第五章 もう一つの家
ダークウェブの闇の中で、首元にかかる冷たい手指の圧迫感がじわりと強まっていく。
視界が歪み、酸素が欠乏して頭の奥がジンジンと痛んだ。
死の恐怖が、鋭い針のように全身の毛穴から突き刺さってくる。
けれど——俺は逃げなかった。
暴れて彼を突き飛ばすこともしなかった。
その顔や身体を殴り、蹴りつけることも出来なかった。
代わりに俺は、途切れ途切れの息を吐き出しながら、目の前で涙を流す兄の「本当の名前」を口にした。
「……そ、う……すけ……」
首を絞めるジェミニ——いや、双介の手が、ピクリと跳ねた。
俺は掠れた声で、もう一度その名前を呼んだ。
「双介……っ」
二度目。
そして、確かな温もりを記憶に刻むように、さらにもう一度。
「……双介……!」
三度目。
『やめろ……ッ!』
双介が弾かれたように叫び、俺の首から手を離した。彼はそのまま頭を抱え、苦しそうに後ずさりする。
『やめろ……その名前で呼ぶな……!』
「なんでだよ……っ」
俺は激しく咳き込みながら、喉を押さえて膝をついた。
酸素を求めて肺が喘ぐ。
涙で滲む視界の先で、双介はまるで激痛に耐えるかのように体を丸めていた。
『誰にも……誰も、そんな名前で僕を呼ばないからだ……!』
「誰も呼ばないなら……だから俺が呼ぶんだろ!俺はお前の兄弟なんだから!」
『やめろ!!』
「やめない……!絶対にやめないぞ……!」
俺は地面に手をつき、必死に体を起こした。
双介の身体が、落ち葉のように激しく震えていた。
その瞳からボロボロと溢れ落ちる涙は、もはや海に溶けることなく、彼の足元に小さな光の波紋を作っていた。
「俺……お前のこと、今まで何も知らなかった……」
『うん……知るわけないよ。僕はずっと隠されてたんだから……』
罪悪感を抱いた俺を慰めるためか、あるいは自身を納得させるためか。
双介は諦念の滲む声で、消え入りそうに呟いた。
「でも、今知ったんだ!」
『……』
「父さんがいなくなった理由も、母さんが俺の誕生日に何も言わない理由も……お前が一人でここにいたことも!全部今、知ったんだよ!」
俺はズズっと鼻を啜り、双介の肩を強く掴んだ。
今度は俺の方から、絶対に逃がさないように。
「知っちまったんだから……もう知らないふりなんて、できるわけないだろ!!」
俺の叫びが、闇の深淵に重く響き渡った。
長い、長い沈黙が訪れた。
双介は溢れ出る涙を拭おうともせず、ただ呆然と俺の顔を見つめている。
やがて、彼は力なく息を吐き出すと、俺の腕を優しく払いのけた。
『——やっぱりバカだね、双真は……』
その声には、先ほどまでの刺々しい殺意は残っていなかった。
ただ、果てしない疲労感と哀愁だけが漂っていた。
『ついてきて……』
双介が静かに囁くと、周囲の漆黒の空間がさらさらと砂のように崩れ始めた。
ダークウェブの底から引き上げられるような浮遊感とともに、俺たちの視界が眩い白光に包まれていく。
光が収まった時、俺たちは見覚えのある場所の前に立っていた。
「ここは……」
俺は目を疑った。
そこに建っていたのは、俺が毎日帰っている、あの家だった。
薄汚れた外壁、錆びついた門扉、二階にある俺の部屋。
玄関のドアノブの傷の位置まで、何もかもが完璧に同じだった。
双介は何も言わずにドアノブに手をかけ、押し開けた。
ガチャリと乾いた金属音が響く。
足を踏み入れると、そこには馴染み深い光景が広がっていた。
小さな玄関。
狭い廊下。
年月の経った木目調の台所。
奥に見える俺の部屋と、母さんの部屋。
全部、同じだった。
なのに——圧倒的な「違和感」が俺の肌を刺す。
静かすぎる。
生活音が一切存在しない。
埃の匂いすらしない。
まるで、精巧に作られたミニチュアのジオラマの中に迷い込んでしまったかのような、不気味なほどの無菌室感。
『ここが、僕の家だよ』
靴を脱ぎながら、双介がぽつりと言った。
「……」
『君たちの現実世界の記憶から、僕がこの星の海に作り上げた家だ』
双介は静かな足取りで台所へ向かうと、そこにある冷蔵庫の扉をすっと開けた。
中には牛乳やパックの惣菜、作り置きのスープなどが入っている。
けれど、そのどれもが、たった「一人分」の分量しか入っていなかった。
テーブルの上に並べられた箸も一皿、コップも一つだけだった。
『僕はずっと、ここにいる』
まるで聞き手がいないことが当然かのように、独り言のような調子で話し続ける。
「……一人で?」
『ずっと一人で』
「母さんは……?ここにはいないのか?」
『いないよ』
双介は淡々と答えた。
「じゃあ、父さんは……?」
『いない。来るわけないよ』
「……なんでだよ。ここは俺たちの記憶から作った家なんだろ?」
『……二人の記憶の中に、僕はもうほとんど残っていないから。君を迎えに行ったみたいに、僕が招かない限りこの家には誰も来ないよ……』
双介は力なく笑うと、ポツンと置かれた食卓の椅子に腰掛けた。
その背中が、やけに小さく見えた。
『母さんはね、僕が分離手術で死んだあと……猛烈な罪悪感と喪失感で、鬱になったんだ』
「……ッ!?」
俺は息を呑んだ。
母さんが、鬱……?
『僕を殺して君を選んだという事実が、母さんの心を粉々に砕いた。毎日毎日、暗い部屋で泣いて、薬を飲んで、ただ布団の中で天井を見つめるだけの置物みたいになっちゃったんだ』
双介の静かな語り口が、俺の知らない過去の悲劇を脳裏に鮮やかに浮き彫りにさせていく。
『父さんは必死だったよ。自分の仕事をして、家事をして、赤ん坊の君の面倒を見て……その上で、精神的に壊れてしまった母さんのことも支え続けようとした』
双介は自分の膝を見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。
『でも、無理だった。人間の心には限界がある。父さんはノイローゼになって、ついに限界を迎えたんだ』
「……だから、離婚したのか」
『そう。二人は完全に壊れてしまったんだよ。これ以上一緒にいたら、葛藤の末に選んだ君を育てることすらできなくなるほどにね』
知らなかった。
父さんが俺たちを捨てて出て行ったのだと、勝手に思い込んでいた。
母さんが冷たい人間だから、過去の話をしてくれないのだと恨んでいた。
けれど、すべては俺という存在を生かすために、大人がボロボロになりながら払った代償だったのだ。
『そして……誰も僕の話をしなくなった』
双介の唇が、切なく歪んだ。
『誰かが僕の名前を呼ぶと、母さんは罪悪感でパニックを起こして泣き叫ぶから』
「……」
『それを見た父さんは、耐えきれなくなって激怒するから』
「……」
『だから二人は、僕の存在を記憶の奥底に閉じ込めた。最初から僕なんていなかった、双真はただの一人っ子として生まれてきたんだって、自分に催眠をかけるみたいに忘れようとしたんだ』
双介は、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
『誰にも思い出してもらえない記憶。誰にも呼ばれない名前……。そんなものに何の意味があるんだろうね——』
俺は、一言も答えることができなかった。
喉の奥が引き結ばれ、熱い塊が詰まって声が出ない。
俺が平穏に過ごしてきた十二年間の裏側で、この兄は、誰もいない暗闇の家で一人で消えかけていたのだ。
『なのにさ……』
双介が顔を上げた。
その瞳が、まっすぐに俺を射貫く。
『君は生き残った』
「……」
『生き残ったくせに、母さんを泣かせてばかりだ』
「……ッ」
胸が痛いほどに刺さる。
『学校では先生に反発して、友達と喧嘩して問題ばかり起こす。家では話しかけてくる母さんを無視して、壁を叩いて、部屋に閉じこもって、怒鳴り散らして……』
「それは……っ」
言い訳をしようとした言葉が、途中で途切れた。
反抗期だとか、イライラしていたからだとか、そんな子供じみた言い訳が、彼の前でどれほど愚かで贅沢なものか、痛いほど理解してしまったからだ。
『僕が喉から手が出るほど欲しかった「生きている時間」を……君はそんな風に浪費しているんだ』
静かな、けれど何よりも重い責め苦の言葉だった。
双介は椅子から立ち上がると、俺の前まで歩み寄ってきた。
そして、まっすぐな目で俺を見つめた。
『——だったらさ』
部屋の中に、彼の静かな声が染み渡っていく。
『席を、譲ってよ』
それは、命令でも脅迫でもなかった。
ただひたすらに傷つき、置き去りにされた少年が放つ、悲痛な懇願だった。
『僕に……生きる場所を、譲ってくれよ』




