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台風の夜、寮に残ったのは  作者: 空の異変


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第二章 二人分の夕食

 自分の声で起きた。

 叫んだらしい。喉が引き攣れていて、二度目の息がうまく入らない。両手で顔を拭うと、掌が濡れた。汗だ。部屋は明るくて、机の前で椅子が回って、汐崎さんがこっちを見ていた。

「……夢」

「うん」

 それ以上は訊かれなかった。彼女は立って、流しでコップに水を汲んで、俺の枕元の棚に置く。置いてから、一歩下がった。

「手、まだ震えてるね。水、ここに置いていい?」

「……置いといて」

 指先を見た。たしかに、小刻みに動いている。止めようとすると、止まる代わりに肩のほうへ移った。

 翔太に電話をかけた。呼び出し音が十回鳴って、留守番応答にも回らずに切れる。メッセージを送った。既読は付かない。

 二〇四号室の四人だけのグループトークを開いて、全員宛てに投げた。

「誰か出ろ。翔太と連絡つかない」

 五分待った。何も返ってこない。

 久保(くぼ)亮介に電話した。出ない。真壁(まかべ)拓海にもかけた。出ない。あの二人は帰省しているが、そういう問題じゃない。実家に帰ったところで、亮介は日に三十回はこのグループに何か貼るやつだ。拓海は貼らないが、亮介が貼ったものには必ず一言付ける。

 十五分かけて、三人とも沈黙していた。

 このグループが十五分静かなのは、去年の春に作ってから一度も無い。期末のときでさえ、誰かが誰かの答案の写真を貼って、誰かが違うと言っていた。

「電話、みんな出ない?」

「出ない」

「さっきの夢、誰か出てきた?」

 コップの水が、置いた場所からまだ一ミリも減っていない。

「……出てきた」

「そう」

 彼女はそれ以上訊かなかった。訊かない代わりに、開いたままだった窓の鍵を掛けて、カーテンを半分引いた。

 窓の外で、雲の底が下がっていた。大学のポータルに通知が来ている。台風接近に伴い、明日以降、市内を通る一部の路線で計画運休が予定されている――学生は帰省・移動の予定を確認すること。

「翔太、朝の便には乗れたのかな」

「乗るとこは見てない。タクシーまでしか見てない」

 彼女はスマートフォンを何度かスクロールして、指を止めた。

「ネットカフェ、駅前のとこ、台風で明日から閉めるって」

「……そうか」

「大学の、避難所みたいなの、ある?」

「警報が出たら、人が詰めてる場所を開けるはずだ。チューターの人に訊く」

 訊けば、なぜ訊くのかを訊かれる。それも分かっていた。


    *


 夕方、俺は傘を諦めて、寮の下のスーパーへ降りた。

 炒飯の代わりに、半額の弁当を二つ。それから二リットルのペットボトルの六本ケース。台風が来る前に水は買っておけと、去年もどこかで言われた気がする。

 ケースの持ち手は薄いポリ袋のひもで、階段を三階ぶん上がるころには、掌の肉に食い込んでいた。指を組み替える。赤い線が横に一本、残っている。

 この食い込み方を、俺は知っていた。

 去年の夏だ。校外の、離れの個室がある店。俺は同じ姿勢で、ビールの箱を胸の前に抱えて廊下を戻っていた。ひもが掌を切って、指を組み替えて、襖の前で一度、箱を床に置いた。

 誰に頼まれた箱だったか。

 そこは出てこない。出てくるのは、その前のことだ。その飲み会の声をかけたのは、俺だ。翔太が、実行委員会のことで先輩に相談したいから、と言った。俺が頼んだから、瀬川さんは来てくれた。直人くんに頼まれたら断れないな、と笑いながら、支度をして出てきた人だ。

 それから先が、一枚も無い。

 一年生の後期の講義も、正月に食った物も、ちゃんと出てくる。出てこないのは、あの夜の、襖の前から先だけだ。医者はいくつか説明をしてくれたが、俺が覚えているのは、焦らなくていい、という一言だけだった。周りもそのうち何も訊かなくなって、俺も、訊かれないなら思い出さなくていいことにした。

 病院のベッドで目を覚ましたところから、また繋がる。天井の、点検口の四角い線。頭がひどく痛かった。

 見舞いには、三人が代わる代わる来た。

 ――俺らのことは分かるんだろ? あの飯屋は、どこまで覚えてる?

 ――覚えてないって、どこからだよ。店に着いたとこは?

 同じ質問を、順番を変えて、何度も。優しい顔で。答えると、三人とも、少しだけ息の速度が落ちた。あのときは、心配してくれているのだと思っていた。

 ケースを床に置いて、俺は自分の掌を見ていた。

 部屋のドアを押すと、機械の音がした。

 翔太のノートパソコンが机の上で開いていて、汐崎さんは床に座り込んで画面を見ていた。丸鋸か何かが、板と違うものを切る音。画面はほとんど暗くて、切っている場面は映していない。音だけだ。

「ここ、音だけで見せないの。いいでしょ」

「……何、それ」

「『解体小屋の夜』。三枝さん、観たことある?」

 無い。観たくもない。

 音が、昼間の夢の続きを部屋に引っぱり出してきた。額から上の無い翔太が、黒い血を糸みたいに落としながら、早く出ろと言う。

 視線を下げた。彼女の足のそばに、写真が一枚、裏返って落ちていた。拾う。翔太の写真だ。上の段の壁に貼ってあったやつで、本人が自分でいちばん写りがいいと言っていた。

 上の縁が、横に一直線で破れていた。

 額から上が、無い。

 指先が写真の裏に触れた。透明テープが二センチほど、縁に貼り付いたままになっている。それを見たはずなのに、俺の目は破れ口のほうへ戻った。

「それ、剥がしたら破れちゃって」

 彼女は画面のほうを向いたまま、そう言った。

 俺は写真を机に伏せて置いた。心臓の音が、耳の後ろで速くなっている。


    *


「悪い、それ止めて」

 彼女が顔を上げた。

「音を聞くと、さっきの夢が戻ってくる」

 理由を訊かれると思った。訊かれなかった。彼女は手を伸ばして、再生を止めて、ノートパソコンの蓋を閉じる。

「言ってくれれば、止めるよ」

 弁当を二つ、机に並べた。彼女は割り箸の袋を二つに割って、片方を俺のほうへ滑らせた。

 食べながら、決めることを決めた。

 下の段は俺が使う。上は翔太の場所だから、荷物には触らない。彼女は空いている真壁の段の梯子の下に自分の鞄を置く。洗濯機は共用棟にあるが、俺の洗い物には手を出さない。

「触らないよ。人の洗濯物は、勝手に触らない」

「……いや、うん。念のため」

「飯は三枝さんが出してるから、片づけは私」

「別に、そこまで貸し借りにしなくても」

「する。じゃないと、こっちが返せなくなる」

 それで釣り合っているのかどうか、俺には分からなかった。分からないまま頷いた。

 明日の分の食費をどうするかは、まだ決めていない。台風が抜けるまでは店も閉まる。そこまで考えて、有村さんに避難所のことを訊くのは明日でいい、と自分に言い聞かせた。訊いてしまえば、誰がここにいるのかを説明することになる。

 流しは部屋の隅にある。彼女は二人分の弁当の容器を洗って、伏せて、洗剤のボトルを元の位置に戻した。ボトルの底が輪じみを残していて、その輪の中にボトルが収まった。

 布巾で手を拭いて、彼女は水を止めた。

 俺は洗い終わった箸を受け取って、引き出しの、いつもの仕切りに戻した。

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