鍵束を抜き取った。
「マリアージュ殿」
「ええ。たいへん分かりやすい反応でしたわね」
マリアージュは投げられた鍵を受け取り、金属箱の前にしゃがむ。
今度はバネッサが慌ててそれを止めようとした。
「待ちなさい! それは温室の備品ですわ。勝手に開く権利など――」
「シャーーーッ!」
「きゃあ!」
だがそんなバネッサを、ルフィが爪を立てて威嚇する。その隙にマリアージュは鍵束を一つ一つ順に鍵穴に差し込んでいった。
「開きましたわ」
結果、中に入っていたのは、銀の吸い口がついた古いパイプだった。
マリアージュが探していた、れっきとした証拠品である。
その横には伯爵の煙草入れらしき革袋。さらに細かく刻まれた乾燥草、白い根を砕いた粉末、香草煙草に似せて包まれた紙袋が、几帳面に並べられている。
おまけにバネッサの香水がかすかに残るハンカチまで入っていた。
マリアージュは数秒、無言で箱の中を見つめた。
そして、ぷるぷると肩を震わせる。
「なんで……なんで物証を全部まとめて隠しておくんですの!? こういうものは普通ばれないようにバラバラに埋めたり、燃やしたり、川に流したりするものでしょう!」
マリアージュは箱の中を指さし、さらに続ける。
「なくなったパイプ! 煙草入れ! 毒草粉末! 香水つきのハンカチ! 犯行一式お得な詰め合わせセットではありませんか! 浅はかすぎますわ!」
「いや、いちいち探す手間が省けてよかったじゃないか」
「ほっほ。それよりもマリアージュは犯人の雑さに憤慨しとるのじゃ」
「憤慨もしますわ! わたくしはもっとこう、繊細な推理の糸を手繰るつもりでしたのに。これでは糸どころか、犯人が縄を首に巻いて自ら差し出してきたようなものですわ!」
箱の上から退いたルフィが、足元で得意げに「にゃ」と鳴いた。
マリアージュはその黒猫をじろりと見下ろす。
「あなたもあなたです。なぜこんなに分かりやすい場所を見つけてしまいますの。少しは演出というものを考えなさい」
ルフィはまったく反省していない顔で、ゴロゴロと喉を鳴らした。
その時、温室の入口からバタバタと慌ただしい足音が響いた。
「すみません、お待たせしました! 髪の分析、終わりました!」
息を弾ませて駆け込んできたのはコーリーだ。
そして温室の中を一通り見回し、きょとんと首を傾げる。
「あれ? なんでマリアージュ様、怒ってるんですか?」
「犯人候補が迂闊すぎるからですわ」
「はあ」
「はあ、ではありません! まったくもう……いいですわ。コーリー、分析の結果を」
「あ、はい。伯爵の髪から薬毒反応が出ました。心臓薬や鎮痛薬とは違う、植物由来の成分です。少なくとも数日以上、繰り返し体内に入っていたと見ていいと思います」
「では、これはいかが?」
マリアージュは不機嫌そうに、箱の中から白い粉末の入った小袋をつまみ上げた。
コーリーは袋を受け取ると慎重に口を開き、ほんの少しだけ匂いを確かめる。
その瞬間、目つきが変わった。
「……間違いありません。これ、夜哭き百合の根です! 乾燥させて粉末にすると甘い香りが出ます。普通の香草に混ぜれば、寝つきをよくする煙草葉に見せかけられます。でも少量を長く吸い込めば、倦怠感、意識の混濁、胸苦しさ、手足の脱力を起こす。高齢者なら、心臓が弱ったように見えるはずです」
バネッサの顔から血の気が引いた。
ラウルもオスカーに腕を押さえられたまま、がくりと膝をつく。
つまり毒は食べ物ではなく、伯爵の嗜好品に仕込まれていたのだ。
その全てを暴かれ、とうとう観念したのだろう。先に白旗を上げたのはラウルだった。
「奥様に頼まれたんです! でも殺すつもりなんてありませんでした。本当に少し体を弱らせるだけだと……!」
「ラウル!」
バネッサが悲鳴のように叫ぶ。
その声は使用人に向ける叱責ではない。恋人を失う女の声だった。
「バネッサ夫人。あなたはこの男と通じ、伯爵の煙草に毒を混ぜさせたのか」
「く……っ」
バネッサはしばらく唇を戦慄かせていた。
……が、やがて支えを失ったように、土の上に崩れ落ちる。
「あなたたちには……わからないわよ」
「なんだと?」
「あの人は……主人は私を妻として見たことなど一度もなかった。私はこの屋敷を飾る装飾品の一つ。若い後妻というだけの、金で買われた人形よ」
バネッサの目尻で、悔し涙がきらりと光った。
「なのにあの人、突然財産は私にも渡さないと言い出した。先月、急に孫娘まで呼び寄せて……このままでは、私は何も得られない」
「だから伯爵を弱らせた」
オスカーの問いに、バネッサは力なく頷く。
「でも少しだけよ。ほんの少しずつ。すぐに死ぬ量じゃないわ。ただ寝込んでくれればよかったの。判断が鈍って、私の言うことを聞くようになれば、それで……」
「それだけでも充分に卑劣ですわね」
「……」
バネッサが押し黙る横で、マリアージュは粉末と薬包を封印袋へ収めた。
「伯爵の体を蝕んだものは、これでほぼ確定ですわ。でも死因と呼ぶには、まだ弱い。モンタルボ伯爵は毒で眠るように死んだのではありません。頭を打ち、足を傷め、喉を圧迫され、最後に息を奪われた」
温室内に短い沈黙が落ちた。
バネッサは安堵したような、恐怖したような顔で呟く。
「では……誰が、あの人を……」
「その謎をこれから一つずつ暴いていくのですわ」
マリアージュは冷たくバネッサを見下ろし、もう用はないとばかりに踵を返した。
――そして15分後。
オスカーが部下を温室に呼び、二人の身柄を拘束させた。
容疑は毒物による殺人未遂。
バネッサは抵抗せず、ラウルも震えながらただ頭を抱えるだけだった。
連行されていく二人の背を見送りながら、オスカーが口を開く。
「伯爵を毒で弱らせた者は見つかった。しかしそれでも真犯人ではない」
「ええ。でもこれで死因の一つは片づきました」
「一つ、か」
「モンタルボ伯爵の遺骨は、死因だらけでしたもの。毒の次は、頭部の陥没痕と防御創ですわ」
マリアージュの視線が、屋敷の奥へ向く。
幸いにもこの屋敷内には、まだ大勢の容疑者がいる。
「さて、次は伯爵を殴った者を探し出しましょう」
「にゃあ」
そこでまた、ルフィが小さく鳴いた。
まるでその順番で間違いないと、マリアージュたちを鼓舞するかのように。




