第四十四話 豪商の招待状と領主邸の病室
『樹海と運河の食卓』のテラス試食会から、わずか二日。
運河沿いの小さな洋館の噂は、港湾の労働者や市場の商人たちの口を伝い、野火のような勢いでオルト中に広まっていた。
朝の仕込みを始めようと厨房に立つだけで、生垣の向こうから「今日もあのスープは出るのかい?」「開店は何時からだ?」と、待ちきれない様子の市民たちが声をかけてくるほどだった。
「すごい反響ね、リュート」
アリアがテラスのテーブルを拭きながら、感心したように通りを見やった。
「でも、あんたの言う通り、あまり目立ちすぎるのも考えものかもね。……さっきから、川向こうの馬車から視線を感じるわ」
「きゅう……」
テラスの看板の横で丸くなっていたハクが、微かに耳を伏せて低く喉を鳴らした。
運河の対岸――貴族や大豪商の邸宅が立ち並ぶ高級区画から、豪奢な紋章入りの辻馬車が数台、こちらの様子を伺うようにゆっくりと通り過ぎていく。
その時、洋館の鉄格子の門扉を叩く、遠慮がちだが品のある音が響いた。
「ごめんください。こちらに、リュート様、そしてアリア様はいらっしゃいますでしょうか」
訪れたのは、仕立てのよい燕尾服に白手袋を嵌めた、初老の執事だった。
その後ろには、オルト商人ギルドの紋章旗を掲げた馬車が控えている。
「僕がリュートですが……どなたでしょうか」
僕が前に出ると、執事は深々と、完璧な角度で頭を下げた。
「突然のご無礼をお許しください。私は交易都市オルトの領主代行にして、東部商工連合の筆頭会頭を務められております、ヴォルク・レムナント卿に仕える者でございます」
「領主代行……」
アリアが眉をひそめ、警戒するように僕の半歩前へと立った。
「警戒なさらないでください。本日は他でもなく、我が主より、是非ともリュート様に折り入ってお願いしたい儀がございまして、書状を預かってまいりました」
執事が懐から差し出したのは、銀の箔押しが施された分厚い羊皮紙の封書だった。
封蝋には、レムナント家の家紋である『盾と麦穂』が刻まれている。
手紙を開くと、そこには切迫した筆跡で、こう記されていた。
『街を騒がせる至高の料理人殿。
突然の不躾な願いを許されたい。我が父ヴォルクは、半年前より原因不明の衰弱病に冒され、今や水すらも喉を通らぬ重篤な状態にある。
名立たる宮廷医師や薬師、王都の腕利き料理番を招くも、喉を刺激する固形物や薬をすべて吐き戻してしまい、余命幾ばくもなしと宣告された。
貴殿がギルドに持ち込んだ世界樹の雫実、そして街で振る舞ったという奇跡のスープの話を耳にした。
どうか、我が父のために、一口でも喉を通る滋養の料理を作ってはいただけないだろうか。
対価はいかようにも支払う。レムナント家の全権を懸けて、貴殿らの身の安全を生涯保障することを誓う』
「……衰弱病で、水も喉を通らない……」
文面を読み終えた瞬間、僕の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
かつての僕と同じだ。
前世の僕も、重度の消化管障害とアレルギーのせいで、食べたいという願いを持ちながら、一口の固形物すら口にできずに命を落とした。
食べられない苦しみ。衰えていく身体をただ見つめるだけの絶望。
その痛みが、どれほど残酷なものか、僕はこの世界の誰よりも知っていた。
「……アリア、ハク」
僕が振り返ると、アリアは僕の目を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑んで頷いた。
「行きましょ、リュート。あんたが断るわけないって、顔を見ればわかるわよ」
「きゅうっ!」
ハクも力強く前脚を鳴らし、僕の足元に身体を寄せてくれた。
「執事さん、すぐに準備します。お父様のところへ案内してください」
「おお……! 引き受けてくださいますか! 感謝いたします、至高の料理人殿……!」
執事は涙ぐみながら再び深く頭を下げた。
僕は厨房へ戻り、背負い袋に必要な素材を素早く詰め込んだ。
樹海から持ってきた最高純度の『真なる霊水』。
そして、傷を癒やし生命力を賦活させる『世界樹の雫実の濃縮エキス』。
さらに、市場で手に入れた最も甘みの強い新玉ねぎと、刺激の少ない若葉の香草。
用意を整えた僕たちは、執事の案内で領主の馬車へと乗り込んだ。
馬車は運河を渡り、白大理石の豪邸が建ち並ぶ貴族街の最奥――ひときわ巨大な城館のような領主邸へと滑り込んでいく。
重厚な扉を幾重にも抜け、案内された最上階の寝室。
そこは、重いカーテンで陽光が遮られ、ツンとした薬草の匂いと、淀んだ死の気配が満ちていた。
天蓋付きのベッドに横たわっていたのは、頬がこけ、骨と皮ばかりに痩せ細った初老の男だった。
かつては大商人を束ねる剛毅な豪商だった面影は微塵もなく、青白い唇から浅い息を微かに漏らしている。
「父上……! 街で噂の料理人殿をお連れいたしました!」
ベッドの脇に控えていた若き跡取り息子――手紙の主である彼が、縋るような目で僕たちを振り返った。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――対象看破:ヴォルク・レムナント。
――状態異常:重度魔力飢餓性衰弱、胃腸機能の完全停止、拒食拒薬反応。
――猶予時間:極めて微小。通常の食事・ポーションの摂取はショック死を誘発。
――処方解:刺激度ゼロ、超微細浸透圧の『霊水流動食』による胃壁覚醒。
視界に浮かぶ警告文字。
間に合う。僕の【至高の食卓】と、世界樹の雫実があれば、この止まりかけた命の火を、もう一度灯すことができる。
「厨房をお借りします」
僕は手帳をめくり、確固たる決意を込めて青年に告げた。
「お父様に、世界で一番優しくて、温かいスープを届けます」
(第四十五話へ続く)




