第三章 鍵の音
夜の十時を回って、ベランダのサッシが鳴りはじめた。
一定ではない。風が固まりで来て、ガラスを二度、三度押して、それから抜ける。抜けたあとの数秒がいちばん長く感じる。
通話の着信が入った。有村さんだった。
画面の中の有村さんは、寮の事務室にいた。背中側に事務机が映っていて、壁の掲示に台風の注意喚起が貼ってある。首には青いホイッスルが下がったままだ。紐の付け根も、口の部分も、いつもと同じ形をしていた。
「三枝くん、今、一人?」
「あ、はい」
画面には映らない位置で、汐崎さんが机の椅子から立って、ベッドの陰へ移った。その椅子の背に、裾の丸まったTシャツが引っかかっている。洗ったのに畳まないまま三日そこにある、俺のだ。
「順番に話すね。落ち着いて聞いてほしい」
前置きがある話にろくなものはない。
「二人のご家族から、学生支援課に連絡があったんだ。久保くんと、真壁くん」
「……何かあったんですか」
「亡くなった」
サッシがまた鳴った。俺は自分が何か返事をしたのかどうか、覚えていない。
亮介と拓海は同じ高校の出身で、ここへ来てからもずっと一緒にいた。亮介が喋って、拓海が短く切る。あの二人が並んでいない状態を、俺はほとんど見たことがない。空いている二つの段が、視界の端にある。
「聞いた範囲で話すね。二人とも、帰省先のご自宅で。部屋は中から閉まっていたらしい」
「事故、ですか」
「警察も入ってる。僕は結論を言える立場じゃない。ただ、ご家族から聞いた傷の様子が、その、二人とも似ているそうなんだ」
「似てるって、どこが」
「それは、僕の口からは言わない」
言わないという言い方で、もう言っている。
「それでね、警察がご家族に訊いたそうだよ。最近、学校で変わった様子はなかったかって」
変わった様子。
頭の奥で、机の上に広げた紙が一枚、めくれた。
「三枝くん。今、その子、部屋にいるんだよね」
有村さんの声の高さが、半段だけ下がった。
「榊くんが連れてきた子。あの子が来てから、なんだね。念のため、少し離れておこうか」
「離れるって、どこにですか」
「僕が迎えに行けるといいんだけど、この風だと車を出すなって言われててね。朝まで持ちこたえて。鍵は僕が持ってるから、必要なら開ける」
鍵束が、画面の外で鳴った。
「それと、これは僕の勝手な感じ方だから、真に受けないでほしいんだけど」
真に受けないでほしい、という前置きも、ろくなことがない。
「気をつけてね」
通話が切れた。
*
俺は懐中電灯を持って、亮介の段の下の収納を開けた。
自分でもなぜそこを開けたのか、うまく説明できない。警察が変わった様子を訊いた、というところで、思い出しかけた形があった。
紙は、教科書の間に挟まっていた。四つに畳んだ紙。広げると、上のほうに鳥居が描いてあって、その下に五十音が並んでいて、右の隅に「はい」、左の隅に「いいえ」。十円玉は、同じ隙間に転がっていた。
夏休みに入る前の晩だ。
消灯後に、亮介が部屋の電気を消させた。四人で机を囲んで、真ん中に紙を置いて、十円玉に四本の指を載せた。くだらない質問から始める。明日の天気。誰が先に彼女ができるか。硬貨は動いた。動いた分だけ、みんな面白がった。
途中で誰かが訊いた。
「どうやって死んだの」
誰が言ったのかは、今も分からない。
十円玉が止まった。
指の下で、押しても引いても、動かない。亮介が「帰ってください」を三回言った。返事の位置に、硬貨は行かなかった。
「指、離すな。まだ帰ったって返事が出てない」
亮介の声が上ずっていた。
「もう片づけろよ。俺は寝る」
拓海は指を離して、そのまま自分の段へ上がった。
「出るなら俺のとこに来いって。文句くらい聞いてやるよ」
翔太も笑って離した。笑い事だと思っていた。俺もだ。
最後まで残っていた亮介が、紙の端を持ち上げた。紙の下から、白い小さな紙片を一枚、引き抜いた。名札の紙だ。サークルの受付で名前を書いて胸に貼る、あれの、字の面。
亮介はそれを、指の関節が白くなるほど強く握って、俺のほうを見た。
俺は梯子に足を掛けていた。字は読んでいない。読まなかった。あのとき読んでいたら、と考えかけて、やめた。
紙を畳み直して、収納に戻した。手が当たって、亮介の筆箱が転がり出た。
中身が半分こぼれた。シャープペンシルが二本と、黄色い柄のカッターナイフ。柄の真ん中に、黒い補修テープが一周巻いてある。
指が止まった。
そのとき、廊下のどこかで鍵束が鳴った。
有村さんが上がってきたのかと思った。思ったのに、俺の体は反対に動いて、ベッドの陰に入っていた。肩が壁に当たる。そこから先が、勝手に来た。
襖の桟。誰かが立って、内側から鍵を回す音。背中で押さえられた畳。拓海の声が、上から降ってくる。
「座ってろ。勝手に立つな」
膝の裏を蹴られて、頬が畳に着いた。翔太が俺の腕を跨いでいる。亮介は黄色い柄の刃を出して、切っ先を俺の頬の横に置いていた。
「誰にも言うなよ。寮に戻れば、また同じ部屋だからな」
そのあと、三人は個室のほうへ戻った。戻って、廊下には俺だけが残された。
俺のスマートフォンは、上着のポケットの中にあった。取り出して、画面を点けて、数字を三つ押すところまで、指は動いた。
かけなかった。
理由を探そうとすると、そこだけが白い壁になる。けれど、かけられなかったのではない。かけなかった。その区別だけは、はっきりしている。
廊下の先で、いちばん奥の蛍光灯が一度だけ点いた。切れかけのような点き方ではなくて、しっかり点いて、また消えた。
その数秒あとに、部屋の電気が落ちた。
*
「三枝さん」
暗がりの中で、汐崎さんが懐中電灯をこちらへ向けた。照らされたのは俺の足元だった。顔には当てない。そういうところが、この人は変に丁寧だ。
「一年前に、飲み会があった」
声が自分のものに聞こえなかった。
「俺が先輩を誘った。店で、俺は途中から覚えてない。覚えてるのは、そのあと三人に殴られたこと。黙ってろって言われたこと」
「うん」
「電話、かけられた。かけなかった」
彼女は何も言わなかった。言わないまま、懐中電灯の光を床に置いた。
俺はスマートフォンを握り直して、今度は最後まで押した。
一一〇番は繋がった。名前と、大学の名前と、寮の名前と、部屋の番号。同室の二人が帰省先で死んだこと、連絡が取れない人間がいること、この部屋にいるのが危ないと思っていることを、順番がめちゃくちゃなまま言った。
向こうの人は、落ち着いて、ゆっくり、同じことを二度訊き返した。そちらに向かう、風の状況で時間がかかる、動かないでほしい――そこまで聞いた。
聞いて、俺は立ち上がっていた。
動かないでほしい。その言葉が、この部屋に留まれという意味に聞こえた。この部屋に留まる。亮介の筆箱と、畳んだ紙と、額の上が無い翔太の写真と、それから、この暗がりの中で俺の足元を照らしている人と一緒に。
ドアへ歩いた。
「待って」
この部屋にいると死ぬ。根拠を並べろと言われたら、一つも並べられない。亮介と拓海は自分の家で死んだ。家の中で、閉めた部屋で。ここを出たところで同じかもしれない。同じかもしれないが、少なくともここには、俺の知らない人間が一人いる。
廊下側のドアを引いた。風が隙間から入って、紙が全部飛んだ。
腕を掴まれた。彼女の両手が、俺の肘の上を挟んで、体ごと後ろへ引く。強かった。細い腕のどこにその力があるのか分からないほど強くて、俺の踵が床を擦った。
もう一方の手が伸びて、ドアが閉まった。
「危ないから」
その声を、俺は最後まで聞かなかった。




