第四十三話 門前の大行列と運河の試食会
洋館の鉄格子の門扉越しに、ざわめきが急速に膨れ上がっていた。
運河を行き交う小舟の船頭も手を止め、石畳の小道を歩いていた市民や商人たちも、まるで抗えない引力に引き寄せられるように足を止めている。
「お、おい……本当にここから匂ってるぞ」
「なんだこの香りは……! 海老の香ばしい匂いなのに、胸の奥がすっと洗われるような清々しさがあるぞ」
「奥のテラスを見てみろよ。何か看板が出てるぞ……『樹海と運河の食卓』?」
門前に集まった人々は数十人を超え、互いに顔を見合わせながら生垣の隙間から中を覗き込んでいた。
「リュート、すごい人だかりよ。どうする?」
アリアがテラスの手すりから身を乗り出し、目を丸くして振り返った。
「まさか、スープを作っただけでこんなに人が集まるなんて思わなかったわね」
「きゅうっ!」
ハクも門前の視線を感じ取ったのか、木製テーブルの上にちょこんと座り直し、ふさふさの尻尾を誇らしげに立てている。
「……うん。元々、街の人たちに味を見てもらおうと思ってたんだ。ちょうど大鍋にたっぷり作ったし、試食会を開いてみようか」
「決まりね! 私、門を開けて案内してくるわ!」
アリアが身軽にテラスを飛び降り、小走りに門扉へと向かった。
カチャリと重厚な鉄の鍵が開けられ、アリアが笑顔で扉を押し開く。
「皆さん、こんにちは! ここは今日から開いた小さなカフェ『樹海と運河の食卓』です! 今ちょうど試作のスープとパンが焼き上がったところなので、よければ味見していきませんか?」
その呼びかけに、門前の群衆から「おおっ!」と歓声が上がった。
「いいのかい、嬢ちゃん!?」
「試食って、あの天国みたいな匂いのやつを食わせてくれるのか!?」
「はい、お一人様一杯ずつ、温かいうちにどうぞ!」
アリアの手際よい誘導で、人々が整然とテラスのテーブルへと詰めかけてきた。
僕は厨房から湯気を立てる大型の銅鍋を運び出し、テラスのカウンターに据えた。
深皿の代わりに、ダグラスから仕入れておいた木製の小椀へ、お玉でたっぷりと朱色のブイヤベースを注ぎ分ける。
仕上げに、ミスリル薪窯で焼き立てのフォカッチャをちぎって添える。
「どうぞ、熱いので気をつけてくださいね」
最初に手渡したのは、荷車を押して汗だくになっていた初老の運搬人だった。
「す、すまねえな、坊主……。じゃあ、遠慮なく……」
男はゴツゴツとした手で椀を受け取り、恐る恐る木のスプーンを口へと運んだ。
ズズッ。
スープが喉を通った、その瞬間だった。
「――っっっ!?!?」
男の目がカッと見開かれ、持っていたスプーンがガタガタと震え出した。
「お、おい、おっさん!? 大丈夫かよ!?」
後ろに並んでいた若者が心配そうに声をかける。
だが、男は返事をするどころか、椀を両手で鷲掴みにし、夢中でスープを啜り始めた。
「んぐっ、……う、うめぇぇぇぇっっ!! なんだこれ、なんだこのスープはぁっ!?」
男は涙をボロボロと零しながら叫んだ。
「海老の旨味が……身体じゅうの血管に染み渡っていくようだ! 朝から重い荷を引いて鉛のように重かった足腰が……痛みが消えて、力が湧いてきやがる……!!」
男は添えられたフォカッチャをスープに浸し、豪快に口へ放り込んだ。
「パンも信じられねえ柔らかさだ! 小麦の甘みとスープのコクが合わさって、噛むたびに生き返るようだ……! こんな美味いもん、生まれて初めて食ったぞ!!」
その尋常ならざるリアクションに、並んでいた人々が色めき立った。
「お、俺にもくれ!」「私にも一杯頼むよ!」
配られる小椀、そして広がる絶賛の嵐。
「トマトの酸味が完璧だわ! 高級貴族街のレストランでもこんな上品な味は出せないわよ!」
「身体が……身体がぽかぽかして、視界が急に明るくなったぞ!? これ、高級な滋養薬草でも入ってるんじゃないのか!?」
「坊主、金なら払う! おかわりはないのか!?」
――スキル発動:【至高の食卓】。
――即席炊き出し効果:集団活力循環。
――付与効果:
・肉体労働疲労の完全消散
・内在活力の底上げ(筋力・気力の一時的向上)
・幸福感の波及(都市市民の好感度上昇)
大鍋一杯にあったブイヤベースと、山盛りのフォカッチャは、瞬く間に最後の一滴まで平らげられてしまった。
テラスを埋め尽くした人々は、空になった椀を名残惜しそうに見つめながらも、その顔には活力と幸福に満ちた笑みが浮かんでいた。
「ごちそうさま、坊主! 明日も店を開けるのかい!?」
「次は銅貨を山ほど持ってくるからな! 絶対に来るぜ!」
満足しきった人々が口々に感謝を述べながら、運河沿いの通りへと散っていく。
彼らが街中でこの味を触れ回るのは確実だった。
「ふぅ……大成功だったわね、リュート!」
片付けを手伝いながら、アリアが誇らしげに額の汗を拭った。
「みんなの顔、見た? あんなに嬉しそうに食べるなんて、あんたの料理はやっぱり魔法よ」
「きゅうっ!」
ハクも足元で誇らしげに前脚を上げ、僕を見上げて目を細めた。
「喜んでもらえてよかったよ。……でも、少し広まりすぎたかもしれないね」
僕が苦笑いしながら運河の先を見つめると、通りの角に、立ち止まったままこちらを凝視している数人の男たちの姿があった。
身なりは裕福な商人の従者。
だが、その眼光は食事を楽しむ客のものではなく、冷徹に獲物を品定めするような鋭さを帯びていた。
至高の食卓の噂は、庶民の胃袋を掴むと同時に、この街を牛耳る『巨大な勢力』の耳にも届こうとしていた。
(第四十四話へ続く)




