第三十六話 未知なる地平と街道の旅立ち
朝靄の立ち込める樹海の境界線で、僕たちは愛着の湧いた丸太小屋を振り返った。
岩棚の上に佇むその姿は、朝日に照らされて静かに輝いている。湧水池からは清らかな湯気が立ち上り、新緑を茂らせた世界樹が、まるで僕たちの旅路を見守るかのように梢を揺らしていた。
「きゅうっ……!」
僕の肩の上で、ハクが名残惜しそうに一度だけ短く鳴いた。
けれどその金色の瞳には、かつて母を失って震えていた頃の弱々しさは微塵もない。
「大丈夫だよ、ハク。僕たちの家は、この森がしっかり守っててくれる。……美味しいものをたくさん見つけて、また帰ってこようね」
僕が顎の下を撫でてやると、ハクは「くぅん」と喉を鳴らして僕の頬に鼻先を擦り寄せてきた。
「リュート、ダグラスさんが手招きしてるわよ! さあ、出発しましょ!」
街道の脇で、革の胸当てを身につけたアリアが手を振った。
赤銅色のポニーテールが風に踊り、腰には母狼の加護を受けた新しい短剣が差されている。大聖堂を飛び出した日の不安げな少女はどこにもいない。今のアリアは、迷いのない一人の誇り高き狩人だった。
「おーい、二人とも! 荷物の積み込みは完了したぞ! いつでも出立できるわい!」
幌馬車の御者台から、ダグラスが恰幅の良い腹を揺らして手招きしている。
僕たちが持ち込んだのは、最小限の旅装と、清潔な陶器樽に詰めた『樹海の霊水』、そして小瓶に小分けした『世界樹の雫実の濃縮ジャム』だ。
これらは東の交易都市オルトへ乗り込むための、何より貴重な元手となる。
「ダグラスさん、お世話になります」
「何を水臭いことを! あんな神話級の霊果を分けてもらったのじゃ、オルトまでの道案内と護衛くらい、安いもんよ!……さあ、乗りなさい!」
ダグラスが手綱を叩くと、二頭立ての大型輓馬が力強く歩み出し、幌馬車の車輪が街道の土を軋ませて回転を始めた。
樹海を抜けた街道の両脇には、どこまでもなだらかな丘陵地帯が広がっていた。
鬱蒼とした原生林の中で暮らしていた僕たちにとって、視界を遮るもののない広大な青空と、地平線の彼方まで続く草原の風景は、胸をすくほどに新鮮だった。
昼過ぎを回り、太陽が天頂を越えた頃。
馬車は街道沿いの見晴らしの良い丘の頂上で足を止めた。
「ふぅ……馬たちを一休みさせるとしよう。ここらで昼飯にするかの」
ダグラスが息を吐いて御者台から降りる。
「リュート、何か手伝えることはある? 薪なら拾ってくるわよ!」
「ありがとうアリア。でも、今日のお昼は火を使わずにサッと食べられるものを用意してきたんだ」
僕は背負い袋から、今朝の出立前に焼いておいた『樹海霊水仕込みの極上白パン』と、木箱に詰めた具材を取り出した。
「わ……! 今朝の焼き立てパンね!」
アリアの琥珀色の瞳が輝く。
ナイフでふっくらとした白パンの側面に切れ目を入れる。
刃を入れた瞬間、霊水の微細な粒子が引き出した、小麦本来の香ばしく甘い香りがふわりと広がった。
そこに挟むのは、薄切りにした鎧猪の塩漬け燻製肉、そして樹海の外縁部で朝露と共に摘み取ったシャキシャキの野生レタス。
仕上げに、世界樹の雫実のジャムに少量の岩山椒と白岩塩を練り合わせた特製の『甘辛ジュレソース』をたっぷりと塗り重ねた。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――対象料理:霊水白パンの極上街道サンド。
――素材調律:燻製肉の濃厚な塩気と、雫実ジュレの甘酸っぱさが完全調和。
――付与効果:
・旅路の疲労完全回復(小)
・長距離移動に伴う魔力消費の半減
・気候変化への耐性向上
「できたよ! 『樹海の恵みの街道サンド』だ!」
「わあぁぁっ……! いただきまーーす!」
アリアが両手でサンドイッチを抱え、大口を開けてかぶりついた。
サクッ、シャキッ、ジュワァッ!
「…………っっっ!!!!」
一口噛みしめた瞬間、アリアの頬が林檎のように真っ赤に染まった。
モグモグと噛みしめるたびに、その琥珀色の瞳が幸せそうに潤んでいく。
「……んぐっ、……な、なによこれぇぇっ……!?」
ゴクリと飲み干したアリアが叫んだ。
「パンが……耳まで信じられないくらい柔らかくて甘い! 噛むごとに燻製肉のしょっぱい脂がジュワッと溢れてくるのに、雫実の甘酸っぱいソースが全部爽やかに包み込んでくれて……! 何個でも無限に食べられそうよ!」
「ほっほぉ……! これは美味そうじゃな!」
ダグラスにもひとつ手渡すと、大商人は巨大な口でガブリと半分を平らげた。
その瞬間、ダグラスの丸い目が限界まで見開かれた。
「――ぶふぅっ!? な、なんじゃこりゃあぁぁっ!!」
ダグラスは額に汗を浮かべ、喉を鳴らしながら咀嚼した。
「パンのきめ細やかさが王都の最高級ベーカリーを遥かに凌いでおる……! それにこのソース、肉の臭みを消すどころか旨味を百倍に引き立てておるではないか! 街道の野営で、こんな王侯貴族の軽食のようなものが食えるとは……!」
「きゅうっ! きゅうぅ~!」
ハクには、塩気を抜いた柔らかいボイル肉と刻みレタスをパンに挟んだ特製サンドを差し出す。
前脚で器用に押さえながら夢中でハフハフと平らげ、口の周りを真っ白にして満足そうに尻尾を振った。
心地よい風が吹き抜ける丘の上。
美味しいご飯を囲んで笑い合う僕たちを、ダグラスが目を細めて見つめていた。
「……リュート殿、アリア殿。この腕前があれば、交易都市オルトの鼻持ちならない大商人どもも、一瞬でひれ伏すに違いあるまいよ」
「大商人……どんな人たちがいるの?」
僕が尋ねると、ダグラスは喉を潤してから、街道の先――東の地平線を指差した。
「オルトは、大陸中の金と物資、そして権力が渦巻く巨大な商業の都じゃ。食材の価値を正当に見極める者もいれば、平民の持ち込んだ宝を安値で買い叩こうとする強欲なギルド幹部も群れておる。……まあ、お前さん方のこの『本物』の味を前にすれば、どんな謀略も吹き飛ぶじゃろうがな」
青空の彼方、薄っすらと見え始めた巨大な石造りの城壁。
未知なる大地、そして僕たちの食卓を待ち受ける新たな出会いと試練に向けて、馬車は再び滑らかに走り出した。
(第37話へ続く)




