40話 白衣の悪意
ダン=スカリーは、自室で焦って荷物をまとめていた。
白衣、ここ数年のカルテ、処方記録、薬棚の鍵、診療用の小道具。必要なものを片っ端から鞄へ押し込む。
引き出しの奥に隠していた紙幣の束も、慌てて底へねじ込んだ。
とにかく急いでこの屋敷を出なければならない。
自分のしでかしたことが、明るみになる前に。
「くそ……っ」
あのマリアージュとかいう女は危険だ。火葬済みだと聞いても怯まず、骨だけになっても死者の声を聞くなどと言い放った。
もし本当にモンタルボ伯爵の遺骨を調べられれば、死亡届に記した「突発心不全」が嘘だと露見する。
ダンは机の上に置いていたカルテの束を掴んだ。その一番上にあるのは、モンタルボ伯爵の診療記録である。
伯爵はたしかに高齢だった。腰痛、関節痛、不眠、食欲不振。老人らしい不調はいくつも訴えていた。
しかし心臓に重い持病はなかった。少なくとも突然心臓が止まって亡くなるような状態ではない。この記録だけは、絶対に見られてはならない。
その時だった。
ばん、と扉が外側から開かれた。
「どこへ逃げる気だ? ダン=スカリー」
青ざめながら振り返れば、そこには勇ましい聖騎士が立っていた。
オスカー=ルンドマルク。
主であるモンタルボ伯爵が死の直前、相続人の一人に指名していた男だ。
「その鞄からはみ出しているのは、もしかしてモンタルボ伯爵のカルテではなくて?」
そしてオスカーの背後から現れたのは、ドミストリ公爵令嬢。
法医術士だとかなんとか名乗っていたが、この女もまた厄介だった。
ダンの診断を最初から疑ってかかり、権力を盾に遺骨の鑑定を強行した。
しかも、こんなに早く自分のもとを訪ねてくるとは。
すでに逃げ道は断たれている……とダンは悟る。
「わ、わたしは……」
追い詰められ、慌てて机の上のランプを手に取った。
火のついたランプでカルテを燃やせば、少なくとも不利な記録は消せる。
紙片に火を近づけようとした――その瞬間。
「にゃっ!」
「ぎゃっ!」
黒い影が手元に飛び込み、ランプが床へ落ちた。
小さな火が絨毯の上で跳ねる。
「火を消せ!」
オスカーの声に、マリアージュが近くの花瓶をひっくり返した。
水をかぶった火は、じゅっと音を立てて消える。その隙を見逃さず、オスカーが部屋の中に踏み込んだ。ダンの腕を後ろへ捻り上げ、床へ押さえつける。
「そこまでだ。抵抗は無駄だ」
「くそっ!」
後ろ手に両手を押さえ込まれ、ダンは床にひれ伏した。
黒猫ルフィは倒れたランプの横で、何事もなかったように尻尾を立てている。
「証拠隠滅の現行犯ですわね」
「騎士団が到着したよ!」
廊下の向こうから、ユージィンの声が響く。
マリアージュは床に落ちたカルテを拾い上げ、埃を払った。
同時にモンタルボ伯爵邸の玄関ロビーでは、オスカーの部下たちが次々と持ち場につき始めていた。
「何事なの……?」
「お前ら、ここがモンタルボ伯爵家と知っての狼藉か!」
バネッサとレオポルドが慌てふためき、老執事ジュストも青ざめた顔で騎士たちに抗議している。
屋敷中が蜂の巣をつついたような騒ぎになる中、キャンディスだけが柱の陰に隠れ、怯えるように手袋をつけた手を握りしめていた。
◇◆◇
伯爵家の客間は、即席の取調室と化していた。
重厚な長机を挟んで、下座には拘束されたダン=スカリー。
その前にオスカーとマリアージュが座る。
メメーリヤ分院の面々は部屋の隅に控え、ルフィは当然のようにマリアージュの膝の上へ陣取っていた。
「よくやったわね、お手柄よ、ルフィ」
「にゃーん」
ルフィが満足げに鳴く。
オスカーはダンの前に一通の書類を置いた。
王国貴族院から緊急に取り寄せた、モンタルボ伯爵の死亡届の写しである。
死因の欄には、はっきりと「突発心不全」と記されていた。
「これはお前が提出したものだな。だがモンタルボ伯爵の死因が心不全でないことは、すでにマリアージュ殿の鑑定によって明らかになっている」
ダンは唇を噛み、視線を逸らした。
「これは立派な公文書偽造ですわ。ついでに、先ほどのカルテ焼却未遂で証拠隠滅も追加できますわね」
「……」
「さて、では誰が死因を捏造するよう指示したのか、白状していただけるかしら?」
「……」
「黙秘するのですか?」
マリアージュが首を傾げる。
ダンは口を一文字に結んだままだった。
部屋の外からは、バネッサやレオポルド、ジュストたちの抗議の声が聞こえてくる。
「一体誰の許しを得て、騎士団を呼び寄せたのですか!」
「勝手なことをするな!」
「屋敷の者に外出禁止を強いるのは、あまりに無体でございます!」
だが扉の前に立つ屈強な聖騎士たちが、すべての抗議をはねつける。
「これはわが第一聖騎士団長殿のご命令です」
「事件が解決するまで、勝手なふるまいをなさいませんよう」
「これは王国騎士団の命令と受け取っていただいて構いません」
外の騒ぎを聞きながら、オスカーはダンの鞄から取り出した紙幣の束を机の上へ置いた。
「買収されたか。実に分かりやすい」
「……」
「黙秘するならそれでもいい。このまま聖騎士団本部に移送し、吐くまで尋問するだけだ」
「知ってますわ。聖騎士団の尋問って名ばかりで、本当はかなり恐ろしい拷問なのですわよね?」
そこでわざとらしく、マリアージュが口をはさむ。
背後に目配せすると、メメーリヤ分院のメンバーがそれに素早く応えた。
「私、知ってます! 溶けた蝋を長時間皮膚の上に垂らし続けるんですよね?」
「それから指の爪を一本一本剥がしたり、逆さ宙づりにしたまま一切水を与えなかったりするとも聞いたわい」
「いや、俺が聞いたのは犯人に蜂蜜と牛乳を飲ませてから川に浮かべ、寄ってきた虫に体を食わせるっていう恐ろしい拷問だ……!」
「ひっ!」
次々と出る実例に、ダンは早くも怖気づいた。
オスカーは内心で、
(さすがにそこまでひどい拷問はしていない………お前ら一体どこの知識だ………)
と呆れつつも、いちいち訂正したりはしなかった。
「お前も虫の餌になりたいか?」
「言います、言います! バネッサ様でございます!」
盛大な脅しが効いたのか、ダンはあっさり白状した。
マリアージュはふふんと軽く鼻を鳴らす。
「あの後妻ね」
「それとレオポルド様も!」
「は?」
「ジュスト様にも頼まれました!」
「……おい」
「わたしは皆様のたっての願いを聞いただけです。もちろん最初は断ったのです。でも大金を積まれて、つい目が眩んで……」
ダンはこれ見よがしにしくしく泣き始めた。
けれど涙で誤魔化されるほど、オスカーもマリアージュも甘くはない。
「つまり屋敷の中には、伯爵の死の真相を隠したい容疑者が何人もいるということですわね。もちろん、ダン。あなた自身もその容疑者の中に含まれていますわ」
「わたしは犯人ではありません! 本当です、信じてください!」
ダンは必死の形相で訴える。
マリアージュは机の上に置かれたモンタルボ伯爵のカルテに手を伸ばし、数枚をめくった。
「近年、モンタルボ伯爵は体のだるさと腰の痛みを訴えていたようね。これはあなたが処方した薬の中に、毒薬が含まれていたからではなくて?」
「いいえ、決してそのようなことはありません。伯爵様に処方していたのは、主に鎮痛薬です。心臓が弱っていたという所見もございません。お年のせいか足腰は弱っておりましたが、毎日邸内を散歩するほどお元気で、突然死するような持病など何も……」
そこまで言って、ダンは自分が不利な証言をしていることに気づいたのだろう。
しまった、という顔で口を閉じた。
「つまりあなたはモンタルボ伯爵が心不全で急死するとは思っていなかった。それなのに死亡届には突発心不全と記した」
「……」
「二週間前、モンタルボ伯爵は本当はどのような状態で発見されたの?」
マリアージュが畳みかける。
ダンはしばらく黙っていたが、オスカーに睨まれると、震える声で答え始めた。
「寝室で眠っているところを発見されたのは事実でございます。ただしマリアージュ様が鑑定した通り、伯爵様の頭部には出血の痕がございました。髪に隠れてはいましたが、血が固まっておりました。それから両足が泥まみれになっており、どこか外へ出ておられたような所見も……」
「よくそれで心不全などと、虚偽の記述ができたものだな」
オスカーが低く言うと、ダンは大げさなほど身を縮めた。
「ですが、わたしがしたのは死因の捏造だけです。本当に旦那様を殺してはおりません! 偏屈な老人で苦労はしましたが、殺すほど憎かったわけではありません!」
ダンは必死に弁明した。
オスカーはそんな被疑者を冷たく見下ろし、部下の聖騎士へ告げる。
「ダン=スカリーを騎士団本部へ移送しろ。所持品、カルテ、薬品記録はすべて押収。薬棚の中身も封印して調べる。まだ隠していることがあるかもしれん」
「はっ」
そうしてダンは、被疑者の一人として身柄を確保された。
聖騎士たちに両脇を抱えられ、取調室から出ていく。
その背中を見送りながら、オスカーはマリアージュに尋ねた。
「マリアージュ殿の目から見て、どう思う?」
「今のところ証言に大きな矛盾はありませんわ。したことは最低ですけれど」
「真犯人ではない?」
「それはまだわかりません。ただ医術士なら、殴打の跡や骨折の跡をもっと巧妙に隠すこともできたはずです。真犯人にしては、いささか後処理が杜撰ですわね」
突き詰めると、ダン真犯人説はまだ根拠が弱い。
荷物から発見された紙幣の束から推測するに、本当に死亡届の捏造しかしていないのかもしれない。
もちろん、それだけでも充分に罪深いが。
「次に調べるべきは、ダンを買収した後妻、甥、それに執事ですわね」
「屋敷内の現場検証も必要だ。伯爵の寝室、泥のついた足、頭部の出血。ダンの証言が正しければ、伯爵は死ぬ直前に屋敷の中か外を移動している」
「ええ。死因を隠したい者が何人もいる以上、隠したい理由も一つとは限りませんわ」
「にゃあ」
まるで自分に任せろと言わんばかりに、ルフィがマリアージュの膝の上で背伸びをした。
マリアージュは黒猫の頭を軽く撫でる。
「では参りましょう。次はモンタルボ伯爵が最後に歩いた場所を調べますわ」
ルフィは軽やかな足取りで、誰よりも先に客間の扉へ向かって歩き出した。




