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台風の夜、寮に残ったのは  作者: 空の異変


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第六章 朝の名前

 最初の一発は、こめかみの上に来た。

 床に倒れた。腕で頭を抱えた。そこから先は、数えるのをやめた。背中、脇腹、腰。靴の底が俺の肋の上で止まって、体重が乗って、抜ける。

 三人は何も言わない。掛け声も、罵りもない。呼吸の音すらない部屋で、肉を打つ音だけが正確に続く。

 途中から、俺は腕を下ろした。

 やめてくれと言う代わりに、頭を守っていた手を、床に置いた。

 去年の夏、襖の前で、俺はその手でスマートフォンを握っていた。画面を点けて、数字を三つ押して、それでおしまいにした。あの手だ。

 だから、これは。

 そこまで考えたところで、廊下のほうで金属が鳴った。

 通用口の扉が、風で閉じきらない音だ。三和土に何かを噛ませて、開いた角度のまま止めてある音。

「やめて」

 汐崎さんが、部屋の入口に立っていた。

 戸口を塞いでいた有村さんの体は、その脇に寄っていた。どうやって通り抜けたのかは分からない。彼女は片手で扉の枠を掴んで、もう片方の手をだらりと下げていた。こめかみの血は乾いていて、その上から雨で流された筋が何本も走っている。

「病院。二人とも、病院に行くから」

 栞さんが動いた。

 俺を囲んでいた三人が、その場で止まった。振り上げた足が下りきらないまま、亮介の形は動きを失っている。糸で吊られていたものが、まとめて吊り元を変えたみたいだった。

 栞さんの手が、汐崎さんの首に掛かった。

 背中が壁に押しつけられて、爪先が浮いた。汐崎さんの両手が、その腕を掴む。掴んで、動かせていない。

 俺は肘を立てた。

 肋が軋んで、右足はもう体重の話をしていない。それでも、床を這って、二人のあいだへ入った。栞さんの腕の下に肩を差し込んで、背中で汐崎さんを壁から少し剥がした。

「姉さん」

 腕は緩まない。

「この人、関係ないです。俺が置いてもらっただけの人です」

「あなたが決めることじゃない」

「じゃあ俺にしてください」

 汐崎さんの喉から、音にならない息が漏れた。

「殺してくれ」

 言った。一度だけ言って、それから、その続きを飲み込んだ。続きを言っている時間で、この人の手が一センチ緩むなら、そっちのほうがいい。

 俺は栞さんの腕を、両手で下から押し上げた。持ち上がらない。持ち上がらないまま、押し続けた。


    *


 手が離れた。

 汐崎さんが床に落ちて、四つん這いで咳き込んだ。空気が入る音がして、それが二度、三度と続いた。

 栞さんは俺のほうを見ていなかった。机のほうへ歩いて、亮介の筆箱を拾った。

 黄色い柄の、黒い補修テープが一周巻いてあるカッターナイフ。刃が、金属の音を立てて出た。

「お願い」

 汐崎さんが、床から声を出した。

「もうやめて。病院に行かせて」

 栞さんは彼女を見た。見て、何も答えなかった。答えない代わりに、俺の前へ来る。

「直人」

「はい」

「私を守るって、言ったよね」

 自販機の前だ。缶の縁を親指でなぞっていた、あの人の手。

「言いました」

「あのとき、誰か呼んでくれた?」

 俺は顔を上げた。上げたところに、一年前と同じ顔があった。ここで嘘をつくなら、俺は今夜、何のために思い出したのか分からない。

「電話は、かけられました」

 息を継いだ。

「かけなかったんです」

 刃が上がった。

 目は閉じなかった。閉じてはいけない気がした。

 風の音が、額の上を通った。

 痛みは来なかった。

 頭の上で、何かが軽くなった。ひとふさの髪が、俺の膝の前に落ちた。黒い束が、雨に濡れた床に貼りつく。

 カッターナイフが手から離れて、床で跳ねた。

 栞さんは、そのまま膝をついた。

 泣き声は、生きていたころの高さだった。俺が聞いたことのある、実行委員会の倉庫で、弟の話をしたときの声。

「姉さん」

「生きて」

 顔は伏せたままだった。

「あの夜のこと、もう黙っていないで」

 それから、言いかけて、やめた。何を言いかけたのかは、教えてくれなかった。

 立ち上がったとき、その顔は、俺の知っている顔に戻っていた。

 三つの形が、輪郭のほうから順に薄くなった。有村さんの体は、戸口の脇で、そのまま前へ倒れる。倒れたきり、動かなかった。

 床に残ったのは、刃を出したままのカッターナイフと、ひとふさの髪と、俺たち二人だった。


    *


 朝には、風が止んでいた。

 窓の外が白くなって、それからすぐに青くなった。台風が抜けたあとの空は、毎年、腹が立つくらい綺麗だ。

 救急隊が来るまでのあいだ、俺たちは廊下の手すりのところに座っていた。二人とも、部屋の中には戻らなかった。

 救急車より先に、パトカーが来た。夜中の通報で一度、寮の前まで来ていたらしい。俺がそこにいなかったので、風が収まってからもう一度回ったのだと、隊員の人が教えてくれた。

「あの晩」

 汐崎さんが言った。声が掠れている。

「三枝さん、寝てるとき、シーツ握るの。それで、息が止まる。止まって、また急に吸う」

「……見てたのか」

「見てた。起こしていいのか分からなくて、立ってた」

 入口でのことも、彼女は短く話した。首を掴まれて、壁に押しつけられて、それがある時点でぴたりと止んだこと。そのあと外で車の音がして、扉の内側が静かになったこと。

「その隙に出た。門止め、まだ三和土に転がってたから、それを噛ませて」

「戻ってくるまで、どのくらい」

「分かんない。何回か座った」

 俺は手すりの錆を指で擦っていた。

「昨日の夜も、一回起こそうとした。そしたら自分で起きた」

「怖くなかったのか。知らない男の部屋で」

「怖かったよ。でも、あの部屋、他に誰もいなかったから」

 写真の話もした。

 上の段の壁から翔太の写真を剥がしたのは彼女だ。テープが古くて、縁が紙ごと持っていかれた。捨てるわけにもいかなくて、床に置いたまま、映画を観ていた。

 それだけの話だった。

「翔太とは」

「ネットで知り合った。来たのは私が決めた」

「あいつ、俺には」

「うん。あの夜に、もうやめようって言った。言ったのに、次の日、彼女ってことにして三枝さんに預けてった」

 彼女は膝を抱えて、庭のほうを見ていた。

「でも、死んでほしいとは言ってない」

 俺も庭のほうを見た。折れた枝と、割れた植木鉢の破片が、水の引いた跡に沿って散らばっている。

「あと、これは別の話だけど」

「何」

「私、三枝さんのこと、けっこう好きだよ」

「……今か」

「今しか言う時間なさそうだから」

 そのあと、救急隊が階段を上がってきた。

 病院の待合室で、俺は右足首をギプスで固められ、肋の検査を待っていた。彼女は頭の縫合と、首の診察。戻ってきて、俺の隣の椅子に座った。

 テーブルの雑誌の角が、一つだけ折れていた。誰かが読みかけて、そのままにしたやつだ。

「そうめん、八百六十円」

「今?」

「今しか言う時間なさそうだから」

 彼女は財布を出して、千円札を一枚、俺の膝の上に置いた。

「お釣り、百四十円」

「持ってない」

「じゃあ貸しで」

 昼前に、警察の人が二人来た。

 俺は、自分が見たことから話した。備品室で翔太を見たこと。車の中で有村さんの笛が割れていたこと。部屋に戻されてからのこと。

 それから、一年前のことを話した。

 飲み会に瀬川栞さんを誘ったのは自分であること。ビールを取りに行って、戻って、襖を開けたこと。そのあと三人に殴られ、黙っていろと言われたこと。廊下で電話をかけられる時間があって、かけなかったこと。

 覚えていない部分は、覚えていないと言った。夢で見たものは、夢で見たものだと言う。その区別を何度も訊かれて、何度も同じように答えた。

「補充の聴取を、改めてお願いすることになります」

「はい」

 日にちが決まって、紙に書かれて、俺はそれを受け取った。

 廊下に出ると、彼女が自販機の前に立っていた。

「千夏」

 振り返るまでに、一拍あった。

「いいけど」

「悪い。さっきの調書に、名前書いたから」

「じゃあ、いいよ」

 受付で、聴取の日程票と診療の書類を出した。

 職員の人が判子を押して、控えをこちらへ回した。俺はそれを、まだ動く左手で受け取った。


(了)

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