第五話 迷いの洞窟と傷だらけの母狼
ルミナ村の北側にそびえる切り立った岩山。
年中立ち込める冷たい霧をかき分けた先に、ぽっかりと黒い口を開けた『迷いの洞窟』の入り口があった。
「いくわよ、リュート。私の後ろから離れないで」
アリアが腰の鞘から狩猟用の抜き身の短剣を抜き、低く身構える。
その全身から、淡い黄金の闘気がゆらりと立ち上っていた。【聖騎士】の力――気配を探る感覚が研ぎ澄まされているのか、彼女の琥珀色の瞳は獲物を狙う鷹のように鋭い。
「うん。……アリア、気をつけてね。村長の話だと、家畜を襲うくらい凶暴な獣なんだから」
「へっちゃらよ。あんたと一緒に辺境へ行くんだから、こんな試練で躓くわけにはいかないわ」
アリアは頼もしく笑ってみせたが、握られた柄の指先にはわずかに緊張の色があった。
洞窟の中は、ひんやりとした湿気と獣の臭いが混ざり合い、足元には剥き出しの岩肌と濡れた苔が続いている。奥へ進むほど道は狭まり、外部の明かりは完全に届かなくなった。僕たちはアリアの微弱な闘気の光だけを頼りに、薄暗い岩肌を撫でるようにして歩を進める。
ぽた、ぽた、と天井から滴る水音だけが不気味に響く。
やがて、洞窟の最奥――少し広くなった空洞へ辿り着いたその時だった。
「――っ! リュート、止まって!」
アリアが腕を横に伸ばして僕を制した。
暗闇の奥、積まれた枯草と獣の骨の山。その中央から、喉を鳴らすような低く苦しげな唸り声が響いていた。
「グルルゥ……ッ、ガハッ……!」
闇の中から現れたのは、巨大な銀白色の毛並みを持つ四足の獣だった。
狼に似た骨格だが、その体躯は成人の倍ほどもある。背中にはうっすらと風を纏うような美しい銀の毛並み――かつて神官長がくれた手帳の記憶が、僕の脳裏をかすめた。王国の山脈に稀に現れるという上位の霊獣、『銀嶺狼』。本来なら、こんな人里近い洞窟に降りてくるような魔獣ではない。
「出たわね……! 私が一撃で――」
アリアが地面を蹴り、黄金の光を纏った短剣を構えて間合いを詰めようとした。
けれど、僕は叫んでいた。
「待って、アリア! 攻撃しちゃダメだ!」
「えっ……!? な、何よリュート、急に――」
アリアが虚を突かれたように足を止める。
巨大な銀嶺狼は、僕たちに対して飛びかかってくるどころか、立ち上がることすらできていなかった。前脚を小刻みに震わせ、濡れた岩肌に横たわったまま、血の混じった荒い息を繰り返している。
僕の【至高の食卓】が、視界の隅にその獣の状態を静かに映し出していた。
――素材看破:銀嶺狼(母個体)。
――状態:致命傷(腹部に古い呪詛傷、内臓破裂寸前)。魔力枯渇。余命わずか。
「……見て、アリア。この子、もう戦えない」
「これ……ひどい傷……」
アリアが息を呑み、短剣の切っ先を下げた。
銀色の美しい毛並みは、赤黒くこびりついた血と泥で見る影もなく汚れ、腹部には何者かに抉られたような生々しい鉤爪の痕があった。傷口は黒ずみ、腐敗の臭いを漂わせている。どこか遠くの魔境で強力な魔獣と戦い、深手を負ってここまで逃げてきたのだ。
「グルゥ……ッ」
銀嶺狼が、濁った琥珀色の瞳で僕たちを見上げた。
その瞳には、人間を殺そうとする敵意はなかった。あるのは、ただただ怯えと、哀願。
母狼は震える前脚で、自分の懐の奥――柔らかな枯草の上に置かれた一つの『卵』を、必死に隠すように抱え込んでいた。
淡い青白銀色に淡く発光する、ダチョウの卵ほどの大きさの魔獣卵。
母狼は自らの冷え切っていく体温を少しでも分け与えようと、最後の力を振り絞ってその卵を抱きしめていたのだ。
「家畜を襲ってたのって……」
アリアがぽつりと呟く。
「自分が生きるためじゃないわ。死にかけの身体で、この卵を温め続けるための体力を……血肉を繋ぐためだったんだ……」
狩人の娘として生きてきたアリアには、その光景の意味が痛いほど分かったのだろう。
彼女はゆっくりと短剣を鞘へと戻し、悔しそうに唇を噛み締めた。
「村長は……この狼を倒して、卵を料理しろって言ったの……? こんなの、できるわけないじゃない……!」
母狼の荒い息が、次第に小さく、浅くなっていく。
僕が一歩歩み寄ると、母狼は警戒するように小さく喉を鳴らしたが、僕の手から立ち上る【至高の食卓】の温かな気配を感じ取ったのか、ふっと力を抜いた。
その濡れた瞳から、大粒の涙がひとしずく、地面へとこぼれ落ちる。
まるで、「この子を頼みます」と祈るように――母狼は僕の足元にそっと鼻先を寄せた。
(第6話へ続く)




