第九章 十二歳
「おはよう、壮真。誕生日おめでとう」
やわらかな光とともに届けられた母さんの声で、俺は目を覚ました。
「……ん……」
重い瞼を押し上げ、ゆっくりと体を起こす。
ベッドから這い出して窓辺へ歩み寄り、薄手のカーテンをシャッと開けた。
視界を埋め尽くしたのは、澄み切った朝日だった。
眩しさに目を細めながら息を吐くと、階下——台所から、出汁の利いた味噌汁と香ばしい焼き魚のいい匂いが漂ってきた。
「朝ご飯もうできてるから、早く着替えて降りてきて。学校遅れるわよ」
「うん、分かってる」
いつもなら「うるさいな」と布団をかぶって怒鳴り散らしていたはずの俺が、自分でも驚くほど素直な声で返事をしていた。
パジャマを脱ぎ、慣れた手つきで服を着替える。
((なんだか、不思議な気分だ……))
頭の奥に、ぼんやりとした微熱のような感覚が残っていた。
何か、ものすごく長くて、深くて、切ない夢を見ていた気がする。
そこは、夜空の底に広がる光り輝く星の海で。
巨大な羊や牡牛が練り歩く、神話のような十二星座の祭りで。
眩い光と賑やかな歓声の中で、俺はずっと誰かと一緒に手をつないで歩いていて——。
「……誰だっけ」
俺は洗面所の鏡の前で立ち尽くし、ぽつりと呟いた。
どれほど脳の記憶を手繰り寄せようとしても、一番肝心な「誰か」の顔や名前が、霧が覆い被さったように思い出せなかった。
まるで、最初からそんな人物など存在しなかったかのように、綺麗に塗り潰され消えてしまっている。
思い出せない。
それなのに、なぜか胸の奥だけが、ぎゅっと締め付けられるように痛かった。
「ほら、冷めちゃうわよ。朝ご飯食べて」
「あ……うん。ありがと」
台所へ向かうと、食卓には温かい朝食が並べられていた。
テーブルを挟んで、父さんが新聞を広げている。
普段なら俺が起きる前に家を出る多忙な父さんが、誕生日の朝だからと仕事の都合をつけて時間を作ってくれたのだろう。
「おはよう、壮真」
「おはよう、父さん」
母さんは味噌汁の器を手にとり、ふーふーと息を吹きかけながら啜っている。
父さんは「最近の景気は……」と独り言のように呟きながら新聞をめくり、俺は黙々と白飯を口へ運ぶ。
三人で囲む食卓。
家族で過ごす、いつも通りの静かで穏やかな朝の光景。
かつて俺が「退屈だ」と嫌がり、暴れて壊そうとしていたはずの日常が、そこには当たり前のように存在していた。
「今日は帰りにケーキ買ってくるわね。壮真はいつも通りチョコレートケーキでいい?」
母さんが愛おしそうに俺を見つめながら尋ねてきた。
「いや……ケーキは、別にいいかな」
俺は箸を止め、少しだけ考えてから答えた。
「えっ、ケーキいらないの?珍しいわね。あんなに好きだったのに」
母さんが驚いたように目を丸くする。
「……うん。なんとなく、甘いものの気分じゃないんだ」
そう、なんとなく、だ。
大好物だったはずの甘いケーキも、ジュースも、今日はなぜだか体に欲しくなかった。
代わりに、もっと素朴で、生きている実感が湧くような食べ物が食べたい気がした。
ふと、食卓の脇にある冷蔵庫へ視線をやる。
そこには、昨晩の残りの小鉢が置かれていた。
俺は自分から手を伸ばし、その小鉢を引き寄せた。
それを見た母さんが、目を見開いて声を上げる。
「え……壮真、それ食べるの?」
「うん。ダメ?」
「ダメじゃないけど……それ、野菜じゃない」
「……あ」
小鉢の中に並んでいたのは、鮮やかな赤と緑の野菜だった。
トマト、ニンジン、ピーマン、ブロッコリー。
どれもこれも、幼い頃から俺が大嫌いで、食卓に出されるたびに「こんなの食べられるかよ!」と皿ごと遠ざけていたはずの食べ物だった。
「嫌いだったでしょ、それ」
「うん……嫌いだった、と思う。たぶん」
俺は箸で青々としたピーマンをひとつ摘み上げ、口の中へ運んだ。
独特の苦味が口いっぱいに広がる。
けれど、不思議と不快ではなかった。
むしろ、その苦味や瑞々しさが、五臓六腑にじんと沁み渡っていくのが分かった。
トマトも、ブロッコリーも、一つひとつ噛み締めるようにして残さず口へ運んでいく。
昔から残してばかりだったはずの野菜を、俺はあっという間に完食してしまった。
最後の一口を飲み込み、お茶をゴクリと喉へ流し込む。
「……俺、いつからこれ食べられるようになったんだっけ」
自分でも不思議がって首をかしげる俺を見て、母さんは安心したようにふっと優しく笑った。
「さあねぇ?でも……ちょっとは大人になったんじゃないかしら。十二歳だもんね」
「そうだな。壮真ももう、立派なお兄ちゃんだ」
新聞から目を離した父さんも、満足そうに目を細めて頷いた。
「……へへ、そうかな」
俺も照れくさくなって、照れ隠しに鼻の頭を掻きながら笑った。
家族の温かい笑顔に囲まれて、俺の十二歳の誕生日は、これ以上ないほど穏やかに始まろうとしていた。
けれど——。
学校へ向かう準備を整え、玄関で靴を履いている時、胸の奥にほんの少しだけ残った「何か」が、愛おしく疼いた。
暖かな朝日の向こう側に、誰かがいた気がする。
俺の手を強く、温かく握ってくれた誰かの手。
俺の名前を、切なく、優しく呼んでくれた誰かの声。
決して呼んではいけないけれど、絶対に忘れてはいけない、大切な誰かの名前。
思い出せない。
何ひとつとして、頭には残っていない。
なのに——この胸に残る微かな痛みだけは、生涯絶対に忘れたくないと、俺は強く心に誓っていた。




