第四十七話 運河の朝食と裏通りの密談
領主邸での騒動から数日後。
水路を渡る朝風が心地よいテラスに、澄んだ鐘の音がカランカランと鳴り響いた。
『樹海と運河の食卓』の正式なオープン初日。
門扉を開ける前から、石畳の小道には香ばしい焼き立てパンとスープの香りに誘われた市民たちが、整然と列を作っていた。
「おはようございます! 本日の朝食セットは、霊水仕込みの焼き立てクロワッサンと、完熟トマトのポタージュです!」
エプロンを着けたアリアが、快活な声で客をテラス席へと案内していく。
大聖堂で聖騎士の加護を授かった彼女の身のこなしは無駄がなく、トレイを片手にテーブルを回る姿は、すっかり看板娘そのものだった。
「きゅうっ!」
ハクもテラスの入り口にちょこんと座り、訪れる客に頭を下げて愛嬌を振りまいている。
「うわあ、可愛い!」「本当に賢い霊獣さんね」と、街の女性客や子どもたちから撫で回され、誇らしげに喉を鳴らしていた。
ミスリル薪窯の前に立つ僕の手は、休む間もなく動き続けていた。
サクサクに焼き上がった黄金色のクロワッサンに、昨日仕込んだ濃厚なトマトポタージュをカップに注いでいく。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――対象料理:樹海霊水の朝食セット。
――付与効果:
・一日の活動活力向上(大)
・精神疲労耐性
・消化器系の保護と浄化
「うまい……! 一口食べただけで、昨夜の酒の重さが嘘みたいに吹き飛んだぞ!」
「パンの層が信じられないくらい軽いわ! バターの香りとトマトの酸味が完璧よ!」
客席のあちこちから感嘆の声が上がり、運河沿いの一角は瞬く間に温かな活気で満たされていった。
そんな賑わいの中、水辺の船着き場に一艘の小さな屋根付き舟が滑り込んできた。
舟から軽やかに降り立ち、深いフードを目深に被った小柄な少女が、テラスの門扉をくぐってくる。
フードを脱ぎ払うと、朝の光にキラキラと輝くプラチナブロンドの髪と、透き通るようなサファイアの瞳が現れた。
「おはようございます、リュート様! 約束通り、朝一番に参りましたわ!」
満面の笑みを浮かべたのは、領主代行の令嬢エレナだった。
「げっ……! 本当に来たの!?」
トレイを持ったアリアが目を丸くし、即座に僕とエレナの間に割り込んだ。
「お屋敷の令嬢が、こんな庶民のカフェに毎朝通うなんて聞いたことないわよ! 護衛はどうしたのよ!」
「ふふん、屋敷の裏手から小舟を出して、うまく撒いてきましたの」
エレナは胸を張り、いたずらっぽく八重歯を覗かせるアリアに対抗するように、すっと顎を上げた。
「リュート様の朝食をいただくためですもの、これくらいの障害は何でもありませんわ。……さあリュート様、私にもあの美味しそうなスープをいただけますか?」
「え、ええと……はい、どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」
僕がカウンター越しにスープとクロワッサンのセットを差し出すと、エレナは両手で大切そうに器を受け取り、サファイアの瞳をとろけさせた。
「まあ……! 湯気からして、お父様を救ったあの奇跡の香りがいたしますわ……! いただきます」
上品にスプーンを口に運んだエレナの白い頬が、ぽっと紅潮する。
「…………っ! 美味しい……! 外側は羽のように軽くて、中はモチモチ……スープの深いコクがパンに染み込んで、全身が幸せで満たされていきますわ……!」
「ちょっと、大袈裟に悶えないでよ! 他のお客さんが見てるでしょ!」
「大袈裟ではありませんわ! リュート様のお料理は、魂を洗う芸術ですもの!」
朝の光が差し込むテラスで、再び火花を散らす二人。
その微笑ましい光景に、周囲の客たちからも温かな笑い声が漏れていた。
――だが、その平和な光景の裏側。
オルトの貴族街と貧民街の境界にある、薄暗い裏通りの地下酒場で、淀んだ毒のような密談が交わされていた。
かび臭い個室の丸テーブル。
ランプの煤けた灯りに照らされていたのは、謹慎処分を受け、目の下に濃い隈を作った元副ギルド長バルトの青白い顔だった。
「……それで、話とは何ですかな、ユリウス若旦那」
バルトが爪を噛みながら、向かいに座る青年を見据えた。
高級なビロードの上着を羽織り、苛立たしげにワイングラスを揺らしていたのは、領主代行の長男――ユリウス・レムナントだった。
病室で見せていた殊勝な息子の面影は微塵もなく、その切れ長の目は、冷酷な憎悪に濁っていた。
「決まっているだろう、バルト。……あの田舎者の飯炊きガキのことだ」
ユリウスが吐き捨てるように言った。
「貴様の手回しで、親父の食事に『微量魔力阻害毒』を混ぜて半年。……あと半月もすれば、誰にも疑われずに病死として片付き、私がレムナント家の全権を握り、貴様が商人ギルドの筆頭会頭に収まる手はずだったはずだ」
「ぐ、ぬぅ……! そのはずだったのじゃ……! あのクソガキが、世界樹の雫実などという規格外の霊薬を持ち込みさえしなければ……!」
バルトが机を拳で叩いた。
「親父は完全に息を吹き返した。それどころか、妹のエレナの奴め、毎朝あのガキの店へ通い詰めて媚を売っている始末だ。……このままでは、親父の財産と街の利権が、妹とあのガキに流れてしまう可能性まである」
ユリウスは歪んだ笑みを浮かべ、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「幸い、あのガキの連れている赤毛の女……王都から探索要請が出ている『聖騎士アリア』に酷似しているという情報が、王都の特務騎士団から届いている」
「ほ、ほう……王宮騎士団ですか」
バルトの細目が、獲物を見つけた蛇のようにギラリと光った。
「ああ。騎士団の手を借りてあの女を捕縛させ、邪魔な飯炊きガキは裏社会のゴロツキを使って事故に見せかけて始末する。ついでに、あの店にいた妹もスキャンダルに巻き込んで失脚させればいい」
ユリウスは冷酷に言い放ち、ワインを一気に煽った。
「親父が後ろ盾になろうが関係ない。……オルトの影の力を見せつけて、あの小生意気な食卓を、跡形もなく叩き潰してやる」
(第四十八話へ続く)




