第一章 誕生日の前夜
明日は俺の十二回目の誕生日だ。
だからといって、街中が祝福してくれるわけでもなければ、特別なイベントが待っているわけでもない。
十二歳の誕生日という人生の節目のひとつを、俺は例年通り、ただ一人、ベッドの中で静かに迎えるはずだった。
正確に言うなら、「完全に一人」というわけではない。
うちには母さんがいる。
けれど、母さんは俺の誕生日だからといって、大袈裟にご馳走を作ったり、部屋を飾り付けたりするようなタイプの人じゃなかった。
普段より少し遅くに仕事から帰ってきて、おそらく最寄りのコンビニで買ってきたプラスチックケース入りのチョコレートケーキをダイニングテーブルに置く。
夕飯には、俺の好物であることだけは確かだが、手作りの少し焦げたハンバーグが並ぶ。
それで、終わり。
毎年繰り返される同じ光景だ。
「誕生日おめでとう、双真」という一言と、ローソクの火を吹き消す数十秒の儀式。
それが俺・星野双真の誕生日のすべてだった。
父親の記憶は、俺にはまったく存在しない。
俺がまだ物ごころもつかないほど幼い頃に離婚したらしい、ということだけは聞かされている。
けれど、その理由を俺は知らない。
一度だけ、小学校にあがる前くらいの時期に気になって母さんに尋ねたことがあった。
そのとき母さんは、冷めたコーヒーのカップを揺らしながら、ただ短くこう答えただけだった。
「子供には関係ないことよ。そうちゃんは知らなくていいの」
それ以上、追及できる雰囲気ではなかった。
母さんの横顔があまりにも暗く、触れてはいけない傷口のように見えたからだ。
だから俺は、自分という人間をずっと「一人っ子」なのだと思って生きてきた。
——兄弟という存在に憧れを抱いたことがないわけではない。
けれど実際には、兄弟のいる生活なんて想像もつかず、参観日に賑やかな家族連れを見たり友達が「兄弟と喧嘩した」なんて愚痴をこぼしているのを聞くたびに、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。
俺の家族は、母さんと俺の二人だけ。
それが俺の世界のすべてであり、揺るがない現実だった。
——今日、あの声を聞くまでは。
カチリ、と壁掛け時計の針が重なる音が静かな部屋に響いた。
深夜零時。
六月二十日から二十一日へと日付が切り替わった、まさにその瞬間だった。
重苦しい静寂が支配する自室で、俺はベッドの上に寝転がり、ぼんやりと天井の木目を数えていた。
夕飯後、夜勤に出た母さんは朝まで帰ってこない。
静まり返った家の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえていた。
((……これで、十二歳か))
特に感慨も湧かないまま、重い瞼を閉じようとした、その時だった。
『双真、今日で十二歳でしょ』
ふいに、声が聞こえた。
耳元で囁かれたわけでも、廊下から響いたわけでもない。
その声は、明確に「窓の外」から届いていた。
俺は跳ね起きるようにベッドから身体を起こした。
心臓がドクンと嫌な跳ね方をする。
俺の部屋は築古の戸建て賃貸の二階だ。
経年劣化と砂埃で黄ばんだ窓の外にはベランダなんて洒落たものはなく、ただ数メートルの高さの空間と、下には乗用車一台分の駐車場があるだけのはずだった。
まさか泥棒か?
それとも、ただの聞き間違い?
忍び足で冷たいフローリングを踏みしめ、俺は窓辺へと近づいた。
息を殺しながら、遮光カーテンの端を少しだけ手繰り寄せる。
「……!?」
喉から小さな悲鳴が漏れそうになり、あわてて両手で口を塞いだ。
そこに、人がいた。
闇に包まれた窓ガラスのすぐ向こう側。
本来なら足場など何ひとつ存在しないはずの空中に、一人の男の子が静かに佇んでいた。
「は……?」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだった。
夜空に浮かぶ満天の星々を背景にして、少年はごく当然のように、まるで透明な床の上にでも立っているかのように空中にとどまっていた。
俺は自分の目を疑い、何度も擦った。
夢でも見ているのかもしれない。
深夜の疲労が見せる幻覚か何かだ。
しかし、いくら目を凝らしても、その少年の姿が消えることはなかった。
月光を受けて浮かび上がるそのシルエットを見つめているうちに、俺の背筋に冷たい汗が伝った。
少年は、俺と同じくらいの背丈だった。
それだけじゃない。
夜風に吹かれ揺れる黒髪の質感も、少し吊り上った目の形も、すっと通った鼻筋も——何もかもが、俺とそっくりだった。
毎朝洗面所でうんざりしながら眺めている自分の顔。
それが、窓の向こうで月を背にこちらを覗いている。
まるでガラス一枚を挟んで、鏡を見ているかのような瓜二つの少年だった。
恐怖と困惑で声が震えるのを抑え込めないまま、俺は絞り出すように問いかけた。
「誰だ、お前……っ」
『僕?』
少年は、悪戯っぽくクスリと小さく笑った。
その表情の作り方、目元に寄る微かなシワの寄り方まで、不気味なほどに自分とよく似ている。
少年は窓ガラスにすっと手を触れると、施錠されているはずの窓がすんなりと音もなく横に滑り、夜風が部屋の中に吹き込んできた。
『ジェミニだよ』
夜風に乗って届けられたその横文字に、俺の思考は完全に停止した。
「……は?」
意味が分からない。
ジェミニ?それがこいつの名前?
純ジャパ顔だけどハーフ?
いや、双子座のことか?それとも何かの冗談?
思わず呆然と立ち尽くす俺を見て、少年は悪戯が成功した子供のように嬉しそうに目を細めた。
『君の双子の兄弟ってこと』
脳の処理能力を遥かに超えた言葉が吐き出され、俺は頭を強く振った。
理解を拒絶するように語気を強める。
「頭が追いつかない……。てか俺、一人っ子なんだけど?母さんだってそんなこと一言も——」
『うん。そう育てられたみたいだね。君が何も知らないのは無理もないよ』
ジェミニと名乗った少年は、俺の混乱をすべて見透かしているかのように、優しく頷いた。
その口調には、どこか達観したような穏やかさがあった。
「嘘つけ!兄弟なんか、俺には最初からいない!」
『現世では、ね』
一瞬の沈黙。
聞き慣れない「現世」というワードに、背筋に寒気が走る。
少年はひらりと身を躍らせると、二階の窓枠の上に軽やかに腰掛けた。
そのまま部屋の中へと足を踏み入れるでもなく、夜空と部屋の境界線に腰を下ろし、細い足をぶらつかせる。
『でも、僕はずっと君を知ってるよ。星野双真』
自分の本名を呼ばれ、ぞくりとした悪寒が頭頂部まで突き抜けた。
「お前、本当に誰なんだよ……!不法侵入だし、大体なんで浮いてるんだよ!」
『さっきから言ってるでしょ、君の兄弟だよ。訳あって僕には名前が無いんだ。だから、そう……。面倒だし、ジェミニとでも呼んでくれたらいいんだよ』
「そんな意味わかんねえ話、信じられるかよ!わけのわからない手品使って、こんな夜中に人んちに忍び込んで……不審者以外の何物でもないだろ!」
混乱のあまり叫び散らす俺に対して、ジェミニは少しだけ困ったような顔をしてみせた。
それから指を顎に当て、思案するように首をかしげる。
『うーん、信用がないなぁ。じゃあ、これでどう?——星野双真、十一歳。いや、たった今十二歳になったんだね。六月二十一日生まれの双子座、血液型はAB型のRh+。幼い頃の夢は宇宙飛行士で、好きな食べ物は肉と甘い物。嫌いな食べ物は野菜全般、特にピーマンとかゴーヤみたいな苦いのがダメなんだよね。この感じだとコーヒーも飲めないのかな?ふふ、お子さまだなぁ。……さてと、これで信じてもらえるかな、そうちゃん?』
少年は俺の顔を覗き込み、悪戯っぽく微笑んだ。
俺は息をのんだ。
生年月日や血液型なら、どこかで調べようと思えば調べられるかもしれない。
だが最後の呼び名は違う。
「そうちゃん」
その呼び方は、幼少期に母さんだけが使っていた特別な愛称だ。
小学校に上がってからは気恥ずかしくて「普通に名前で呼んで」と頼み、今では母さんすら滅多に口にしない呼び方だった。
他人どころか、近所の人だって知るはずがない。
「なんで……」
声がかすれた。
ジェミニは窓枠の上で片膝を抱え、夜空を見上げながら静かに呟いた。
『小さい頃の愛称を知ってるかって?それとも、僕が今夜ここに来た理由?』
「……両方だ。お前は一体、何のために俺の前に現れたんだ」
理由も分からず震える俺の視線を受け止めると、ジェミニはゆっくりと顔を上げ、まっすぐに俺の目を見つめ返した。
その瞳の奥には星屑のような微かな光が宿っている。
『誕生日だから、迎えに来たんだよ』
ジェミニは愛称については答えなかった。
「迎え……?何にだよ」
『星巡り』
代わりに短くそう答えると、細い指先で漆黒の夜空をすっと指差した。
その瞬間だった。
世界から音が消えた。
ヒュン、と風を切る微かな音が聞こえたかと思うと、上空で一つの光が弾けた。
続いて二つ、三つ。
視界を埋め尽くすほどの眩い光の粒子が、窓の向こうから怒涛のように部屋の中へと流れ込んでくる。
まるで落ちてくる星の破片が、俺たちの周囲を覆い尽くしていくかのようだった。
「うわ……ッ!?なんだこれ、何が起きてるんだ!?」
あまりの光の眩しさに腕で顔を覆う。
いや、違う。
星が落ちているんじゃない。
窓の外の景色が、街の街灯も、遠くのビルの明かりもすべてが歪み、ぐるぐると回転を始めていた。
俺たちが立っているこの部屋を中心にして、世界中の光が渦を巻き、夜の闇を白く塗りつぶしていく。
光の旋律の中で、ジェミニの声が響いた。
『十二星座大祭が始まるんだ』
風に揺れる髪を押さえながら、ジェミニは愛おしそうに渦巻く光の海を見つめていた。
『一年に一度、星の海で開かれる特別なお祭りさ』
「星の海……?祭りだって……!?」
俺は悲鳴に近い声を上げた。
足元がまるでエレベーターが急降下するときのように浮遊感を帯び始め、立っていることすら難しくなっていく。
『そう。死んだ人たちの記憶が、光となって眠る場所』
何でもないことのように語るジェミニの言葉の意味を理解した瞬間、俺の全身の血が引いていくのが分かった。
死んだ人の記憶が眠る場所だって?
そんな場所、生きている人間が行っていいはずがない……!
ジェミニは窓枠から静かに降り立つと、眩い光の中で俺に向かって真っ直ぐ手を差し出してきた。
『さあ、行こう!』
「嫌だよ!行くわけないだろ!」
『ええー、どうしてぇ?もしかして、そうちゃん怖いのぉ?』
「〜〜ッ腹立つ言い方しやがって!怖いに決まってんだろ!わけわかんねえ光の中に飛び込めなんて、正気かよ!?」
俺が本気で嫌がっているのを察したのか、ジェミニは「困ったな」とでも言いたげに苦笑いを浮かべた。
それから少し首を傾げて、人差し指を唇に当てる。
『じゃあ、もう少し怖くない言い方をしてあげようか』
ジェミニは少しだけ考える仕草を見せた後、パッと顔を輝かせて、とびきりの笑顔で言った。
『遊園地みたいなものだよ』
「絶対嘘だろ!!」
瞬時に突っ込んだ俺に、ジェミニは肩をすくめてみせる。
『うーん、半分くらいは本当だよ?アトラクションみたいで楽しいのは保証する』
「……じゃあ、残り半分は?」
『死んだ人の世界』
「それが一番怖いんだよ!!全然フォローになってねえ!」
恐怖と混乱で叫び続ける俺を見て、ジェミニは耐えきれなくなったように「あはは!」と声を上げて笑った。
その笑い声は、どこか切なく、どこか懐かしく、俺の胸の奥を強く締め付けた。
『大丈夫だよ』
笑い止んだジェミニが、優しく囁いた。
俺の拒絶を意に介さず、彼はすっと俺の手首を掴んだ。
触れた皮膚から伝わってきたのは、死者の世界という冷たい言葉とは裏腹な、不思議なくらいに温かい体温だった。
『僕がずっと、一緒についているからさ』
その言葉が耳に届いた次の瞬間。
俺たちの足元を支えていた床が、完全に消え去った。
「あぁぁぁぁっ!?」
重力を失った俺の身体は、浮遊感と加速感に包まれながら、果てしない夜空——光り輝く星の海へと、まっ逆さまに落ちていった。




