第九話 月夜の訪問者と優しい嘘
「……ふふ、お腹いっぱいになって寝ちゃったね」
木皿のミルクを綺麗に飲み干した子狼は、僕の膝の上で小さく丸くなり、すやすやと寝息を立てていた。
指先で顎の下を撫でてやると、喉を小さくゴロゴロと鳴らして甘えてくる。その銀白色の毛並みは、まるで月光を織り込んだ絹のように柔らかく、触れているだけで心がじんわりと温かくなった。
「まったく、現金なやつね」
向かいの丸太椅子に座ったアリアが、頬杖をつきながら口元をほころばせる。琥珀色の瞳には、すっかり相棒への愛着が滲んでいた。
「ねえリュート、この子の名前、決めた?」
「うん。……銀色に輝く風の毛並みと、母狼が最期に見せてくれた誇り高い姿から……『ハク』ってどうかな。白銀の『ハク』」
「ハク……うん、いい名前じゃない! 呼びやすいし、この子の毛並みにもぴったりよ」
アリアがそう呼ぶと、眠っていた子狼の耳がピクッと動き、金色の瞳を薄っすら開けて「きゅぅ」と小さく鳴いた。どうやら自分の名前だと気に入ってくれたらしい。
その時だった。
――トントン。
静まり返った夜の小屋に、低く控えめなノックの音が響いた。
僕とアリアの体が同時に跳ね上がる。
「……っ! こんな夜更けに誰よ……?」
アリアが瞬時に気配を消し、腰の短剣に手を伸ばす。
僕は大急ぎでハクを抱き上げ、毛布でくるんで寝台の奥のバスケットへと滑り込ませた。ハクは利口なことに、僕の緊張を察したのか声を潜めてじっとしてくれている。
「だ、だれですか……?」
僕が恐る恐る声をかけると、扉の向こうから聞き覚えのある太いガラガラ声が返ってきた。
「儂じゃよ。夜分にすまんな、リュート」
「……村長!?」
アリアと顔を見合わせる。
慌てて木の閂を外し、重い扉を開けると、そこには厚手の革外套を羽織り、太いトネリコの杖を手にした村長ゴルドが一人で立っていた。
「上がってもよいか?」
「あ、はい、どうぞ……」
村長は静かに部屋に入ると、部屋の中の匂いを一度だけ深呼吸するように嗅ぎ、土間の椅子へと腰を下ろした。
漂うわずかなミルクの甘い匂い。僕とアリアの背中に冷たい汗が伝う。
「二人とも、そう怯えるな。村人たちには内緒でな、旅立つお前たちに渡したいものがあって来ただけじゃ」
村長はそう言って、背負っていた古びた麻袋を机の上に置いた。
中から出てきたのは、丁寧に鞣された上質な鹿革の外套二着と、ずっしりと重みのある革の小袋――旅の路銀だった。
「村長、これは……!?」
「辺境の森は夜になれば骨まで凍みるほど冷える。その外套なら風も通さん。……小遣い程度じゃが、路銀も持っていけ。ルミナ村の大人たちから、旅立つ子どもへの餞別じゃ」
「そんな、受け取れません! 僕たちは村に何も残せていないのに……」
僕が手を引っ込めようとすると、村長は鋭い灰褐色の眼光で僕をじっと見据えた。
「何を言うか。昼間のあの料理……村の年寄りどもが、腰や膝の痛みが消えたと今も涙を流して喜んでおるぞ。あれほどの滋養、金を出しても買えん」
村長はそこで言葉を切り、ふっと目を細めた。
「――もっとも、あれが本当に『洞窟の魔獣の卵』だったらの話じゃがな」
心臓がドキンと跳ね上がった。
アリアが息を呑み、固まる。
「そ、それは……! 正真正銘、洞窟で取ってきた卵で……!」
「誤魔化すな、リュート」
村長は苦笑しながら、煙管に火をつけた。
「儂を誰だと思っておる。この森で五十年、獲物を追ってきた元猟師じゃぞ。あの卵の形、殻の厚み、そしてわずかに残っていた青い斑点……キジバトの卵じゃな?」
完全に、すべて見抜かれていた。
言い逃れはできない。僕が唇を噛み締め、頭を下げようとした瞬間、アリアが前に立ちはだかった。
「……全部、私の差し金よ! リュートを責めないで! 洞窟の銀嶺狼はね、もう死にかけだったのよ! 戦う力なんてなくて、ただお腹の卵を必死で温めてただけだったの! そんなの……殺せるわけないじゃない!」
アリアの悲痛な叫び。
村長は煙をゆっくりと天井へ吐き出し、静かに目を閉じた。
「……そうか。やはり、そうであったか」
怒るどころか、その声には深い哀愁と優しさが滲んでいた。
「近頃、森の奥で上位の魔獣同士の縄張り争いがあったと風の噂で聞いておった。あの誇り高き銀嶺狼が人里に降りてきた理由……手負いの体で、我が子を匿うためだったのじゃな」
「村長……怒らないんですか?」
僕が恐る恐る尋ねると、村長はトネリコの杖をコツンと鳴らして笑った。
「馬鹿者が。誰が怒るか。……怪我を負い、ただ我が子を守ろうとしていた母狼の命を弄ばず、その最期を看取ってやったのじゃろう。そして、残された小さな命を救うために、儂らに頭を絞って優しい嘘をついた」
村長は寝台のバスケットの方へ優しい視線を投げた。毛布の隙間から、ハクが小さな鼻先を覗かせている。
「力に溺れず、弱き命を憐れむ心。それこそが、人が過酷な自然の中で生き抜くために最も尊いものじゃ。……お前たちのその優しい嘘を、儂は村長として、一人の猟師として誇りに思うぞ」
その言葉に、胸の奥がつかえていたものが一気に溶けていくようだった。
アリアの琥珀色の瞳からも、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「さあ、明日の夜明け前には出立するのじゃろう。今夜はしっかり眠りなさい」
村長は立ち上がり、僕とアリアの頭を大きな節くれだった手でぽんと撫でた。
「東の辺境『ヴェルデの樹海』へ行け、リュート、アリア。……そして、そこの小さき狼の幼子もな。お前たち三人なら、きっと素晴らしい居場所を作れるはずじゃ」
扉が静かに閉まり、夜風の音だけが残された。
机の上に置かれた温かい外套と餞別。
僕たちの背中を、故郷の温もりが力強く押してくれていた。
(第10話へ続く)




