第三十九話 開かれた小瓶と驚愕の鑑定眼
白大理石の床に響く嘲笑のさざめき。
バルト副ギルド長は細い目を三日月のように歪め、僕が差し出した陶器の小瓶を鼻で笑った。
「くくっ……粗悪な森の木の実をすり潰しただけの泥ペーストを、この儂に鑑定しろと? 身の程を知りなさい、田舎者の少年。オルト商人ギルドの鑑定料が金貨一枚からだと知っての無礼ですか?」
バルトは扇子をパチンと鳴らし、ギルドの守衛たちへ顎をしゃくった。
「おい、衛兵。この落ち目の行商人と物乞い同然のガキどもを、正面玄関から叩き出し――」
「バルト副ギルド長」
僕は男の言葉を静かに遮り、親指で陶器の小瓶の蝋封を軽く弾いた。
――プチリ。
封が解かれ、コルク栓がほんの数ミリ浮き上がった、その瞬間だった。
――シュゥゥゥッ……!
小瓶の口から溢れ出したのは、ただの湯気ではなかった。
淡い琥珀色の光の粒子を無数に孕んだ、神々しいまでの芳香の奔流だった。
熟成された百花蜜の濃厚な甘み、天上の果実酒のような気品ある薫香、そして何よりも、澱んだ大気を一瞬で清め尽くす圧倒的な『世界樹の霊気』。
その香気がエントランスホール全体へ波紋のように広がった瞬間、先ほどまで騒がしかったギルド本部が、水を打ったように静まり返った。
「……っ!? な、なんじゃ……この匂いは……!?」
「あ、頭の奥の重い疲れが……スーッと消えていく……?」
帳簿を抱えて行き交っていた商人たちが足を止め、吸い寄せられるように僕たちの周りへと視線を向けた。
数秒前まで僕たちを嘲笑っていた受付の職員たちも、口をぽかんと開けたまま、小瓶から立ち上る光の筋を見つめている。
「な、なん……だと……!?」
一番近くにいたバルトの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
扇子を取り落とし、震える指先を自分の喉元へと当てている。
「ば、馬鹿な……! 気化させただけの香気で、儂の古傷の神経痛が和らいだと……!? そ、そんな薬効を持つ植物が、この世に存在するはずが――」
「きゅうっ!」
僕の肩の上で、ハクが誇らしげに前脚を上げ、金色の瞳を輝かせた。
ハクの纏う清涼な風がふわりと広がり、雫実の香りをさらに遠く、ホールの二階吹き抜けへと運び上げていく。
「見立ての通りじゃろう、バルト」
ダグラスが胸を張り、太い腕を組んで前に進み出た。
「これは、樹海を支配していた厄災の元凶が浄化された際、かの神木に実った『世界樹の雫実』の濃縮エキス。そして、かの地に湧き出た真なる霊水じゃ。……お前さんの言う『粗悪な泥ペースト』に、これほどの神気が宿るかね?」
「ぐ、ぐぬぅ……っ! い、いかさまじゃ! 幻惑の魔導具でも仕込んで――」
バルトが動揺を取り繕おうと叫びかけた、その時だった。
「――控えよ、バルト!」
二階の貴賓室へと続く赤絨毯の階段の上から、低く、威厳に満ちた老人の声がホール全体に響き渡った。
階段をゆっくりと降りてきたのは、豪奢な青いローブを纏った白髪の老人だった。
背筋は鉄のように伸び、その胸元にはオルト商人ギルドの最高権威を示す『三つ天秤の白金章』が鈍く光っている。老人の後ろには、数人の上級鑑定士たちが緊張した面持ちで控えていた。
「ギ、ギルド長……!?」
バルトの顔が青から土気色へと変わった。
周囲の商人たちも慌てて左右へ分かれ、深々と頭を垂れる。
オルト商人ギルドの頂点にして、大陸東部最大の富を動かす最高責任者――『黄金眼の鑑定翁』と呼ばれるアルベールギルド長その人だった。
「二階の密談室にまで、澄み渡るような神樹の息吹が届いたぞ。……バルト、お主はその濁った節穴で、この至宝を泥と見誤ったのか?」
「め、滅相もございません! この者たちが、あまりに身なりが卑しく、怪しげな品を――」
「黙らぬか、愚か者めが」
アルベールギルド長はバルトを一瞥しただけで切り捨てると、僕たちの前へと歩み寄ってきた。
その鋭い灰色の瞳が、僕の持つ小瓶、そして肩の上のハクへと向けられる。
「……ふむ」
老人は懐から、外殻に精緻な魔導回路が刻まれた単眼鏡を取り出し、小瓶の口へと覗き込んだ。
――スキル発動:【至高の食卓】。
僕の視界にも、アルベールギルド長の内在魔力と鑑定スキルが、小瓶の成分を読み解こうと激しく火花を散らしているのが見えた。
だが、次の瞬間。
――ピキィィンッ!
パリンッ!
「……っ!?」
ギルド長の手元で、最高精度の魔導単眼鏡のレンズが、耐えきれなくなった魔力負荷によって粉々に弾け飛んだ。
「ギ、ギルド長の単眼鏡が……測定限界を超えて砕けた……!?」
背後にいた上級鑑定士たちが悲鳴のような声を上げる。
アルベールギルド長は、砕けた単眼鏡を気にする様子もなく、震える手で自らの額の汗を拭った。
その厳格だった顔が、まるで純粋な少年のように驚愕と歓喜で紅潮していく。
「……神話の記述は、真実であったか」
ギルド長は深呼吸を一つし、僕とアリア、そしてダグラスを見据えて、厳かに告げた。
「これは間違いなく、かの失われし神木の至宝……『世界樹の雫実』。それも、神域の霊水によって極限まで純度を高められた、国宝に指定されてもおかしくない最高純度の霊薬ペーストじゃ」
ホール中が、息を呑む音で満たされた。
先ほどまで嘲笑っていた商人たちの顔が、一斉に真っ青になって強張る。
「少年よ。……いや、偉大なる仕入れ人殿。これほどの至宝を、一体どこで手に入れたのじゃ?」
ギルド長の敬意に満ちた問いかけに、僕は小さく微笑み、手帳を軽く叩いた。
「僕たちの家……ヴェルデの樹海です」
(第40話へ続く)




