37話 ある偏屈伯爵の遺言状1
3年ぶりに続きを投下です。
休止している間も、読みに来てくださった皆様、ありがとうございます!
しとしとと、長雨が降っていた。
王都郊外の小高い丘にある墓地は、灰色の空の下で静まり返っている。雨に濡れた芝生は重く沈み、墓石の列は白い靄の向こうにぼんやりと霞んでいた。
その一角に、まだ土の色が新しい墓がある。
墓前には、白い花が供えられていた。
だが訪れる者の姿はない。
泣く者も、祈る者も、故人の名を呼ぶ者もいない。
ただ一匹の黒猫だけが、墓石の前にぽつんと座っていた。
濡れた毛並みは夜のように黒く、金色の瞳だけが雨の中で淡く光っている。
黒猫はしばらく墓石を見上げていたが、やがて頬を擦り寄せるようにして、冷たい石に顔を寄せた。それからするりと身を翻し、空を見上げる。
「みゃあ」
細い鳴き声は、雨音にすぐ飲み込まれた。
けれど黒猫は、まるで誰かに別れを告げるように、もう一度だけ墓を振り返った。
◇◆◇
「ぶぇっくしょょょおい!」
「きゃあああああっ!」
王立医術院メメーリヤ分院の静寂を破ったのは、エフィムの盛大なくしゃみだった。その一撃で、机上に積まれていた書類がばさばさと舞い上がる。コーリーが慌てて押さえようとしたが、数枚がひらりと窓の外へ逃げていった。
「エフィム先生っ、窓! 窓が開いてます!」
「おお、すまんすまん。年を取ると鼻の制御もままならんでな」
「くしゃみ一つで大事な書類を飛ばさないでくださいませ!」
マリアージュは、こめかみを押さえながら窓辺に駆け寄った。
幸い、飛んでいった書類の束は遠くへは行かなかった。分院の庭にある大きな木の枝に引っかかり、雨上がりの湿った風に揺れている。
不幸なのは、それがかなり高い位置だったことだ。
「ユージィン。あれを落としてちょうだい」
マリアージュが振り返ると、窓際の椅子に座っていたユージィンが、気怠げに片手を上げた。
「――“風よ、吹け”」
淡い魔力の風が庭を渡り、枝先を揺らす。だが書類は濡れた葉と小枝に挟まっているらしく、ひらひら揺れるばかりで落ちてこない。
「もう少し強く」
「枝が折れる」
「もう、肝心な時に役に立ちませんのね」
「というか希少な魔法を、こんなことに使うほうがどうかしてる」
ユージィンらしい返答に、マリアージュは舌打ちした。
「でしたら、あなたが木に登って取ってきなさい」
「やだよ。俺は頭脳派なんだ」
「減俸」
「すぐにそうやって脅すの、やめてもらえます?」
「あ、あのっ、じゃあ私が登ります!」
今にも喧嘩を始めそうな二人を宥めるために、コーリーが袖をまくった。しかし小柄な彼女が本気で木に取りつこうとした瞬間、背後から低い声が降ってきた。
「女性にそのようなことはさせられません」
全員が一斉にドアのほうを振り返る。
分院の入口に立っていたのは、銀髪の騎士だった。
第一聖騎士団団長、オスカー=ルンドマルク。
整った顔立ちに、いつも通り生真面目な表情を浮かべている。
「まあ、オスカー殿。珍しいお客様ですこと」
「何をしているのですか」
「見ての通り、法医術の発展に不可欠な書類と、自然界との熾烈な綱引きですわ」
「……要するに、書類が木に引っかかったのですね」
オスカーは一度だけ庭の木を見上げると、迷いなく外へ出た。
そして次の瞬間、軽く地を蹴り、濡れた幹に足をかけ、枝をつかみ、驚くほど滑らかな動きで高い枝まで到達する。騎士団長の身のこなしは、もはや木登りというより武芸の一部だった。
ほどなく、書類の束は無事に回収された。
「ありがとうございます。まったく、うちの分院は揃いも揃って運動能力が低くて困りますわ」
「階段の上り下りだけで筋肉痛になってるマリアージュ様には言われたくない」
「ユージィン、余計なことを言わない!」
コーリーが慌てて止めるが、もう遅い。マリアージュはユージィンを睨み、ユージィンは涼しい顔で目を逸らした。
オスカーはそんな光景を見て、わずかに眉を動かしただけだった。
「お礼に、この後お茶でもいかがかしら?」
「いえ、遠慮いたします」
即答だった。
メメーリヤ分院の茶菓子が、脳の皺に見立てたいちごジャムとラズベリーソースまみれのケーキであることを、オスカーは知っている。王宮の聖騎士であっても、避けられる危険は避けるべきだ。
「それより本日はマリアージュ殿にお願いがあって参りました」
「あら。第一聖騎士団長が、わざわざわたくしにお願い?」
マリアージュの釣り目がちな瞳が、興味深げに細められる。
オスカーは懐から一通の書状を取り出した。封蝋には王太子ルークの紋章が押されている。
『愛しのマリアージュ。
今回、君には先日死去したマルコ=モンタルボ伯爵について調べてもらいたい。
モンタルボ伯爵は病死として届け出られているが、広大な領地と莫大な財産を持つ人物だ。相続問題も発生している。
今回はわが腹心オスカーも関係者として同行する。
どうか彼を助けてやってほしい。
君のひらめきと活躍に期待しているよ。
追伸。
君はどうも男難の相があるようだから、また変な男に引っかからないよう気をつけて。
誰よりも君を想う、ルーク』
――グシャッ。
読み終わったと同時に、乾いた音が響いた。
「マリアージュ殿。読んですぐに書状を握り潰さないでください」
「はっ! 申し訳ありません、つい癖で」
マリアージュは引きつった笑顔で、皺だらけになった書状を机の上で開き直す。
「モンタルボ伯爵といえば、確か二週間前に亡くなったのでしたわね」
「はい」
「鉱山開発で巨万の富を築いた偏屈伯爵。気難しく、けちで、使用人泣かせ。夜会でもいつも不機嫌そうにパイプをふかしていた方……という噂でしたわ」
マリアージュも、一度だけ遠目にその姿を見たことがある。
誰とも目を合わせず、誰が話しかけても短く切り捨てる老人。近くにいた者たちが、まるで火薬庫のそばにいるかのように緊張していたのを覚えている。
「病死なら、わたくしの出番ではないはずですけれど」
「遺言状が問題なのです」
オスカーは少しだけ言い淀んだ。
「ここだけの話にしていただきたいのですが」
「もちろん」
「モンタルボ伯爵の遺言状の中で、なぜか私が相続人の一人として指名されているようなのです」
「え」
マリアージュだけでなく、ユージィンとコーリーも同時に目を丸くした。
「オスカー殿とモンタルボ伯爵に血縁は?」
「ありません」
「親交は?」
「……ない、と思います。少なくとも、私が覚えている限りでは」
「覚えている限りでは?」
「どこかの夜会や式典で言葉を交わした可能性までは否定できません。ですが相続人に指名されるほどの関係ではない」
それは確かに奇妙だった。
血縁のない聖騎士団長を、偏屈な金持ち伯爵が遺言でわざわざ指名する。
しかも王太子がわざわざマリアージュに調査を命じるほど、事態はきな臭い。
マリアージュは腕を組み、ふっと笑った。
「いいでしょう。死者が残した最後の謎を、暴きに参りましょうか」
◇◆◇
モンタルボ伯爵家の屋敷は、王都郊外の広大な森と庭園の奥にあった。
馬車が正門をくぐってから、すでに十五分は経っている。だというのに、玄関はまだ見えない。
「いつまで馬車を走らせるつもりですの。屋敷というよりもう小国ですわね」
マリアージュが馬車の窓から外を眺めながら呟くと、向かいに座るコーリーが大きな鞄を抱え直した。
「ドミストリ公爵家もすごいと思ってましたけど、こちらも負けてませんねぇ」
「鉱山で財を築いた家だからのう。土地も屋敷も、金の匂いがするわい」
エフィムが髭を撫でる。ユージィンは隣のオスカーをちらりと見た。
「本当に伯爵と面識ないんですか」
「ない。少なくとも、思い出せない」
「何か助けたとか」
「騎士として人を助けることはある。いちいち覚えてはいない」
そこまで話したところで、ようやく馬車が止まる。
扉が開かれ、マリアージュたちは玄関前へ降り立った。事前に連絡が入っていたのだろう。そこには伯爵家の者たちが勢揃いしていた。
「ようこそ、モンタルボ伯爵邸へ。亡き夫に代わり、私が皆様をご接待いたします。バネッサ=モンタルボでございます」
最初に進み出たのは、三十代半ばほどの金髪の美女だった。喪服姿でありながら、計算された優雅さを崩さない。
なるほど。一目見ただけで後妻とわかるルックス。
妖艶、という言葉がこれほど似合う女性も珍しい。
「おい、貴様ごときが伯爵家の代表のような顔をするな!」
その背後から、苛立った男の声が飛んだ。
四十代ほどの男が、露骨な敵意をバネッサに向けている。おそらく伯爵の血縁か何かだろう。
「レオポルド様。お客様の前でございます」
真面目そうな執事が、レオポルドという名の男を静かにたしなめる。
その横には白衣を着た中年の男と、栗色の髪をした二十代の女性が控えていた。女性はどこか顔色が悪く、しきりに手袋を握りしめている。
あらあら。
典型的な遺産相続劇の舞台に、それっぽい役者が揃いすぎている。
前世で見たハリウッド映画みたいな寸劇だな……と、マリアージュは内心でため息をついた。
その時、頭上で、かすかな物音がした。
何事かと視線を上げると、黒い影が玄関の庇からふわりと落ちてくる。
「にゃっ」
「きゃっ!」
「マリアージュ殿!」
オスカーが反射的にマリアージュの腕を引き、自分の背にかばった。
黒い影は地面に音もなく着地する。雨に濡れた石畳の上で、長い尻尾がゆらりと揺れた。
一匹の黒猫だった。
金色の瞳を細め、黒猫はマリアージュとオスカーをじっと見つめる。
それからまるで待ち人がようやく来たとでも言うように、
「にゃあ」
小さく、不気味に。
一声、鳴いた。




