41話 毒婦の毒1
ダン=スカリーが王都騎士団本部へ移送された後、モンタルボ伯爵邸の空気は、目に見えて悪くなった。
玄関ロビーに残っていたバネッサやレオポルド、老執事ジュストは、ようやく騒ぐのをやめて各々の部屋へ戻っていった。
しかし誰も彼も顔色が悪い。次に自分の名を呼ばれるのではないかと怯えているのだ。
それはまるで他人に罪を押しつけたい焦りが、屋敷の古びた金箔の壁にまで染みついているかのようだった。
マリアージュたちが次に向かったのは、遺体が発見された伯爵の寝室だった。
部屋に入る前、マリアージュはユージィンとコーリーに命じる。
「あなた方は使用人の聞き取り調査をしてくださる?」
「了解です。記録魔法で証言の食い違いも拾っておきます」
「毒物が絡むなら、採取物はあとで私に回してください。照合します」
ユージィンとコーリーは歩調をそろえて、階下へと向かう。
それを見届けてから、マリアージュは扉を開けた。寝台の天蓋、壁に掛けられた古い肖像画、暖炉脇の肘掛け椅子。どれも高価だが、どこか冷たい。
「掃除されていますわね」
「もう死後から二週間経っているからのう」
マリアージュは手袋をはめ直し、寝台へ近づいた。
枕は替えられている。シーツも新しい。けれど天蓋の内側、縫い目の影、寝台の木枠と布の隙間までは完全に払われていなかった。
マリアージュはピンセットで、そこに絡んだ白いものを摘まみ上げる。
「髪ですわ」
「伯爵のものか?」
オスカーが隣から覗き込む。
「年齢と色から見れば、その可能性が高いですわね。エフィム、採取瓶を」
「あいよ」
エフィムが小瓶を差し出す。マリアージュは数本の白髪を封入すると、それを目の前で軽く振った。
「これを後でコーリーに分析してもらいます」
「こんな髪の毛一本で何かわかるのか?」
「もちろんですわ。血や臓器は火葬で失われました。けれど髪は小さな記録帳のようなもの。体内に取り込まれた薬毒は血を巡り、毛根から髪へ刻まれることがありますの」
「肋骨に残っていた、あの黒い影と同じだな?」
先ほどの鑑定を思い出し、オスカーの顔が険しくなる。
「ダンのカルテには鎮痛薬の処方があった。薬に混ぜられた可能性もあるな」
「ええ。茶、寝酒、薬湯、菓子。毒を盛る機会はいくらでもありますわ。貴族の食卓は豪華ですけれど、殺意を混ぜるにも都合がよろしいもの」
その時、後をついてきていたルフィが床の上で低く鳴いた。寝台脇の敷物の端に鼻を近づけ、しきりに匂いを嗅いでいる。豪奢な敷物は、わずかに位置がずれていた。部屋全体は整えられているのに、そこだけ妙に不自然だった。
オスカーが膝をつき、敷物の端を持ち上げる。
「マリアージュ殿」
「何かありまして?」
「床板が焦げている」
敷物の下、寝台の脚に近い床板に小さな黒い点が複数あった。
マリアージュはそこへ顔を近づけ、目を細める。
「ランプ油ではありませんわね。油なら床板に染み込み、輪郭がもっと広がるはずです」
「暖炉の火が飛んだのではないのか?」
オスカーが暖炉を見る。寝台までは距離があり、火の粉が飛ぶには不自然だった。
エフィムも腰を曲げて覗き込む。
「ふむ。妙な場所じゃのう。寝台脇で火遊びでもしたか?」
「そういえば伯爵はパイプ好きでしたわね」
マリアージュはあたりをきょろきょろと見回した。
いつぞや夜会でちらりと見かけたモンタルボ伯爵は、いかにも偏屈な老人らしく、銀の吸い口がついた古いパイプを燻らせていた。あのパイプはどこだろうと部屋の中を探すが、パイプの影も形もない。
「妙ですわね」
「見当たらないな」
オスカーも部屋のあちこちを探索して回った。寝台脇の小卓には、丸い跡だけが残っている。おそらくそこにパイプ台か煙草盆が置かれていたのだろう。
エフィムが小卓の上を指で撫でる。
「ほう。埃の跡だけ残っとる。何かを置いていたのは間違いなさそうじゃな」
「死者の愛用品まで片づけるとは、ずいぶん気の利いた使用人ですこと」
ますます怪しい。
マリアージュが腕組みしている横で、オスカーが床の焦げ跡へ視線を戻す。
「この焦げ跡は、パイプの火種が落ちた跡か?」
「おそらくは。伯爵が寝る前にここでパイプを嗜んでいたなら、火種が落ちたとしても不思議ではありませんわ」
そう答えながらも、マリアージュの眉間には深い皴が寄っていた。
「ただ……火種にしては、少々焦げ跡が散っていますわね。まるで小さな火花が床の表面で跳ねたような焼け方です」
「火花?」
「ええ。ですが今は保留にします。大事なのはパイプそのものが消えていること。調べられて困るものがあったから、誰かが持ち去った」
マリアージュは焦げ跡の一部を削り取り、紙包みに収めた。ルフィはそのそばに座り込み、金色の目でじっと床を見ている。
まるで、そこにあった何かを覚えているかのように。
「ルフィ、お前はここで何を見た?」
オスカーが尋ねると、黒猫は顔を上げた。
答えはもちろん、短い鳴き声だけだった。
マリアージュは、はあ、と小さく息を吐く。
「証言台に立てない証人ほど、もどかしいものはありませんわね」
その時、廊下の向こうから足音が近づいた。ユージィンとコーリーが戻ってきたのだ。
「マリアージュ様。使用人から確認が取れました。伯爵は寝る前に必ずパイプを吸っていたそうです。煙草葉は普通のものではなく、温室番が調合した香草入りのものだったとか」
「温室番?」
「ラウルという男です。温室の薬草管理も任されていました。それから伯爵が亡くなった翌朝、バネッサ夫人が寝室の煙草盆を片づけるよう侍女に命じたという証言もあります。ただ侍女が来た時には、もうパイプも煙草入れも見当たらなかったそうです」
「つまり誰かが侍女より先に持ち去った」
一同は顔を見合わせた。少しずつ真実に近づいている手応えに、不謹慎にも胸が高鳴る。
「よろしい。では次は温室ですわ。ユージィン、あなたは魔法を使って伯爵の遺留品が他にないか屋敷内を調べてちょうだい。特に事件当夜、伯爵が履いていた靴を探してほしいの」
「了解」
「コーリー、あなたはこの白髪から毒が検出されるか分析してちょうだい」
「かしこまりました!」
「では温室には?」
「わたくしとオスカー殿、エフィムで充分です。猫もいますし」
「にゃあ♪」
足元のルフィがまるで当然の権利のように、するりと先頭に立った。




