第一章 枕元の客
上の段の軋みが止まって、梯子に足が掛かった。
音を殺す気のない下り方だ。かかとが一段ごとに鳴って、最後は床へ落ちるみたいに着く。翔太が枕に口を埋めたまま何か言った。たしなめる調子だけは一人前で、中身までは聞こえない。
その少し前から、上では低い声の応酬が続いていた。単語はほとんど拾えなかった。拾えたのは「そんなつもりじゃ」と、「もういい」の二つだけだ。最後に掌で布団を叩く音がして、それから梯子が鳴った。
返事の代わりにサンダルが引きずられ、ドアのラッチが戻り、廊下の足音が遠ざかっていく。
俺はタオルケットの端を顎まで上げたまま、目だけ閉じていた。腹は立っている。立ってはいるが、ここで起き上がって何を言うんだ。暗がりに向かって、そこ、俺が寝てる部屋なんですけど、とでも言うのか。
汐見寮の旧棟、二階の二〇四号室。四人部屋で、夏休みに残っているのは俺と、上の段の榊翔太の二人だけだ。そこへ昨日の夕方、翔太が一人連れてきた。邪魔はしないから、と言っていた。信じた俺が間抜けなだけだ。
共用の洗面所は廊下の反対側にある。戻るまでに一時間近くかかった。何をしていたのかは知らない。知りたくもない。上の段からは、とっくに鼾が降ってきている。
足音が帰ってきて、梯子の前を通り過ぎた。
俺の枕の、横で止まる。
エアコンは効いている。効いてはいるが、旧棟の二階は天井に熱を溜める。タオルケットは腰から下にしか掛けていない。この時期はいつもそうだ。
動かなかった。寝ていることにしておくのが、いちばん角が立たない。起きていると知れたら、向こうだって決まりが悪いだろう。
気配が二歩、近づいた。
顔の高さで、息の音がする。俺のではない。
十分か、十五分か。時計は見ていない。数えていたのは自分の呼吸で、途中から数が合わなくなった。右手がシーツを握り込んでいるのに気づいたのは、指の付け根が痛くなってからだ。力を抜こうとして、抜けない。これでは寝ていないのが丸わかりじゃないか。
やがて梯子が鳴り、上で布の擦れる音がする。
何を見ていたんだろう。
考えないことにして、俺は朝までに三度、浅いところで目を覚ました。この夏はいつもそうだ。
*
「親父が事故った」
朝の廊下で、翔太はそう切り出した。材木を積んだトラックが山道で横転したのだと言う。命に別状はないが、母親が一人ではどうにもならない。実家は電車を乗り継いで半日かかる。
「今日の昼の便で帰る」
「……そりゃ、帰れよ」
「それでさ」
来たな、と思った。翔太が「それでさ」と言うときは、だいたい俺の予定が削られる。
「千夏、置いてってもいいかな」
俺は廊下の手すりに手を突いたまま、二秒ほど黙った。二秒で足りるはずもない。
「よくないだろ。外来者は泊められないって、在寮届の紙に書いてある」
「分かってる。分かってるって。でもあいつ、家に黙って出てきてて、財布に千円くらいしか入ってないんだよ」
「じゃあ連れて帰れ」
「実家に彼女連れてけるか、今」
反論としては筋が通っていた。通っている分だけ腹が立つ。
「頼むって。今日だけ、泊まれるとこが決まるまででいいから」
そこへ、階段のほうから鍵束の音が近づいてきた。値勤中の鍵は重い。束ごと腰で鳴るから、姿より先に音で分かる。
「おはよう。朝から二人で立ち話?」
有村圭吾さん。岬野大学の大学院二年で、この寮のチューターを委嘱されている。首から下げた青いホイッスルが、廊下の外光を弾いていた。巡回のときは必ずこれを着けている。
「在寮届は受け取ってるよ。榊くんも三枝くんも、八月いっぱいだったね」
「あ、はい」
「泊まる人を増やす許可は、僕からは出せないから。そこだけ」
「……分かってます」
有村さんは鍵束を指で回して、廊下の端に並んだ古い植木鉢のほうを見た。
「台風、金曜の夜には来るってさ。あの鉢、風で飛ぶと危ないから、あとで寄せておく」
言って、階段脇の防災箱の蓋を開け、中の懐中電灯を一本取り出して振ってみせた。点いた。箱の中には短いバールも一本入っている。備品室のドアの前を通り、鍵束の音は下へ降りていった。
外廊下には屋根がある。中庭側は柱だけで開いているから、雨の日は床が端から濡れていく。それでも屋根は屋根で、ここと部屋と階段は、ひと続きの同じ建物だ。凪津の夏はその廊下に熱を溜めて、夜まで吐き出さない。
昼前、翔太は本当に行った。寮の裏に有村さんの黒い車が停まっていて、その横をすり抜けて、表通りでタクシーを拾っている。窓は開けなかった。俺が見届けたのは、そこまでだ。
部屋に戻る前に、俺はスマートフォンの連絡先を上から順に繰った。あいつの彼女を今夜どこに置くか、誰か知恵を貸しそうな相手がいないか。同じ学年、サークル、実行委員会。
指が「瀬川 栞」で止まった。
胃の底が持ち上がって、喉の手前で押し返された。唾を飲み込んで、画面を伏せる。何でもない。ただの名前だ。
瀬川栞さんは、一年生のとき、学園祭実行委員会で世話になった先輩だった。やりとりは去年の夏で途切れている。翔太の話では、大学を離れて、誰とも連絡を取りたくないらしい。
俺はその名前を飛ばして、指を下へ滑らせた。
*
部屋のドアを開けると、上の段から下ろされた翔太の枕が、床で殴られていた。
「うそつき。うそつき」
小さな拳が、同じ場所を何度も叩いている。三回目で声が途切れて、四回目で枕を抱え込んで、そのまま動かなくなった。肩だけが上下していた。
俺はティッシュの袋を机の角に置いて、少し離れて立っていた。声をかける言葉が、一つも組み上がらない。
やがて彼女は顔を上げて、袋を二枚引き抜いた。
「汐崎千夏。潮枝島っていう島の出」
「……三枝直人。二年」
「三枝さん」
イントネーションが少し違った。「さん」が下がらないで、平らなまま終わる。島のほうの言い方なんだろう。
「泊まるところは自分で探す。三枝さん、充電だけさせて」
「ああ、そこのコンセント使って」
「あと、昼間は外に出ないほうがいい?」
「出ないほうがいい。寮の人に見つかると、あんたじゃなくて俺が怒られる」
「分かった」
話が早い。翔太の三倍は早い。あいつなら今ごろ、まあまあ落ち着けって、と言いながら何一つ決めていない。
「三枝さんは、いつまでここにいるの」
「八月いっぱい。実家が遠くて、往復するほうが金かかるから」
「同じだ」
「同じじゃないだろ。あんた、ここの学生ですらないだろ」
「別の大学。一年」
「……余計に泊められないんだよ」
彼女は輪ゴムを指ではじいて、それもそうだね、と言った。怒った様子はなかった。
飯はどうする、と訊いたら、島だしそうめんが食べたいと言われた。何だそれ、と訊いたら、焼いた魚で出汁を取って細い麺にかけるだけだ、と返ってきた。材料は寮の下のスーパーで揃うらしい。
乾麺の袋の口を留めていた輪ゴムを、彼女は手首にはめて、そのまま鍋のほうへ行った。
会計は俺が出した。八百六十円。立て替えだからな、と一応言っておいた。
午後、俺は下の段に潜り込んだ。ゲームの起動画面を眺めているうちに、瞼が落ちた。
肩を揺すられている。
強く、短く、何度も。声が耳の横まで来ている。
――直人、起きろ。早くここを出ろ。
翔太の声だ。何だよ、帰ったんじゃないのか。おまえの彼女なら、ちゃんと――
目を開けた。
翔太が俺を覗き込んでいた。額から上が、水平に削がれて無くなっていた。目と鼻と口から、黒い血が糸を引いて落ちてくる。それでも口は動いていて、まだ、早く出ろ、と言っている。




