第三十五話 樹海の守護者と広がる地平
商人ダグラスの荷馬車が街道の向こうへと去り、樹海には再び清らかな静寂が戻ってきた。
取引で手に入れた上質な小麦粉や砂糖、そして頑丈な農具の数々は、丸太小屋の貯蔵庫を埋め尽くし、僕たちの生活水準は完全に自給自足のサバイバルから「豊かな定住生活」へと進化を遂げていた。
「よいしょ、っと!」
小屋の南側、日当たりの良い斜面で、アリアが新しい農具の鍬を振るっていた。
脱臼した右腕は世界樹の雫実のポタージュですっかり完治し、その動きには一切の滞りもない。耕された黒々とした土には、ダグラスさんから譲り受けた香草や根菜の種が丁寧に撒かれていた。
「きゅうっ!」
ハクが短い足でトコトコと駆け回り、掘り起こされた土の塊を前脚で器用に均していく。
足裏から微弱な風の魔力を放ち、種の上にふわりと優しい土の布団を被せていく姿は、すっかり頼もしい小さな農夫だった。
「ふふ、ハク、筋がいいじゃない! 将来は一流の開拓狼ね」
「きゅう~~!」
アリアに頭を撫でられ、ハクは目を細めて誇らしげに喉を鳴らした。
僕はテラスの調理台で、手に入ったばかりの上質な小麦粉を捏ねていた。
世界樹の霊水と、油椰子のオイル、そして海嶺の白岩塩をほんの少し。丸めた生地を木鉢に入れ、濡れ布巾をかけて発酵を待つ。
石造りの薪窯の火加減を整え、こんがりと焼き上げれば、前世の病室で夢にまで見た「ふっくらと焼き立てのパン」が、この樹海で初めて完成するのだ。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――対象料理:樹海霊水仕込みの極上白パン(発酵熟成中)。
――素材調律:霊水の微細粒子が小麦のグルテンを完璧に結合。極限の甘みと軽やかな口溶けを付与。
――付与効果:生命活力の持続充填(大)、精神の恒久的な安定。
「よし……あとは焼くだけだ」
手を拭って息を吐いた僕の元へ、汗を拭ったアリアが歩み寄ってきた。
「いい匂いがしてきそうね。……ねえ、リュート」
アリアはテラスの手すりに肘をつき、南の空を見つめた。
新緑の木々の向こう、樹海と平原を隔てる結界樹の彼方には、どこまでも広がる青い地平線が続いていた。
「ダグラスさんが言ってたこと……王都の騎士団が私を探してるって話。あんた、どう思ってる?」
「……うん。正直、少し驚いたよ。でも、アリアが戻りたくないなら、僕たちはここにいればいい」
僕が答えると、アリアは小さく首を横に振って、琥珀色の瞳を真っ直ぐに僕へと向けた。
「私ね、逃げ回るつもりはないわ。……王都の連中がどれだけ焦ってようが、私の居場所はここだし、私の剣はあんたの食卓を守るためにあるんだもの」
「アリア……」
「それにね、この樹海を綺麗にして、森の主を浄化したことで分かったの。……この世界には、王都の狭い権力争いなんかより、もっと広くて、もっと美味しくて、不思議な場所がたくさんあるんだって」
アリアの手が、僕の腰の革手帳へと伸びた。
神官長から託され、今では樹海中の食材やスパイスの記録で半分以上が埋まった大切な手帳。
「あの手帳の白紙のページ……全部埋め尽くしてみたいと思わない? 東の巨大な商業都市、南の海を越えた未開の群島、北の霊峰に眠る幻の調味料……!」
アリアの瞳が、少年のようにキラキラと冒険の光を宿して輝いている。
王宮騎士団の敷かれたレールを蹴り飛ばした少女は、いつの間にか、僕の夢のさらに先を見据えていた。
「……うん、埋めたいね。世界中の美味しい食材を見つけて、アリアとハクと一緒に、世界一の食卓を囲みたい」
「決まりね!」
アリアがニカッと八重歯を覗かせて笑い、僕の背中をバシッと叩いた。
「きゅうぅぅっ!!」
ハクも二人の間に割って入るようにピョンと跳び上がり、前脚を高く掲げて咆哮を上げた。
その背中には、風の翼の残光が誇らしげに輝いている。
大聖堂で「無能の飯炊き」と嘲笑された少年と、「救国の聖騎士」の座を捨てた少女。
そして、母を亡くし命を繋いだ小さな銀嶺狼。
見捨てられた未開の樹海で始まった僕たちの暮らしは、過酷な冬を越え、厄災の元凶を打ち倒し、いまや揺るぎない「我が家」となった。
けれど、それは終わりではなかった。
僕たちの美味なる開拓記は、この樹海を足がかりにして、さらに広大な世界へとその地平を広げようとしていた。
薪窯の奥から、香ばしく甘い焼き立てパンの匂いが立ち上る。
さあ、新しい旅の始まりを祝う、温かな昼食の時間だ。
(第2章・完 / 第3章へ続く)




