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台風の夜、寮に残ったのは  作者: 空の異変


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第五章 迎えの車

 舗装路の上では、雨は落ちてこない。横から来る。

 俺は左足だけで立って、右の爪先を引きずった。一歩ごとに、砕けた鉢の破片が靴底のどこかに残っているような音がする。風に押されて、二歩に一度は壁のほうへ体が振られた。

 校門のほうに、灯りがあった。

 白い作業灯だ。発電機を回している音まではしないが、あの明るさは非常用の電源につないだやつだ。雨の幕の向こうで、合羽を着た人影が四つか五つ、動いている。倒れた立て看板を起こしているらしい。

 俺は片手を上げて叫んだ。

「すみません!」

 風が声を真後ろへ持っていった。

「寮に、人がいます。二階の、備品室に」

 もう一度叫んだ。人影は倒れた看板のほうを向いたままだ。合羽のフードをかぶっていると、真横の声も聞こえない。中学のとき、雨の日の部活でそれを知った。知っていたところで、今は何の役にも立たない。

 通用口からそこまで、百四十メートルくらいだと思う。晴れた日なら二分だ。今の俺の足だと、何分かかるのか見当がつかない。

 三十メートル進んだところで、右足が地面に着いた。着いた瞬間に膝から下が抜けて、俺はアスファルトに手をついた。

 前方の、道路脇の待避スペースに、車のライトが入ってきた。

 黒い小型車だった。寮の裏に停まっていたやつだ。

 窓の中に、キャップをかぶった人影が見えた。

 作業灯のほうで、合羽の一人が顔を上げて、車に向かって片手を挙げた。知っている車と、知っている人が来た、という上げ方だった。向こうからは、俺のところまでは見えていない。見えていたとしても、その車が俺を拾うのだと思えば、それで終わりだ。

 運転席のドアが開いた。

「有村さん」

 俺は膝立ちのまま、手を伸ばした。

 有村さんは傘を差していなかった。合羽も着ていない。ワイシャツが体に貼りついていて、その上から、首の紐だけがまっすぐ下に垂れていた。

 俺の脇に手が入った。冷たい手だ。そのまま、俺は後ろのドアの前まで運ばれた。運び方は正確で、右足には一度も体重が乗らなかった。

 シートに尻が着いた。

「待ってください」

 ドアが閉まる前に、俺は言った。

「汐崎さんが、まだあそこに。寮の、通用口のところに残ってるんです。戻って、あの人を乗せてください」

 返事は無かった。

「怪我してます。頭。俺より重いです」

 そこまで言ってから、俺は自分の言っていることに気づいた。三時間前の俺は、この人に、あの子から離れておけと言われて、はいと答えていた。今は、あの子を乗せてくれと言っている。

 言い直さなかった。言い直す必要が、どこにも無かった。

 ドアが閉まった。


    *


 車が動き出した。

 運転席の背もたれ越しに、俺は身を乗り出した。

「有村さん、聞こえてますか。人が一人、あそこに」

「乗って」

 もう乗っている。

 その二文字だけが返ってきて、あとは前を向いたままだった。ワイパーが二往復した。

 首の紐の先が、ハンドルの上あたりで揺れていた。

 青いホイッスルが、縦に割れていた。

 歌口の側から本体の途中まで、線が一本入って、その先が欠けている。欠けた縁は白く潰れていた。紐は無事だ。無事な紐に、壊れたものがぶら下がっている。

 昼のあいだに落としたのか。台風だ。落とすこともあるだろう。

 そう考えようとした。考えようとしているあいだに、俺の目は別のところへ行った。

 キャップのつばの下、左のこめかみから額にかけて、皮膚の線が合っていなかった。庇の陰になって、その先は見えない。見えている部分だけで、これは怪我の範囲を超えている。

 雨の匂いに混じって、車の中には鉄の匂いがあった。

「有村さん」

 返事は無い。

「さっき、事務室にいましたよね」

 無い。

「笛、割れてますよ」

 無い。

「戻ってください。お願いします」

 無い。この人は、答えない質問には必ず別の話で蓋をする人だった。位置は、安全は、今どこに、と。その蓋すら、今は来ない。

 助手席の座面の縫い目から、白い糸が一本、ほつれて出ている。俺はなぜかそれを見ていた。見ているあいだだけ、頭の中が静かだった。

 三時間前、この人は事務室にいた。画面の中で喋って、俺の質問に答えて、笛は割れていなかった。

 ドアのレバーを引いた。

 動かない。もう一度、強く引いた。かちり、という音だけがして、それ以上は何も起こらない。窓のスイッチを押した。ガラスは一ミリも下りなかった。

 俺はガラスを掌で叩いた。

 作業灯の白い光が、右の窓の外を流れていく。合羽の背中が四つ。一つが、こちらを見たかもしれない。見たとしても、車の中は暗い。

 叩き続けた。ガラスは鳴るだけだった。

 車は校門の手前で、大きく右へ切り返した。

 灯りが後ろへ回って、フロントガラスの向こうに、見慣れた建物の四角い影が戻ってきた。


    *


 通用口の前で、車が止まった。

 ドアが外から開いて、冷たい手がまた脇に入った。抵抗した。右足を除いた全部を使って抵抗して、それでも俺の体は、階段の一段目に乗せられている。

 鍵束の音がした。俺が一年、毎日聞いていた音だ。

 二階へ上がって、二〇四号室のドアが開いた。

 有村さんは俺を中へ入れて、自分は戸口に立った。両手を下げて、その姿勢のまま動かなくなった。人が一人立つと、あの戸口は埋まる。

 室内は暗い。非常灯の緑だけが、床の一部を切り取っていた。

 三人いた。

 亮介が机のほうに。拓海が空いている段の前に。翔太が、俺の下の段の横に。三人とも、額から上が水平に無かった。

 立ち方が、生きている人間の立ち方ではなかった。体重を片足に預けるとか、手を持て余すとか、そういうものが無い。三人とも同じ角度で首を傾けて、同じ速さで俺のほうを向いた。亮介が喋り出す前の、あの息を吸う音がしない。拓海が誰かの言葉を切るときの、舌打ちの前触れもない。

 翔太は、昼に夢で見たときと同じ顔だった。あのときは、早く出ろ、と言っていた。今は何も言わない。

 その後ろに、栞さんが立っていた。

「姉さん」

「直人」

「この人たち、帰省してました。実家で死んだって、有村さんが」

「そうだね」

「姉さんが、やったんですか」

「うん」

 俺は床に座り込んだまま、動かなかった。

 四人の立ち位置を、俺の目が勝手に測っていた。

 机の端に亮介。畳の縁に拓海。入口の側に翔太。戸口に、もう一人。

 去年の夏の、離れの個室だ。

 ビールの箱を抱えて襖の前に立ったとき、中の四人は、ちょうどこの位置にいた。俺は箱を床に置いて、襖に手を掛けて、開けた。

 開けた先に、瀬川栞さんがいた。

 四人は、彼女に酒を飲ませて、そのあと、四人で彼女を犯した。

 俺は箱を置いたところから、一歩も中へ入らなかった。

 亮介が最初に俺を見た。刃を出して、頬の横に当てて、誰にも言うなよ、と言った。拓海が膝の裏を蹴る。翔太が俺の腕を跨いだ。

 最後に、戸口に立っていた人が、襖を閉めた。

 閉めて、内側から鍵を回した。

 あの鍵束の音だ。

「有村さん」

 俺は戸口を振り返った。

 有村さんは、俺の声に何の反応も返さなかった。頭を下げることも、目を逸らすこともしない。ただ、そこに立って、出口を塞いでいる。

 あの晩、この人が最後に襖を閉めた。

 閉めたあと、朝までに、瀬川栞さんは死んだ。

 一年前から、この人は毎日、俺の部屋の前を通っていた。在寮届を受け取って、笛を鳴らして、鍵束を回して。あの晩のことを一度も口に出さないまま、俺のいちばん近くにいる大人だった。

 俺は、その人に、あの子から離れておけと言われた。

 言われて、離れようとした。

「姉さん」

 栞さんは答えなかった。

 亮介が動いた。

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