第四章 姉さんの声
外廊下に出たとたん、雨が横から顔を叩いた。
傘なんて概念がこの場所から消えている。中庭側は柱だけで、風はそこを抜けて廊下を一本の管みたいに使っていた。俺は壁に掌を当てて、階段のほうへ体を運んだ。
壁の下のほうに、古い塗料がしずくの形で固まっている。何年も前に誰かが塗り残したやつだ。掌がそこを通るたびに、小さく引っかかる。
濡れているのに、ここはまだ屋根の下だ。屋根があるのは分かっている。分かっていても、この量の雨では、外にいるのと変わらない。
廊下の端に並んでいた植木鉢は、半分だけ壁際へ寄せてあった。有村さんは残りに手をつける前に呼ばれたんだろう。
寄せていないほうの一つが、風に持ち上がった。
見えたときには、もう俺の腰の高さにあった。避けようとした足が、床の水を噛まずに滑る。鉢は右のくるぶしの内側に当たって、そのまま砕けた。
肉と骨のあいだを引き裂かれる感じがあって、右足が床を押せなくなった。膝から崩れて、俺は廊下の水たまりに肩から入った。
階段まで、あと十歩ある。
その十歩が、急に、街一つ分になった。
横のドアが内側へ開いた。
腕が伸びて、俺の襟首を掴んで、引きずり込んだ。
備品室だった。ドアが閉まって、風が切れて、耳の中の圧力が抜けた。
床に座り込んだまま顔を上げると、人が立っていた。
「姉さん」
言ってから、自分が何を言ったのか分かった。
瀬川栞さんだった。一年前と同じ、肩までの髪。濡れていない。
一年生の秋に、俺はこの人と、学園祭実行委員会の倉庫で段ボールを運んでいた。俺が五箱まとめて持とうとして、腰から崩れかけた。
「その箱、半分こっちに寄こして。全部持つつもり?」
そのときの声を覚えている。
倉庫の帰り、自販機の前で、この人は弟の話をした。
「四つ下」
「へえ」
「顔、あなたに似てる。目の下のとこが」
似てる、ではなくて、似てた、だ。言い直さなかったから、俺も訊かなかった。この人は缶の縁を親指でなぞって、それから、この話は他でしないから、と言った。
「じゃあ、俺が姉さん守りますよ」
二十歳にもなっていない男が言う台詞として、いちばん軽いやつだ。言った本人が、三日後には忘れていられる種類の。
あの人は笑って、頼りにしてる、と言った。
先輩、と呼んでいたのが姉さんに変わったのは、その日からだ。
*
「直人、こっちにおいで。今は声を出さないで」
栞さんは俺を壁際の棚のほうへ引いて、床に座らせた。掌が俺の口の上に来た。
ドアの外で、足音が止まった。
「三枝さん」
汐崎さんの声だった。風の下からでも分かるくらい、はっきり呼んでいる。
「三枝さん、いる?」
口の上の掌に、力が入った。指が俺の頬骨を押さえて、顎が上を向かされる。声が出ない。喉の奥で音になったものが、掌の裏側で潰れる。
ドアの下の隙間で、光が動いた。屈んで覗いている。俺の足が見えているはずだ。
栞さんの手が、俺の体をもう少し棚の陰へ引いた。
光が外れた。足音が遠ざかっていく。階段のほう。一段、二段と下りる音が、風の合間に聞こえて、聞こえなくなった。
「行った」
栞さんはそう言った。言ったのに、手は退かなかった。
「姉さん、あの人は」
「しゃべらないで」
「違うんです。あの人、たぶん俺を探して」
「直人」
呼ばれて、口が止まった。一年前と同じだ。この人に名前を呼ばれると、俺は文の途中でも黙る。
「あなた、人の見分けがつかないね」
俺は肩で息をしながら、その手を外そうとした。手首を掴んで、押した。動かない。指の力が、掌のときよりも強くなっている。もう一方の腕が俺の胸の前に回って、背中が棚板に押しつけられた。
「姉さん、痛い」
「そう」
返事はそれだけだった。
助けてくれた人が、俺を動けなくしている。二つの事実が同じ部屋の中で並んでいて、俺の頭は後ろのほうを認めたがらなかった。
その角度で、俺の視線は棚の下に入った。
床に、足が二本出ていた。
スニーカーの踵に、見覚えのある踏み潰し方があった。ジーンズの裾は雨で色が変わっていた。そこから上は、棚板の影で切れていた。
俺は首を捻る。捻った先に、翔太がいた。壁に背中を預けて座った姿勢で、額から上が水平に無かった。
その横に、濡れた紙が一枚、床に貼りついていた。
乗車券の払戻計算書。発行時刻は、今日の午前。運休のため、と印字が続いている。
あいつは帰っていない。帰れなくて、戻ってきて、この部屋にいた。俺が昼寝をして、夢を見ていたあいだ、ずっとここにいたことになる。
口の上の掌が、離れた。
「直人」
呼ばれて、俺は顔を戻した。
栞さんの首が、肩の上でゆっくり向きを変えていた。体はこちらを向いたまま、顔だけが、人の首が回る角度を超えていく。
耳から、鼻から、口の端から、黒いものが落ちはじめた。目が前へ出てくる。眼窩の縁から押し出されて、それでも、こちらを見ている。
一年前の夏、亮介が紙の下から抜いた、あの名札。
握りしめた指の関節。読まなかった字。
読まなくても、今なら分かる。
*
内側のドアが鳴った。
備品室にはドアが二つある。外廊下側と、階段の踊り場へ抜ける内扉。内扉のほうは、この十年ぶんの粗大ごみが前に積んであって、押しても引いても動かないことで有名だった。
その山が、向こう側から崩される音がした。
金属が木にねじ込まれる。梃子。二度、三度。隙間が開いて、作業灯の光が床を走った。
「三枝さん!」
汐崎さんが、短いバールを持って立っていた。防災箱のやつだ。階段を下りて、蓋を開けて、上がってきた。それだけの時間が、たしかに過ぎている。あの足音は、逃げたのではなくて、取りに行った音だ。
俺の胸を押さえていた腕の力が、内扉のほうへ向いた分だけ抜けた。
「どっちの足」
「右」
「立てる?」
「立てない」
「じゃあ這って。こっち側、荷物どかしたから」
栞さんの手が、俺の腕を掴み直そうとした。掴む前に、俺は床を蹴っていた。右足は使えない。左足と、両手の掌で、俺は積み荷の隙間へ潜り込んだ。
「肩。私の肩につかまって」
「足が」
「右足を浮かせたまま、一段ずつ下りよう」
踊り場の手すりに片手を掛けて、彼女の肩にもう片手を乗せて、俺は階段を下りた。一段ごとに、右足の先が宙で揺れて、そのたびに膝から下が熱くなる。
後ろから、俺の名前が降ってきた。
「直人」
呼び方は、去年と同じだった。声も同じだ。同じ声が、一段ずつ、上から追ってくる。走ってはいない。ドアを一つ抜け、角を一つ曲がり、人と同じ順番で近づいてくる。
それが、いちばん悪かった。
一階の通用口は、閉門器の付いた鉄の扉だ。外側に短い庇があって、その先は舗装路になっている。
三和土の隅に、ゴムの門止めが一つ転がっていた。誰かが蹴って、そのままにしたやつだ。
扉に体当たりした。風圧で押し返されて、二人とも足がもつれた。
彼女が先に倒れた。俺を支えた側の肩から、そのまま三和土へ落ちて、扉の枠の角に頭を当てた。音。
起き上がった彼女のこめかみから、雨に薄まっていない色のものが、顎まで一本流れた。
「出て」
「あんたが先に」
「出て」
「頭、切れてる」
「知ってる。三枝さん、さっきの、屋根の下でしか触ってこなかった」
何を言っているのか、一拍遅れて入ってきた。廊下と階段と、あの備品室。ぜんぶ屋根の下だ。俺の首の後ろに手が掛かったのも、全部その中でだった。
「庇の外まで出て。ここ、まだ中だから」
それが当たっているかどうか、彼女にも分かっていなかったと思う。分かっていないことを、やってみる価値がある、という顔で言っていた。
俺は膝と掌で三和土を這って、庇の下を抜けた。
雨が背中を叩いた。
背中を叩いたのは、雨だけだった。
さっきまで首の後ろに掛かっていた手が、無い。
振り返ると、通用口の枠の内側に、汐崎さんが立っていた。こめかみを押さえて、扉を半分背中で支えている。その奥の暗がりから、俺の名前を呼ぶ声が、まだ、続けて聞こえていた。




