38話 ある偏屈伯爵の遺言状2
黒猫は、しばらくマリアージュとオスカーを見上げていた。
金色の瞳は不思議なほど人間くさく、まるで二人を品定めしているようだった。
「ルフィ……!」
栗色の髪の若い女性が、小さく声を上げた。
だが彼女は駆け寄ろうとして、すぐに足を止める。手袋を握りしめた指先が、ぎゅっと白くなった。
黒猫――ルフィは、そんな彼女をちらりと見たあと、ぷいと顔を背けた。そして何を思ったのか、オスカーのブーツに前足を乗せる。よく見れば手足の先と鼻先が白く、まるで靴下を履いているかのようだ。
「……私に何か用か」
「猫に質問してどうするんですの」
マリアージュが呆れたように言うと、ルフィは今度はドレスの裾に爪を引っかけた。
「ちょっ、やめなさい! これは今日おろしたばかりの外出着ですのよ!」
「にゃ」
「にゃ、ではありませんわ!」
「猫よ、爪を離すんだ」
屋敷の者たちが青ざめる中、オスカーが静かに身を屈めた。その声は騎士団で部下に命令する時とほとんど同じだった。
だが当然ながら猫には通じない。ルフィは金色の瞳を細め、さらに「シャー!」と爪を立てた。マリアージュは頬を引き攣らせる。
「オスカー殿。猫に職務命令は無効のようですわ」
「……そのようだな」
そのやり取りに最初に咳払いをしたのは、後妻のバネッサだった。
「失礼いたしました。ルフィは亡き夫が大変可愛がっていた猫でして……。確か王立医術院からお越しになられた医術士の皆様方。そして第一聖騎士団団長のオスカー様でお間違いございませんか?」
「ええ、わたくしが代表のマリアージュよ」
「マリアージュ様……でございますね。ささ、まずは屋敷の中へ。弁護士のケネス様も、すでにお待ちですわ」
弁護士。
その言葉に、マリアージュは目を細めた。
遺言状を預かる者。つまり今回の騒動の中心にいる人物である。
◇◆◇
一行が通された応接間は、ひと言で言えば黄金でできた部屋だった。
右を見ても金。左を見ても金。壁の装飾も、燭台も、暖炉の縁取りも、これでもかというほど金色に輝いている。天井には金粉を盛大に使った宗教画が描かれ、知の女神なのか豊穣の女神なのか判然としない女性が、なぜか金貨の雨を降らせていた。
「これはすごいのう……」
五大公爵家出身のエフィムでさえ、思わず感嘆の声を漏らす。さらにユージィンがぽつりとつぶやいた。
「典型的な成金だ……」
「壁が金箔なら、いざという時は剥がして持って帰れるのかなぁ」
「コーリー。発想がド貧民ですわ」
「マリアージュ様だって、今ちょっと同じこと考えませんでした?」
「コホン……考えておりません。わたくしはただ、あの天井画の金粉だけで分院の研究費が何年分になるか計算していただけです」
「お前ら同類じゃ」
メメーリヤ分院の一同が内輪コントで盛り上がる中、オスカーだけは表情を崩さなかった。金の壁だろうが、金の天井だろうが、彼にとっては警戒すべき室内の一つにすぎないらしい。
応接間には、すでに多くの人間が集められていた。
後妻バネッサ。レオポルドと呼ばれた男。栗色の髪の女性。老執事。白衣を着た中年の男。そして屋敷に仕える使用人たち。
少し遅れて、品のいい壮年の紳士が部屋に入ってきた。
「どうやら皆様お揃いのようですね」
男はきっちりと背広を着込み、穏やかな笑みを浮かべていた。柔和ではあるが、その目元には法を扱う者特有の冷静さがある。
「私はケネス=サンダース。モンタルボ伯爵直々に遺言書作成を依頼され、保管していた弁護士でございます」
ケネスは深く一礼すると、黒布に包まれた細長い箱を助手らしき男から受け取った。
その瞬間、左手がわずかに沈み、小箱が傾く。
「……失礼。思ったより重いもので」
すぐに右手を添え、ケネスは穏やかに笑った。黒い袖口を指先で整える仕草は、几帳面な法務士らしく見えた。
マリアージュの視線が、箱を包んだ黒布に吸い寄せられる。上質でただの包み布には見えない。封蝋の跡と、薄く刻まれた魔法陣が見えた。
「まず確認させていただきます。生前、モンタルボ伯爵が相続人に指名した人物。一人目は妻であるバネッサ様」
「はい」
バネッサは当然という顔で一歩進み出た。
「甥であるレオポルド様」
「当然だ」
レオポルドはふんぞり返りながら答え、敵意を隠そうともせずバネッサを睨んだ。
「孫娘であるキャンディス様」
「……はい」
キャンディスは弱々しく返事をした。視線は落ち着かず、時折、部屋の隅で丸くなっているルフィの方へ向かう。だがルフィと目が合いそうになると、怯えたように顔を背けた。
「最後に、オスカー=ルンドマルク様」
「待てよ」
オスカーが返事をするより先に、レオポルドが声を荒げた。
「後妻はわかる。キャンディスも孫だからわかる。だがなぜ血縁でも何でもない男が相続人に指名されているんだ?」
もっともな疑問だった。オスカーは顔色一つ変えず、丁重に一礼する。
「それは私自身が一番疑問に思っております。その指名によほどの正当性がない限り、相続は放棄するつもりです」
「……なんだ。弁えているじゃないか」
レオポルドの表情が、少しだけ和らいだ。
その背後で、メメーリヤ分院の一同はこそこそと囁き合う。
「俺だったらもらえるものは全部もらう。そしたら一生働かずに済む」
「ええ、ユージィンならそう言うと思いましたわ」
「いやいや、これだけ莫大な財産となれば、相続の手続きも税も面倒じゃろうて」
「というか、エフィム先生は財産をもらう側じゃなくて、残す側でしょうに」
「こりゃ、ユージィン。わしはあと二十年は生きるつもりじゃぞ。まだまだくたばらんわい」
「でももしくたばった際は、法医術の発展のため検体よろしくお願いいたしますわ」
「ちょ、皆さん、なんでこの緊張した場面で雑談できるんですか!」
コーリーが小声で必死に止めるが、すでに遅い。オスカーだけが、ごくわずかに肩を落としていた。
一方、ケネスは落ち着いた手つきで、箱にかけられた封印を示した。
「こちらの遺言書には、封印の魔法が施されております。開封は相続人および証人の前でのみ可能です」
彼の隣に控えていた若い男が、光る鍵のような魔道具を取り出す。
「あれは?」
「封印解除用の魔道具ですね」
コーリーが小声で答え、ユージィンが言葉を継ぐ。
「弁護士のそばにいるのは、封印専門の魔道士だと思う」
「なるほど。今まで厳重に保管されていたわけですわね」
封印が解かれると、箱の蓋が静かに開いた。
中から取り出された遺言書を、ケネスが広げる。
応接間にいた全員が息を呑んだ。
「では、読み上げます。
遺言書。
遺言者マルコ=モンタルボは、この遺言執行者として、弁護士ケネス=サンダースを指名する。また――」
そこまで読んだところで、ケネスはわずかに眉を寄せた。
そして一度、咳払いをする。
「私がもし不審な死を遂げたなら、それは殺されたということだ。伯爵領、および伯爵家の財産は、私を殺した犯人を見つけた者にすべて譲る」
沈黙が落ちた。
次の瞬間、部屋の空気が一気にひっくり返る。
「何だと!?」
「おじい様……」
「殺された、ですって?」
使用人たちからもざわめきが広がった。バネッサの白い指が、扇の柄をきつく握る。レオポルドは顔を真っ赤にし、キャンディスは震えながら目元を押さえた。
その瞬間、マリアージュの中で、静かに法医術スイッチが入る。
なるほど。ルークがわざわざ調査を命じた理由は、これか。
「お待ちください、ケネス様」
最初に冷静さを取り戻したのは、バネッサだった。
「主人は病で亡くなりました。ならば、その条件は無効ではありませんか。誰かに殺されたのではなく病死なら、法に基づき妻である私が相応の財産を相続するのが妥当かと」
「この女狐め! そうはさせんぞ!」
またまたこめかみに青筋を立ててレオポルドが怒鳴る。マリアージュは内心、遠い目をした。
(うーわー、女狐ときたか……)
前世の時代劇でも、最近はなかなか聞かなかった単語である。
ますます茶番劇の様相を呈してきた。
「レオポルド様、まずは最後までケネス様のお話をお聞きください」
「ジュスト、お前までこの女に丸め込まれたのか!」
「うっ、うっ、殺されたかもしれないなんて……恐ろしい……」
ジュストと呼ばれた老執事がたしなめる傍らで、キャンディスがしくしくと泣き始める。その肩に、手をそっと置いたのは白衣の男だ。
「いいえ、旦那様は確かに病死でございます」
オスカーが白衣の男に視線を向ける。
「あなたは?」
「ダン=スカリーと申します。伯爵家専属の医術士でございます」
マリアージュの眉が、ぴくりと動いた。
伯爵家専属の医術士。
その肩書きだけで、少なくともこの男は伯爵の死に関して何らかの判断を下した人物ということになる。
それにしてもさすが遺産相続事件。やたら登場人物が多い。いや、多すぎる。
マリアージュはコーリーに小声で人物相関図を作るよう命じた。
その間も、オスカーの質問は続いている。
「モンタルボ伯爵の死亡を確認したのは、あなたですか」
「左様でございます」
「いつ、どのような状態で亡くなられていた」
「二週間前の朝方、寝室のベッドで冷たくなっておられるのが発見されました。伯爵様は以前より心の臓が弱られておりましたので、就寝中に心不全を起こされたものと判断いたしました」
「それを証明できる物証は」
「は……物証、でございますか?」
ダンはきょとんとした。
その顔を見て、マリアージュはエフィムと共にゆっくりと前へ出る。
「ふむ。ここでようやく、わしらの出番のようじゃな」
「ですわね」
マリアージュは頷き、にっこりと微笑んだ。
「お話の途中、失礼。わたくしはこの度、モンタルボ伯爵の死亡理由を調査に参りました。そのためには伯爵のご遺体を鑑定する必要があります」
「……え?」
「……は?」
一瞬、応接間の空気が凍った。
最初に声を上げたのは、バネッサだった。その声には、明らかな困惑と嫌悪が混じっている。
「……鑑定? ご遺体を? 何をおっしゃっているの? 主人はダン先生に看取られ、正式に病死と診断されました。それを今さら、どこのどなたとも知れないお嬢様が調べ直すと?」
「どこのどなたとも知れない、というほど無名のつもりはございませんけれど」
「そういう問題ではありません!」
バネッサの拒絶が強くなる。
「故人の安らかな眠りを乱すなど冒涜ですわ。そもそも、あなたは本当に医術士なのですか? それとも貴族のお遊びで、死者を弄ぶおつもり?」
「おい、待て」
レオポルドも苛立った顔で立ち上がった。
「医術士だか何だか知らんが、いきなりやって来て伯父の遺体を調べるだと? ふざけるな。ここはモンタルボ伯爵家だ。王宮の見世物小屋ではないぞ」
「まったくでございます」
ジュストも青ざめた顔で口を挟む。
「旦那様はすでに葬儀を終えられました。ご遺族のお心もまだ落ち着いておりません。それを……」
「まさか墓を掘り起こすつもりなのか?」
使用人の一人が怯えたように呟いた。
その言葉をきっかけに、部屋のあちこちからざわめきが広がる。
「気味が悪い……」
「亡くなった人間を調べるなんて……変人か?」
「そもそも、なぜ別の医術士がここに?」
キャンディスは蒼白な顔で胸元を押さえ、ダンは困惑したように眉を下げた。
「失礼ながら、何度でも申し上げます。伯爵様の死はわたしが確認しております。長年お身体を診てきたわたしが、心不全と判断したのです。それを外部の方に覆されるとなれば、わたしの診断を疑うということになりますが」
「ええ。疑っております」
さらりと返したマリアージュに、ダンの顔が強張った。
またまた部屋がどよめく。
コーリーが小声で「あわわわ」と漏らし、ユージィンが「また始まった」と肩を竦めた。
「マリアージュ様、もう少しこう、言い方を……」
「コーリー。臭いものに蓋をしても、その蓋の下まで診るのが、わたくしの仕事よ」
「臭いものとか、それ今いちばん言っちゃ駄目なやつです!」
「いやいや、わしはその例え嫌いではないぞ」
「エフィム先生も乗らないでください!」
マリアージュは、ひと通り反発の声が出尽くすのを待った。
そして腰に手を当て、軽くかぶりを振る。
「ああもう、いちいち面倒くさいですわね」
「は? なんだと?」
レオポルドがマリアージュの眼前すれすれに近づき、ぎょろりと凄んだ。
もちろんマリアージュは怯えもせず、その喧嘩を正々堂々買う。
「では手短に申し上げます。わたくしはマリアージュ=ドミストリ。ドミストリ公爵家の娘にして、王太子殿下直々に任じられた正式な法医術士です」
「ド、ドミストリ公爵家!?」
「なぜそんなお方がここに?」
マリアージュがフルネームを名乗った途端、レオポルドが顔を引きつらせて後ずさった。
さすが権力。
ブラボー権力。
権力はいつも通り、すべてを解決する。
マリアージュはとどめとばかりに、ルークの書状を卓上に叩きつけた。
「御覧なさい、この調査は王太子ルーク殿下の正式なご命令です。モンタルボ伯爵の死に不審がある以上、ご遺族のお気持ちや、伯爵家の体面や、皆様のご不快感より、王国の法と真実が優先されます」
「――」
「――」
「――」
今度こそ応接間が、水を打ったように静まり返った。マリアージュは優雅に首を傾げ、追撃する。
「もちろん拒否なさっても構いませんのよ? その場合は第一聖騎士団長オスカー殿立ち会いのもと、王太子殿下へこう報告いたします。モンタルボ伯爵家は故人の死因調査を拒み、遺言状に記された殺人の可能性について協力を拒否した、と」
「ちょ、ちょっとお待ちくださいっ! さすがにそれは……っ」
バネッサの唇が震え、追いすがるようにマリアージュを見た。
気性が激しいレオポルドも、さすがに言葉を失う。
「――さて。まだ反対なさる方はいらして?」
訊かれて、誰も答えなかった。
それが答えだった。
「結構。ではようやく本題に入れますわね」
マリアージュは、よしよしと得意げに頷く。
けれど誰もが絶句する中で、キャンディスが震える声を漏らした。
「あの……でも、おじい様の遺体は、もう……」
「もう?」
「すでに火葬されてしまっています」
「えっ!?」
火葬、の二文字に、コーリーは素っ頓狂な声を上げた。ユージィンも珍しく目を見開く。
遺体がない。
残されているのは遺骨だけ。
それで病死か殺人か、本当にわかるのか。
応接間にいる全員が、同じ疑問を頭に浮かべていた。
しかしマリアージュだけは、長い黒髪をかきあげながら余裕で微笑む。
「問題ありませんわ。たとえ骨だけになっても、死者の声を聞くことはできましてよ」
「にゃあ」
まるでそんなマリアージュを応援するかのように。
部屋の隅で丸まっていたルフィが、楽しげに尻尾を揺らした。




