第四十五話 奇跡のポタージュと深窓の令嬢
領主邸の広大な厨房は、張り詰めた静寂に支配されていた。
ずらりと並ぶ銀の調理器具の向こうで、邸の料理人たちが不安そうに僕の手元を見つめている。
「本当に、あんな簡単な材料で……? 王都から招いた宮廷料理長殿の極上コンソメですら、一口も喉を通らなかったのですよ」
料理長のおじさんが漏らした言葉に、僕は小さく微笑み返した。
「喉を通らなかったのは、料理が不味いからじゃありません。今の領主様のお腹は、普通の人が美味しいと感じる栄養すら、凶器のように感じてしまうほど弱り切っているんです」
前世の僕がそうだった。
良かれと思って作られた滋養のスープも、弱り切った胃腸には針を飲み込むような激痛でしかなかった。
必要なのは、贅沢な出汁ではない。赤ん坊の産湯のように優しく、ただ生きる力だけを静かに染み渡らせる一杯だ。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――対象料理:世界樹の雫実と霊水仕込みの覚醒ポタージュ。
――素材調律:新玉ねぎの繊維を極限まで分解。刺激物・雑味の完全中和。
――付与効果:
・胃壁粘膜の即時再生(神聖癒やし)
・魔力飢餓の段階的緩和
・拒食拒薬反応の完全沈静
手鍋に注いだのは、樹海から汲んできた『真なる霊水』。
そこへ、極薄にスライスして蒸し煮にした新玉ねぎを加え、木べらで丁寧に裏ごししていく。
仕上げに落とすのは、世界樹の雫実の濃縮エキスをほんの三滴、そして海嶺の白岩塩を指先でひとつまみ。
コトコトと微かな音を立てる鍋から立ち上ったのは、どこまでも澄み切った、甘やかな湯気だった。
余計な脂気は一切ない。けれど、厨房にいた料理人全員が、思わず深く息を吸い込んで涙ぐむほどの、母の腕の中に抱かれたような安心感を宿す芳香。
「……できたよ」
銀の小椀に注いだスープをトレイに乗せ、僕たちは再び最上階の寝室へと戻った。
寝室の扉を開けた瞬間、ベッドの傍らから、鈴を転がすような、けれど切迫した悲鳴が耳に届いた。
「お父様……! お願い、目を開けて……! お父様……ッ!」
ベッドに縋り付いて泣き崩れていたのは、一人の少女だった。
絹糸のように波打つプラチナブロンドの長い髪に、濡れたサファイアのような大きな瞳。豪奢なレースのドレスを纏ったその姿は、絵画から抜け出してきた妖精のように儚く、美しかった。
「エレナ、落ち着きなさい! 料理人殿がスープを持ってきてくださった!」
兄である青年が肩を抱くが、少女――エレナは涙で濡れた顔を激しく振った。
「もうやめて、お兄様! 今まで何十人もの料理人が『滋養に良い』と無理やり口に流し込み、その度にお父様は苦しんで吐き戻されたのよ!? これ以上、お父様を苦しめないで……!」
絶望に染まったサファイアの瞳が、僕の持つ銀の小椀に向けられる。
そこには、大切な家族を失いかけている娘の、悲痛な拒絶があった。
「エレナ様、ですね」
僕は静かに歩み寄り、ベッドの脇に膝をついた。
「お父様を苦しめるつもりはありません。……もしよければ、まずあなたが一口、味を確かめてくれませんか?」
「え……?」
「毒も、刺激も、脂も入っていません。ただ、お父様が『美味しい』と笑ってくれることだけを願って作りました」
僕が差し出した銀のスプーンに、エレナは警戒の色を浮かべながらも、ふわりと鼻腔をくすぐった香りに吸い寄せられるように、おずおずと唇を寄せた。
ちびり、と一滴。
その瞬間、エレナのサファイアの瞳が信じられないものを見るように見開かれた。
「…………っ!?」
エレナの白い頬が、ぽっと桜色に染まる。
「な……なに、これ……? 温かい……身体の芯に、春の光がすーっと溶けていくみたい……苦みも、引っかかりも何もない……こんなに優しい味、生まれて初めて……!」
「お父様にも、きっと届きます」
僕が微笑み、ベッドの上のヴォルク卿の口元へスプーンを運んだ。
浅い呼吸を繰り返す青白い唇に、温かなスープを一滴垂らす。
その瞬間――。
「……ん……っ……」
半年間、昏睡に近い状態で動かなかった男の喉が、ピクリと小さく動いた。
ごくり。
微かな嚥下音。
「お、お父様が……飲み込まれた……!?」
息子の叫び声。
一滴、また一滴と運ぶたびに、男の乾ききっていた唇に血色が戻っていく。
やがて、ヴォルク卿の瞼が震え、濁っていた灰色の瞳が、ゆっくりと光を取り戻して開かれた。
「……う……ま……い……」
掠れた、けれど力強い呟き。
「なん……という……温かさだ……。胃の奥が……生き返る……ようだ……」
「お父様ぁぁぁっ!!」
エレナがシーツに顔を埋め、歓喜の涙を溢れさせた。
半年間、都市の最高権力者を苦しめ続けた死の影が、たった一杯のポタージュによって完全に消し去られたのだ。
「あ、ありがとうございます……! 奇跡の料理人殿……!」
エレナが勢いよく立ち上がり、僕の両手をぎゅっと握りしめてきた。
そのサファイアの瞳には、先ほどの絶望は欠片もなく、熱を帯びた潤みと、隠しようのない憧憬の光が灯っていた。
「私の命を救ってくださったも同然です……! あなたを、ずっとお屋敷にお迎えしたい……私の専属の、特別な方として……!」
顔を真っ赤にしながら、ぐいぐいと顔を寄せてくる深窓の令嬢。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよッ!!」
その時、僕とエレナの間に、鋭い風と共に割って入ってきた影があった。
腕を組み、仁王立ちになったアリアだった。
琥珀色の瞳を三角に吊り上げ、エレナの手から僕の手をパッと引き離す。
「初対面で手を握りすぎじゃない!? リュートはね、私の専属料理人……じゃなくて、私の大事な相棒なんだから! あんたのお屋敷に囲い込ませたりしないわよ!」
「な、なんですの、あなたこそ無礼な! 私はレムナント家の娘として、恩人であるリュート様に最大限の誠意を――」
「誠意を盾に抜け駆けしようとしてるのがバレバレよ!」
バチバチと火花を散らす赤毛の狩人少女と、金髪の深窓の令嬢。
「きゅう~~……」
僕の肩の上で、ハクが前脚で顔を覆い、あきれたように小さくため息を漏らしていた。
(第四十六話へ続く)




