第六話 託された命と小さなもふもふ
洞窟の奥に、母狼の浅くかすれた呼吸だけが響いていた。
僕がそっと伸ばした手のひらが、血に汚れた銀の毛並みに触れる。冷え切った体温。傷口からはどす黒い血が滲み続け、もう立ち上がる力すら残されていないのは誰の目にも明らかだった。
「……痛かったよね。怖かったよね」
僕が手を添え、優しく撫でると、母狼はふぅと長い息を吐いた。
手のひらを通じて、僕の身体の奥にある【至高の食卓】の魔力が淡く脈動するのがわかる。このスキルは攻撃の力じゃない。命を慈しみ、糧を分かち合うための力だ。その温かさが伝わったのか、母狼の濁っていた琥珀色の瞳に、安らかな光が灯った。
「グルゥ……」
母狼は最後に僕の手のひらを一度だけ、慈しむように舌で弱々しく舐めた。
そして、抱え込んでいた淡い青白銀色の卵を僕の足元へそっと押し出すと――静かに、その重い瞼を閉じた。
途切れる息。
張り詰めていた空気が抜け、巨大な銀嶺狼は二度と動かなくなった。
「……逝っちゃったわね」
アリアが短剣を握りしめたまま、沈痛な面持ちで歩み寄ってきた。
「あんなに立派な銀嶺狼が、人里の洞窟なんかに降りてくるなんて普通じゃない。きっと、よっぽど酷い傷を負って……それでもこの卵を守るために、必死で逃げてきたんだわ」
「うん……」
僕たちは母狼の亡骸の前にしゃがみ込み、静かに手を合わせた。
手荒に解体して肉や毛皮を取る気なんて、二人とも微塵も起きなかった。洞窟の奥にある柔らかな土を掘り、枯れ草を集めて、母狼の体を丁寧に埋葬した。せめて、我が子の旅立ちを静かに見守れるように。
盛り土の上に野の花を手向け、手を合わせたその時だった。
――ピキッ。
静まり返った洞窟の中に、甲高い硬質な音が響いた。
「え……?」
「リュート、卵……!」
アリアが指差した先。足元に置いてあった青白銀色の卵の表面に、細い亀裂が走っていた。
ピキ、ピキピキッ、と音を立ててヒビは見る見るうちに広がり、卵の内側から淡い白銀の光が漏れ出してくる。
「生まれる……!」
「嘘でしょ、今!?」
パカッ、と乾いた音を立てて殻のてっぺんが割れた。
中から転がり出てきたのは――大人の両手にすっぽりと収まるほど、小さな小さな銀色の塊だった。
「……きゅぅ?」
短くて丸っこい四肢、ふわふわとした綿毛のような銀白色の毛並み。尖った耳をぺたんと倒し、くりくりとした金色の瞳を瞬かせながら、小さな狼の子が僕を見上げていた。
「うわ……ちっちゃ……!」
アリアが思わず声を漏らす。
生まれたての子狼は、おぼつかない足取りでよちよちと歩き出すと、迷うことなく僕の膝の上によじ登ってきた。
そして、まだ生え揃っていない小さな前歯で、僕の人差し指を甘噛みしてきたのだ。
「きゅう、きゅうっ!」
甘えたような甲高い声を上げながら、僕の指をちゅうちゅうと吸い、顔を擦り付けてくる。
「ふふ、くすぐったいよ……。僕のこと、親だと思ってるのかな」
「間違いないわね。最初に見た動くものを親だと思うって言うし……それに、あんたのその手の温もり、さっき母狼を撫でてた時の匂いが残ってるんだわ」
アリアの表情が、狩人のそれから年相応の女の子の柔らかい笑顔へと緩んだ。
「……可愛いわね。もっふもふじゃない」
アリアが恐る恐る伸ばした指先も、子狼は嬉しそうにペロペロと舐める。
けれど、僕たちの顔にすぐに現実の影が落ちた。
「……ねえ、リュート」
アリアが真剣な表情で僕を見つめる。
「村長に出された試練、どうする? 『洞窟の魔獣を倒し、その卵を持ち帰って極上の料理にしろ』って言われてたでしょ」
「うん……」
もちろん、この子狼を差し出す気も、食材にする気も毛頭ない。
けれど、試練を果たせなければ村から出ることを認めてもらえず、東の辺境へ旅立つことも許されない。
「どうにかして、村長を誤魔化すしかないよ」
「誤魔化すって、どうやってよ? 卵がなきゃ納得しないわよ、あの頑固爺さん」
「……卵なら、あるよ」
僕は自分の腰の布袋に手を伸ばした。
洞窟へ向かう途中、低木の茂みの中で見つけた野鳥の巣。親鳥がすでに巣立ち、放置されていた少し大きめの『キジバトの青卵』が、すっぽりと二つ入っていたのだ。
「これを使うんだ。魔獣の卵ってことにして、僕が【至高の食卓】でとびきり美味しく料理する」
「それ、ただの鳥の卵じゃない! 村長、元猟師よ!? バレたらタダじゃ済まないわよ!」
「大丈夫。僕のスキルは、食材の潜在能力を引き出す力だ。普通の鳥の卵でも、僕の手で調理すれば……きっと、誰も食べたことがないくらい美味しくなるはずだから」
それに、と僕は膝の上ですやすやと眠り始めた子狼の頭を優しく撫でた。
「この子を守るためなら、それくらいの嘘、喜んでつくよ」
アリアは目を見張り、それから呆れたように、けれど嬉しそうに小さく吹き出した。
「ふん、言うじゃない。……いいわよ、乗った! あんたがその鳥の卵で奇跡を起こすなら、私は口裏を完璧に合わせてやるわ」
「ありがとう、アリア」
僕は子狼を自分の粗末な麻シャツの胸元へ滑り込ませた。
小さなもふもふの温もりが、トクトクと鳴る僕の胸の鼓動に重なる。
「行こう。村長のところへ」
僕たちは偽りの卵を抱え、小さな命を胸に隠して、試練の待つルミナ村へと歩き出した。
(第7話へ続く)




