第二章 星の海
暗闇の奈落へ投げ出されたと思ったのは、ほんの一瞬のことだった。
視界を覆っていた自室の天井や壁が、硝子が割れるような音を立てて砕け散る。
全身を貫く猛烈な落下感に、俺は思わず目を固く瞑り、ジェミニの手を痛いほどに握りしめた。
だが、いつまで経っても地面に激突する衝撃は訪れない。
代わりに頬を撫でたのは、どこか心地よい冷たさを孕んだ澄んだ空気と、潮騒に似た密やかな波音だった。
((……波の音?空から落ちてるんじゃないのか……?))
そっと片目を開けた俺は、息をのんだ。
「……うっそだろ、おい……」
眼前に広がる光景に、思考が完全に凍りついた。
そこは宇宙だった。
けれど、学校の理科の教科書や図鑑で見るような、無機質で冷たい漆黒の真空などでは断じてなかった。
宇宙は、暗くなかった。
むしろ、眩しいほどに明るすぎた。
視界の果てまで広がる紺碧と紫紺のグラデーションのただ中に、無数の星々が満ちている。
それらの星は、まるで夜の海を泳ぐ発光魚のように、尾を引く光の粒を撒き散らしながら俺たちのすぐそばを悠々と通り過ぎていく。
遠くを見上げれば、まるで巨大な鯨が体をくねらせているかのような、淡く輝くエメラルドグリーンの星雲がゆっくりと星の海を揺蕩っていた。
『ね、綺麗でしょ?』
呆然と星々を見つめる俺の隣で、浮遊するジェミニが自慢げに問いかけてくる。
彼は俺の手を離すと、宙を泳ぐようにして少し前へと進み、すぐそばを通り過ぎようとした小指ほどの小さな星の一つへ、すっと手を伸ばした。
ジェミニの掌に収まった光は、まるで陽光を反射した魚の鱗のように、細かな虹色の光をキラキラと撒き散らした。
そして次の瞬間、その光の粒が空中で弾け、淡い立体映像のような景色を映し出し始めた。
それは、見知らぬ家族の風景だった。
テーブルに置かれたホールケーキと、そこに立てられた幾本ものローソク。
幼い少女が笑顔で息を吹き消し、周囲の大人たちが拍手を送っている。
誰かの誕生日だ。
映像が揺らぎ、別の光景に切り替わる。
桜の舞い散る門の前で、胸にコサージュをつけた若者たちが抱き合って笑い合っている。
誰かの卒業式。
さらに季節は巡る。
白無垢を着た綺麗な女性と、緊張した面持ちの男性が盃を交わす結婚式。
そして——雨の降る黒い傘の列と、静まり返った斎場で線香の煙が立ち上る、誰かの葬式。
安らかな笑い声。
胸を刺すような泣き声。
名前も顔も知らない誰かの人生の断片が、鮮やかな波紋となって星の海へと静かに広がっていく。
俺はその光景から目を離すことができなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。
『ここが、星の海だよ』
光を優しく包み込みながら、ジェミニが静かに言った。
『死んだ人の記憶や、かつて誰かが抱いていた魂が眠っている場所なんだ』
「魂……?」
俺は掠れた声で問い返した。
ジェミニは掌の光をそっと空へ放ち、愛おしそうにそれが見えなくなるまで追いかけた。
『うん。正確には、人の想いや記憶の集合体、かな』
「……じゃあ、ここに漂っている光や、この世界にいる人たちは……みんな死んでるのか?」
『死んでる人もいるよ』
ジェミニは振り返り、どこか寂しげな眼差しを俺に向けた。
『でも全員がそうじゃない。自分がもう死んだということを理解していない、地縛霊みたいになっちゃってる人や、現実の世界で生きていることを誰にも知られていない人……いろんな記憶がここに漂っているんだ』
「抽象的過ぎて、意味分かんねえよ……」
俺は頭を抱えた。
現実に生きている俺にとって、生と死の境目が曖昧に溶け合ったこの空間は、あまりにも浮世離れしすぎていた。
そんな俺の戸惑いを察してか、ジェミニはクスクスと小さく笑った。
『ふふ、記憶なんて本来そんなものだよ。明確な形なんてないんだ。複数人で同じ思い出を共有していても、抱く感情まで同じとは限らないしね』
ジェミニは宙に背中を預け、まるで浮き輪でプールに浮かんでいるかのように体を揺らした。
『世界から忘れられた記憶は、少しずつ光を失って薄くなっていく。でも、誰かに覚えてもらっている限りは、どんなに遠くへ離れても、こうして星としてここに残り続けるんだ』
忘れられたものは消え、記憶されているものは残る。
俺は自覚のないまま、自分の足元へと視線を落とした。
いつの間にか、俺たちは透明な硝子でできたような海の上に着地していた。
足を踏み出すたびに、水面に波紋が広がるように光の環が生まれる。
その透明な海の底を覗き込むと、深い深い闇の奥底に、無数の人影が静かに横たわり、眠りについているのが見えた。
その人影の一つひとつに、俺の知らない誰かの人生があり、喜怒哀楽があったのだ。
そう思い至った瞬間、胸の中に一つの強烈な疑問が芽生えた。
なぜ、ジェミニはこんな場所にいるのか。
なぜ、俺の前に突然現れ、俺と同じ顔をし、そして「現世にはいない」なんて言ったのか。
俺はゴクリと唾を飲み込み、目の前に立つ少年の顔をまっすぐに見つめた。
「……じゃあ、もしかしてお前も」
言葉の先を口にするのが恐ろしかった。
もしそれを認めてしまったら、目の前にいるこの温かい手が、本当は存在しない幻なのだと突きつけられる気がしたから。
ジェミニは俺の問いを途中で遮るように、静かに目を伏せた。
『……うん』
それだけをぽつりと呟いた。
すべてを認める、けれどそれ以上の追及は拒むような短い返答。
俺も、それ以上は何も言えなくなってしまった。
言葉を失った俺の頭上で、突如として地鳴りのような重低音が響き渡った。
ゴゴゴゴ……と星の海全体が振動し、遠くの地平線——否、星雲の彼方が眩い黄金色の光に包み込まれる。
『あ、始まったみたいだね』
ジェミニが笑顔を取り戻し、俺の手を引いた。
『行こう、十二星座大祭の本番だよ!』
押し寄せる光の波に飲み込まれるようにして俺たちが辿り着いた場所は、言葉通り「宇宙そのものが祭りになった」狂乱の世界だった。
そこは、俺が知っているどんな神社の夏祭りとも、テレビで見た海外のフェスティバルとも違っていた。
スケールが違いすぎた。
「うわ……なんだよ、これ……!」
俺は口をあんぐり開けたまま、空を見上げた。
開幕のパレードが宇宙を駆け巡る。
各座が演舞や音楽で星の海をさらに眩く彩っていった。
星屑を敷き詰め舗装した黄金の大地を、身の丈が山ほどもある巨大な牡羊の群れが、角から火花を散らしながら疾走していく。
その地響きだけで空間が震えていた。
その隣を見れば、銀河の川を渡っていくのは純白に輝く巨大な牡牛の形をした山車だった。
山車の上では、星の輝きで作られた衣装を纏った人々が笛や太鼓を打ち鳴らしている。
『あっちを見て!』
ジェミニが指差す先では、二本の小さな灯火を手にした子供たちが、夜空を横切る流星の群れに飛び乗り、回転しながら軽やかに踊っていた。
彼らは双子座の先触れだろうか。
さらに遠くの星雲では、重厚な甲冑を着た戦士たちが立ち塞がっていた。
胸には巨大な蟹の紋章が刻まれた盾。
蟹座の戦士たちだ。
彼らが立ち向かっているのは、漆黒の闇から這いあがってきた九つの頭を持つ巨大な蛇の怪物だった。
盾と剣がぶつかり合うたび、激しい散光が花火のように飛び散る。
鋼鉄の獅子の仮面をかぶって火の輪をくぐる踊り子たち。
宙に浮かび、星々の善悪を測るように揺れる巨大な正義の天秤。
怪しい紫色の毒針から、美しい光の線を描き出す巨大な蠍。
半人半馬の賢者が、銀河の果てを目指して放つ流星の矢と星屑の弓。
そして祭りの中心部では、巨大な水瓶を抱えた女神役の娘が、無限に湧きでる星の光を海へと注ぎ続けていた。
神話の世界が、そのまま生きて目の前に現れたかのようだった。
言葉を失って立ち尽くす俺の隣で、ジェミニが解説するように呟いた。
『十二星座の神話をこうして正しく語り継ぎ、祭りを繰り広げることで、星の位置を正しい軌道に繋ぎ止めているんだ。そうやって気候の安定と命の豊穣を祈るんだよ』
「すげえ……本当に、すげえよ……!」
俺はいつの間にか、恐怖も戸惑いも忘れて夢中になっていた。
今まで母さんと一緒に行ったどんな夏祭りよりも、屋台の電球が眩しかったどんな祭りよりも、遥かに美しく、刺激的で、楽しかった。
「あっちに行ってみようぜ、ジェミニ!」
『うん!』
俺が駆け出せば、ジェミニは楽しそうに笑いながら後ろを追いかけてきた。
星屑の地面につまずいて俺が派手に転ぶと、ジェミニはすぐに駆け寄って温かい手を差し出してくれる。
屋台のような場所に並んでいた、星の光を固めて作った甘いお菓子を見つけて俺が目を輝かせると、ジェミニは隣で顔をほころばせながら言った。
『それ、僕も好き』
あたかも、ずっと昔から俺と一緒にこの祭りを回り、同じものを食べて育ってきたかのように。
彼の一挙一動が、俺の心に不思議な温かさと、どこか切ない懐かしさを運んできた。
どれほどの時間を過ごしただろうか。
時間の感覚すら失っていた俺たちの前に、一層大きな歓声が響き渡った。
中央の広場を埋め尽くしていた星々が左右に割れ、道ができる。
光の道の中央へ、宙に浮かぶ二つの巨大な舞台がゆっくりと進み出てきた。
『あ……』
ジェミニが俺の手を少し強めに握りしめた。
その瞳が、緊張で揺れている。
『双子座の催し物が、始まるんだ』




