第六章 席
俺は、何も言えなかった。
反論するための言葉なんて、ひとつも喉まで持ち上がってこなかった。
自分でも、痛いほどによく分かっていたからだ。
双介が口にした言葉は、何ひとつとして間違っていなかった。
ここ最近の俺は、母さんに対してひどいことばかり繰り返していた。
毎朝、「双真、起きなさい」と部屋のドアを開けられるたびに、布団をかぶって「うるさいな!勝手に入ってくるなよ!」と怒鳴り散らした。
リビングのテーブルの上に置かれた宿題のドリルを指さされ、「早く済ませちゃいなさいね」と言われれば、聞こえないふりをしてイヤホンを耳に押し込んだ。
母さんが夜遅くに疲れた顔で帰ってきて、手作りのハンバーグや温かいスープを食卓に並べてくれても、気分が乗らないというだけで、「いらない。お腹すいてない」と言い放ち、一口もつけずに自室へ閉じこもった。
ある日の夜、母さんが台所で一人、肩を震わせて泣いているのを見かけたことがあった。
背中を丸めて静かに涙を拭う母さんの姿に、胸の奥が一瞬痛んだはずなのに、俺は自分の苛立ちを優先させた。
「勝手に泣けばいいだろ」
捨て台詞を残して自室の鍵を閉め、ゲームの画面に没頭した。
母さんがなぜ泣いているのか、その涙にどれほど深い痛みが隠されていたのかを考えようともせずに。
そして、その全てを双介は見ていたのだ。
この誰もいない「もう一つの家」から、ずっと俺の浅はかで我が物顔な生活を、指を咥えて見つめ続けていた。
『君より僕の方が、母さんを幸せにできる』
双介が静かに言った。
その声には、怒りや憎しみではなく、どこか哀しいほどに揺るぎない決意が宿っていた。
『僕なら、ちゃんとするよ』
「……」
『学校にも嫌がらずに行く。友達と喧嘩なんてしないし、勉強だって頑張る』
「……」
『進んで家の手伝いもするよ。買い出しも掃除も、母さんが帰ってくる前に全部済ませておく』
「……」
『母さんの誕生日だって、毎年覚えていて「いつもありがとう」ってプレゼントを用意して祝う』
双介はそこで言葉を区切り、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
その瞳からは、ボロボロと大粒の涙が溢れ出していた。
『……だから、僕に生きさせてよ』
その静かな叫びは、俺の胸を鋭く穿った。
俺は言葉を失い、ただじっと俯くことしかできなかった。
拳を強く握りしめると、爪が手のひらに食い込んで痛かった。
双介の言う通りだ。
俺が浪費していた毎日は、彼が死ぬほど望んでいた理想の生活だった。
俺が投げ捨てていた母さんとの時間は、彼がどれだけ手を伸ばしても届かない宝物だった。
彼に席を譲るべきなのかもしれない。
俺という存在が消えて、彼が「星野双真」として生きていく方が、母さんだって幸せになれるんじゃないか——そんな思いが、脳裏をよぎった。
どれほどの時間が流れただろうか。
静まり返った室内で、俺は深呼吸をひとつ吐き出した。
ゆっくりと口を開く。
「……席は」
声が激しく震えた。胸が押し潰されそうだった。
「席は、代われない」
双介が不服そうに口を開かけようとした。
俺はぎゅっと拳を握り直し、ゆっくりと顔を上げた。
「……でも」
「俺、お前のこと……絶対忘れないから」
『……ッ!』
双介が、弾かれたように目を見開いた。
「俺が何も知らなかったこと、今まで好き勝手やってお前の命の上に胡座をかいてたこと……全部、謝る」
『……うん』
「でも、もう知ったんだ。俺には双介っていう兄貴がいて、お前が俺の身代わりに死んで、ここでずっと耐えてたってことを知っちゃったんだよ」
俺は、精一杯の笑顔を作ってみせた。
涙でぐしゃぐしゃの、ひどい顔だったかもしれない。
けれど、これだけは絶対に伝えなければいけないと確信していた。
「お前の分まで……俺、善く生きるよ」
双介は言葉を失い、固まったように俺を見つめていた。
「だから俺は、俺のまま帰る」
『……』
「お前もお前のままでいていいんだ。俺になろうとしなくていい」
『……』
「俺の代替品じゃない。双介は、双介だからさ」
俺の言葉が、静かな部屋の中に染み渡っていく。
長い、長い沈黙が二人を包み込んだ。
やがて、双介はゆっくりと顔を伏せた。
『……ずるいな』
「何がだよ」
その肩は小さく震えていた。
『そういうこと……言われたらさ』
双介の目からポロポロと涙がこぼれ落ち、フローリングの床に小さな水たまりを作った。
『殺せるわけ、ないじゃん……っ』
彼は幼子のように両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるようにして声を上げて泣き出した。




