第四十二話 運河カフェの開業準備と市場の珍味
白煉瓦の洋館で迎えた初めての朝は、運河を渡る涼やかな風と、水面を滑る小舟の櫂の音で始まった。
樹海の朝とはまた違う、静かで落ち着いた街の目覚め。
「きゅうっ……!」
二階の寝室から駆け下りてきたハクが、一階の陽だまりに飛び込んで前脚を伸ばした。
すっかり新しい我が家が気に入ったようで、ピカピカに磨かれた板張りの床を滑るように駆け回り、僕の足元へ擦り寄ってくる。
「おはよう、ハク。よく眠れた?」
頭を撫でてやると、ハクは喉をゴロゴロと鳴らして僕の指先を甘噛みした。
「ふわぁ……よく寝たわ! ベッドのマットレスが羽根布団みたいに柔らかくて、腰の痛みが完全に消えちゃった!」
階段から降りてきたアリアも、すっきりとした笑顔で伸びをしている。
丸太小屋の毛布も温もりがあって好きだったけれど、やはり一流の調薬師が使っていた洋館の寝具は桁違いに快適だったらしい。
「アリア、午前中のうちに市場へ行ってみない? ギルド長さんが言ってた通り、一階の運河に面したテラスを使って、小さなカフェを開こうと思うんだ」
「カフェ! いいじゃない! 樹海の霊水とあんたの料理があれば、この街で一番流行るお店になるわよ!」
「いきなり大々的にやるんじゃなくて、まずは手頃なスープとパンを振る舞って、街の様子を見たいんだ。それに……この街の市場には、樹海にはなかった食材がたくさんあるはずだからね」
僕たちは手早く身支度を整え、胸元にギルドから授かった『名誉特級仕入れ人証』を忍ばせて、オルトの中央市場へと繰り出した。
朝の市場は、昨日の夕方以上の活気で溢れかえっていた。
石畳の両脇にずらりと並ぶ木組みの露店。
東の海から運ばれてきたばかりの銀色に輝く魚介類、南の砂漠を越えて届いた乾燥香辛料、西の山脈で採れたチーズや燻製肉。
「へい、いらっしゃい! 今朝獲れたばかりのオルト湾の跳ねエビだよ!」
「王都直輸入の極上ワインビネガーはどうだい!」
飛び交う威勢のいい声に、僕の料理人としての血が沸き立つ。
――スキル発動:【至高の食卓】。
視界を走る半透明の鑑定光が、並べられた食材の鮮度や隠れた旨味を次々と暴き出していく。
――素材看破:深紅の鬼殻海老(オルト湾産)。
――鮮度:極上。殻の奥に濃厚な甘みと旨味成分を凝縮。
――素材看破:香草月桂樹の乾燥葉(南部山岳産)。
――品質:優良。煮込み料理の雑味を消し、芳醇な薫香を付与。
「おじさん、その鬼殻海老を一樽と、あそこの月桂樹の葉を一束ください」
「まいど! ……おや、坊主、この海老の良さが分かるのかい? 殻が硬くて料理屋じゃ敬遠されがちだが、出汁を取るにゃ天下一品なんだがね!」
恰幅のいい魚屋の親父が驚きながら、活きのいい海老を木樽に詰めてくれた。
さらに市場を巡り、完熟した黄金トマト、皮が薄くて甘みの強い新玉ねぎ、そして大粒の黒胡椒を買い揃える。
どれも樹海の素材とはまた違う、海の恵みと交易都市ならではの多彩な調味料だ。
両手いっぱいの荷物を抱えて洋館へと戻ると、僕たちはさっそく改装作業に取り掛かった。
といっても、大掛かりな工事は必要ない。
元々テラスに置かれていた重厚な白木のテーブルと椅子を水辺に並べ、日除けの麻布を張る。
アリアが短剣を器用に使って、薄いオーク材の板に看板を彫り上げた。
『樹海と運河の食卓』
「どう? 上手にできたでしょ!」
アリアが胸を張って見せてくれた看板は、素朴ながらも温かみがあり、運河の景観にぴったりと馴染んでいた。
「うん、すごくいいよ。ありがとう、アリア」
「きゅうっ!」
ハクも看板の足元にちょこんと座り、まるで看板犬――いや、看板霊獣のように胸を張っている。
「よし、看板もできたことだし、最初の一皿を作ってみようか。……メニューは『鬼殻海老と黄金トマトの濃厚ブイヤベース』、それに樹海の霊水で捏ねた『焼き立てフォカッチャ』だ」
腕まくりをして、ミスリル薪窯の前に立つ。
新調した大型の銅鍋に油椰子のオイルを熱し、海老の頭と殻を強火で炒める。
パチパチッ!と甲殻類特有の香ばしい煙が立ち上り、そこへ叩き潰した野生姜と新玉ねぎを投入。
さらに、角切りにした黄金トマトと月桂樹の葉を加え、樹海から持ってきた『真なる霊水』を一気に注ぎ込んだ。
――ジュワァァァァッ……!!
白銀の蒸気が排気フードへと吸い込まれ、凝縮された旨味が鍋の中で渦を巻く。
霊水が海老の殻から最後の一滴までエキスを引き出し、スープは鮮やかな黄金がかった朱色へと染まっていった。
仕上げに白岩塩と挽きたての黒胡椒で味を調え、薪窯の残り火でカリッと焼き上げたフォカッチャを添える。
「できたよ!」
深皿に注がれたスープは、表面に透明な油の玉を浮かべ、宝石のように輝いていた。
立ち上るアロマは、海老の暴力的な旨味とトマトの爽やかな酸味、そして霊水がもたらす神聖な清涼感が完璧にひとつになっていた。
「わあぁ……! なにこの匂い、市場で買ってきた海老がこんな化け物みたいな美味しそうな匂いになるの!?」
アリアが待ちきれずにスプーンを伸ばし、朱色のスープを口へ運んだ。
「…………っっっ!!!!」
アリアの瞳がカッと見開かれ、息が止まった。
スプーンを取り落としそうになりながら、口元を押さえて震えている。
「……んぐっ、……う、美味ぁぁぁいっっ!!」
ゴクリと飲み干したアリアが、涙目で叫んだ。
「海老の殻の香ばしさが口の中で爆発したわよ! 濃厚なのに全然くどくなくて、トマトの甘みと混ざって、喉を通るたびに身体の芯がじんわり温かくなってくる……! フォカッチャを浸して食べたら、もう止まらないわ!」
「きゅう~~っ!」
塩気を抜いた海老の身をもらったハクも、目を細めて夢中でペロペロと舐め尽くしている。
けれど、その時だった。
テラスの外――運河沿いの石畳の小道から、ザワザワとした足音が聞こえてきた。
「お、おい……なんだこの匂いは……?」
「川向こうの貴族街から漂ってきてるのか……? いや、あそこの洋館だぞ!」
「あんな美味そうな匂い、王都の一流料理店でも嗅いだことがねえぞ……!」
テラスの生垣の隙間から、通りがかりの市民や商人たちが、吸い寄せられるように洋館の門扉へと群がり始めていた。
至高の香気は、僕たちの小さなテラスに、早くも街中の注目を集めようとしていた。
(第四十三話へ続く)




