第五十話 晩餐会の幕開けと仕組まれた毒杯
交易都市オルトの夜空に、領主邸から放たれる無数の魔導灯の光が眩く瞬いていた。
大理石の回廊には着飾った大商人や有力貴族、各ギルドの幹部たちが続々と詰めかけ、年に一度の盛宴を前に熱気と歓談の声が満ちている。
その最奥、最高峰の銀食器が整然と並ぶ調理場で、僕は純白の料理着の袖をまくり、手元の銅鍋へ意識を研ぎ澄ませていた。
「きゅうっ……!」
調理台の脇に置かれた専用のクッションの上で、ハクが鼻先をひくつかせながら周囲を見張っている。
首元には、エレナが贈ってくれた藍色の細リボンが巻かれていた。
「リュート、ホールの警備はレムナント家の本隊が固めてるわ。……でも、妙に落ち着かない空気配が漂ってる」
調理場の扉の影から戻ってきたアリアが、声を潜めて耳打ちしてきた。
今夜のアリアは、深紅の狩猟用ドレスに母狼の短剣を忍ばせた、洗練された護衛役の装いだ。その琥珀色の瞳は、宴の華やかさに惑わされることなく、獲物を狙う鷹のように研ぎ澄まされている。
「うん。……ユリウスさんとバルト元副ギルド長、それに王都の騎士団が何か仕掛けてくるはずだ。でも、厨房には誰も近づけさせないよ」
今夜の晩餐会のメインは、ヴォルク卿の快気を祝い、東部商工連合の結束を誓う『樹海の恵みと極上牛の赤ワイン煮込み』。
オルト市場で買い付けた霜降り肉を、樹海の野生姜と霊水で徹底的に下茹でし、世界樹の雫実のジャムを隠し味に溶かした特製ソースでじっくりと煮込んである。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――対象料理:樹海霊水仕込みの極上赤ワイン煮込み。
――素材調律:肉繊維の完全軟化、血液循環の極限活性化。
――付与効果:
・体内毒素の自然排出促進
・内在魔力の瞬間充填
・至高の精神陶酔と活力付与
厨房全体を満たす芳醇な甘みと、肉の香ばしい脂の香気に、手伝いの下級料理人たちすら恍惚の表情を浮かべていた。
その時、大広間へと続く配膳扉が開き、プラチナブロンドの髪を美しく結い上げたエレナが、胸元を抑えながら姿を現した。サファイアのドレスが水面のように揺れる。
「リュート様、間もなくお父様の乾杯の辞が始まりますわ。……お料理の仕上がりはいかがですか?」
「完璧だよ、エレナ様。いつでも出せる」
「まあ……! なんて深みのある素晴らしい香り……! 厨房の外まで、お父様のお客様方が待ちきれない様子で鼻を鳴らしていらっしゃいますわ」
エレナがうっとりと僕の手元を見つめ、そっと歩み寄ってくる。
すかさずアリアが間に入り込み、トレイを盾のように構えた。
「ちょっと、エレナ! 本番直前のシェフを惑わすんじゃないの! あんたは大人しく主賓席に戻ってなさい!」
「まあ、惑わすだなんて! 私は総料理長を激励に参っただけですわ、アリアさんこそエプロン姿のままホールに出て恥をかかないように気をつけてくださいな!」
「なっ……! このドレスは動きやすさを重視した機能美よ!」
「ふふ、野性的でよくお似合いですわ」
火花を散らす二人。
だが、その軽口の応酬を裂くように、配膳室の奥の給仕通路から、冷たい足音が近づいてきた。
「邪魔をするぞ。……料理の最終検分だ」
姿を現したのは、領主の長男ユリウスだった。
豪奢な夜会服を着込み、口元には貴族特有の薄い笑みを貼り付けている。その後ろには、給仕長を名乗る見慣れない男と、白銀の装飾甲冑を着込んだ大柄の騎士が一人控えていた。
騎士の胸元には、赤く縁取られた王宮特務隊の紋章。
「ユリウスお兄様……? 配膳の検分は、すでに家令が済ませたはずですが」
エレナが不審そうに眉を寄せる。
「大事な晩餐会だからな、妹よ。身元の怪しい平民の飯炊きが、万が一にも毒を混入させては、レムナント家の名折れだ。……おい、給仕長。乾杯用の特製食前酒と、メインのソースに異常がないか確認しろ」
ユリウスが顎をしゃくると、給仕長の男が恭しく頭を下げ、銀のトレイに乗せられたクリスタルのデキャンタへと手を伸ばした。
その男の袖口から、微かな金属の摩擦音。
爪の先ほどの極小の琥珀色の小瓶が、指の間に隠されているのを、僕の目が捉えた。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――異常検知:配膳空間における高濃度毒素の接近。
――毒素看破:王宮禁忌薬『黒睡蓮の雫』。
――特性:無色無臭。熱分解せず、摂取後数分で激しい胃痙攣と魔力暴走を誘発。
――対象侵入経路:食前酒デキャンタ、および大鍋の仕上げソース。
(やっぱり、今ここで盛る気だったんだ……!)
僕の料理に毒を混入させ、食中毒の罪を僕に着せる。
そして混乱に乗じて、後ろに控える特務騎士がアリアを「毒殺未遂の共犯」として合法的に捕縛する算段だ。
「おい、何を突っ立っている。早く確認を済ませ――」
ユリウスが急かすように言った瞬間。
「動くな」
冷え切った少女の声と共に、一閃の風が走った。
アリアの短剣の切っ先が、給仕長の男の喉元、皮膚をわずかに押し込む深さでピタリと静止していた。
「ひ、ひぃっ……!?」
男が凍りつき、指の間に挟まれていた極小の薬瓶が、ポロリと床の絨毯の上へと転がり落ちた。
「な、何を血迷ったか、無礼者めが! 我がレムナント家の給仕に刃を向けるとは!」
ユリウスが激昂したように叫び、背後の特務騎士が腰の剣へと手を伸ばす。
「無礼なのはあんたたちの方よ」
アリアは眉一つ動かさず、琥珀色の瞳でユリウスを射抜いた。
「その床に落ちた綺麗な小瓶……中身は何かしら? お父様の快気祝いに、素敵なスパイスでも足してくれるつもりだったわけ?」
「きゅうぅぅっ……!」
ハクがクッションから跳び下り、転がった薬瓶の前に仁王立ちになった。
額の銀紋が淡く輝き、神聖な冷気が瓶を包み込む。紫色の禍々しい瘴気が、瓶の隙間から立ち上り、周囲の料理人たちが息を呑んだ。
「こ、これは……王宮の暗殺用劇薬……!?」
給仕長が膝をつき、ユリウスの顔から完全に血の気が引いていく。
「見苦しい芝居はそこまでです、ユリウスお兄様」
エレナが凛とした足取りで前へ進み出た。
そのサファイアの瞳には、かつて病室で見せた弱々しさは微塵もなく、家督を揺るがす反逆者を断罪する冷徹な光が宿っていた。
「リュート様のお料理に毒を盛り、あまつさえ王都の特務騎士を引き入れてアリアさんを陥れようとするなど……レムナント家の名を汚すにも程がありますわ」
「え、エレナ……貴様、兄に向かって何を――」
「大広間の皆様がお待ちです」
僕は煮込み鍋の火を止め、静かにユリウスと特務騎士を見据えた。
「毒を盛られた偽りの食卓か、命を育む本物の食卓か……。大商人たちの前で、どちらが正しいか決着をつけましょう」
大広間の重厚な扉の向こうから、乾杯を告げるファンファーレが高らかに鳴り響いた。
陰謀の毒杯を砕き、至高の料理が王都の権威を完全に打ち倒す、決着の夜が幕を開けた。
(第五十一話へ続く)




