第八章 ログ
誰もいなくなった「もう一つの家」。
静まり返ったリビングの真ん中で、僕はぽつりと一人、食卓の椅子に腰掛けていた。
カチ、コチ、と規則正しい音だけが部屋を満たしている。
壁に掛けられた時計の針が刻む音だ。
現実の世界には存在しないはずのその音が、やけに鼓膜へ重く響いていた。
『あーあ……帰っちゃったな……』
誰もいない空間に向かってポツリと呟くと、自然と乾いた笑いが漏れた。
自嘲気味に口元を歪め、僕は力なく天井を見上げる。
『まあ……そりゃそうか。あいつはあっちの世界で生きている人間なんだから』
そう、双真は生きている。
あの温かい体温を持って、お日様の下で母さんと笑い合い、これからの未来を歩んでいくべき存在なんだ。
僕がどれほど羨んでも、どれほど手に入れたいと願っても……僕と双真、あるいは僕と母さん——二人が並んで歩く未来なんて最初から存在し得なかった。
『……さてと』
僕は小さく息を吐き出し、目の前のテーブルの上に視線を落とした。
指先を軽く一振りすると、空中に半透明の黒いスクリーンのような画面が浮かび上がった。
そこに映し出されているのは、この星の海の底——ダークウェブの領域に厳重に保存されていた、僕自身という存在のすべての記録。
「星野双介」という、与えられながらも誰にも呼ばれることのなかった名前と、その短い生涯の「ログ」だった。
【1.出生:星野海誠・望海の第一子として誕生】
【2.結合双生児:頭部を除く全器官の共有を確認】
【3.分離手術:生存確率の偏りにより、個体B(双介)の犠牲を前提とした手術を敢行】
【4.死亡:手術開始から三時間後、心停止】
【5.母・望海:重度のうつ病を発症。精神閉鎖状態へ】
【6.父・海誠:ノイローゼにより精神破綻。家庭崩壊】
【7.離婚:戸籍の修正と同時に家庭解体】
【8.忘却:関係者の記憶より「星野双介」の存在を抹消】
画面に流れる無機質な文字の列を、僕は一つずつ静かに眺めていった。
文字を見るたび、僕の胸の奥がチクチクと痛む。
自分のせいで狂ってしまった家族の運命。
僕が生まれたという事実そのものが、優しかった父さんと母さんを壊し、残された双真にまで深い陰りを落としていた。
『……僕が死ななければ』
画面をスクロールさせていた指が、ぴたりと止まった。
『母さんは鬱になんてならなかった』
さらに画面を下に手繰り寄せ、次の一行の記録を見つめる。
『父さんだって、壊れてどこかへ消えたりしなかった』
そして、今もなお自分の存在理由に悩み、母さんとすれ違い続けている弟の姿を思い浮かべる。
『双真だって……僕という存在のために、いわれのない罪悪感や葛藤を抱き続けて生きていかなくて済むんだ』
漆黒の暗闇の中で、僕は静かに微笑んだ。
胸の奥を占めていたドロドロとした嫉妬や怒りは、もう綺麗に消え去っていた。
双真が最後に僕の名前を呼んでくれたとき。
涙を流しながら「善く生きる」と誓ってくれたとき。
僕の寂しかった十二年間は、たったそれだけで救われてしまったから。
『……だったらさ』
僕は画面の右下に浮かぶ、赤く光る「データ消去」のコマンドへ、ゆっくりと指先を重ねた。
『僕の存在そのものを、最初から消せばいいんだよ』
迷いはなかった。
画面をタッチすると、無数のログが光の粒子となって砕け散り始めた。
まずは出生記録を消す。
分娩室でのあの残酷な記録を消す。
病院の冷たいデータベースに残った、僕の痕跡をすべて消す。
そして何より——母さんの記憶の奥底に残る傷痕から。
父さんの罪悪感から。
そして、愛しい弟の記憶から。
この世界のあらゆる場所から、僕という存在のすべてを消し去っていく。
誰かの心を傷つける原因になり得るのなら、そんな記憶なんて最初からなかった方がいい。
『……ありがとう、双真』
消えていく光の粒を見つめながら、僕は呟いた。
『僕の名前を何度も呼んでくれて。忘れないって言ってくれて……本当に、嬉しかったよ』
来年の十二星座大祭。
「また迎えに来て」とあいつは言ったけれど……ごめんね。
僕はもう、迎えに行ってあげられそうにないや。
胸を刺すような微かな痛みが走り、僕はそっと目を伏せた。
『でも、僕のことは……全部忘れていいからね』
僕が消えれば、母さんの心に残っていた不自然な傷も癒えるだろう。
双真も「兄の身代わり」なんて重荷を背負わずに、自分の人生を真っ直ぐに歩んでいけるはずだ。
すべてのログが消え去り、画面の最後にひとつだけ、僕が書き残したメッセージが浮かび上がった。
——仲良くやれよ。
母さんと、父さんと、そして双真。
残される僕の家族の人生に、どうかたくさんの幸せが降り注ぎますように。
『……双真、十二歳の誕生日、おめでとう』
最後の文字が光となって弾けた瞬間、僕の体もまた、指先からさらさらと解け始めていった。
光り輝く細かな星屑となって、僕は静かに星の海の波へと流されていく。
どこまでも広く、温かい宇宙の闇の中へ、僕はゆっくりと溶け込んでいった——。




