第二十九話 黒き神木の祭壇と深淵の咆哮
すり鉢状の盆地全体を覆い尽くす、コールタールのような黒い霧。
踏み出すごとに、足元の灰がボロボロと崩れ、腐った泥水のような嫌な湿り気がブーツの底から伝わってくる。頭上を遮る巨大な神木の枝葉はことごとく枯れ果て、空は不気味な紫色の雲で塗り潰されていた。
けれど、僕たちの身体の表面には、先ほど食べた決戦飯の恩恵――淡く輝く『絶対浄化障壁』が黄金の薄膜となって展開していた。
肌を焼くような死の瘴気が触れた瞬間、パチパチと清らかな音を立てて霧散していく。
「すごい……本当に瘴気の影響をまったく受けないわ」
アリアが短剣を握り直し、引き締まった横顔で前方を睨み据える。
その隣で、母狼の真霊石を受け継いだハクが、背中に透き通るような風の翼の残光を揺らめかせながら、静かに前脚を踏み出していた。
「きゅう……!」
短く、けれど芯の通った決意の鳴き声。
盆地の中央、無数の獣骨が積み上げられた漆黒の祭壇。
そこに鎮座していた『黒蝕竜』が、侵入者の気配を察知して、重々しくその巨大な頭部をもたげた。
ギチ、ギチギチッ……。
黒鉛のように硬質な外殻が軋み、三本に分かれた禍々しい鉤爪が岩盤を深々と抉る。
濁った血のような深紅の双眸が、僕たちを、そして何よりもハクの額に宿る銀嶺狼の光を捉えた。
「――グオォォォォォォッッ!!」
地響きと共に放たれたのは、大気を直接揺るがす破滅の咆哮だった。
突風となって吹き荒れる黒い衝撃波。並みの冒険者ならその威圧感だけで膝を屈し、心胆を寒からしめるところだろう。
だが、僕たちの身体を満たす【至高の食卓】の多項目バフ――全身身体能力プラス二十五パーセント、そして痛覚耐性と精神活性化が、恐怖を完全にねじ伏せていた。
「アリア、いくよ!」
「ええ! 先手必勝よッ!」
アリアが大地を蹴った。
バフの恩恵を受けた彼女の踏み込みは、もはや人間のそれではない。地面が爆発したかのような轟音と共に、彼女の身体は一筋の黄金の光条となって虚空を疾走した。
――ビュンッ!
黒蝕竜の頭上へ瞬時に跳躍したアリアは、背負った狩猟弓へ神聖気を限界まで注ぎ込み、光の矢を番えて放つ。
「貫きなさい――【聖光破弾】ッ!」
放たれた矢は極太の光の槍へと膨張し、黒蝕竜の右目を正確に穿った。
ズドォォォンッ!!
激しい閃光と爆煙が祭壇を包み込む。
だが――煙の奥から現れた巨躯に、致命的な傷はついていなかった。
右目の周囲に展開されていたのは、紫黒色の魔力で編まれた三重の結晶障壁。矢はその障壁を二枚まで砕いたものの、分厚い外殻に弾かれていた。
「ギャルルルァァッ!」
黒蝕竜が怒り狂い、大太刀のような巨大な尾を横薙ぎに振り払った。
空気を裂く重低音。
「アリア、上だ!」
「きゅうぅっ!!」
僕の叫びに呼応するように、ハクが前脚を振り抜いた。
空中にいたアリアの足元に、凝縮された突風の足場が瞬時に生成される。
アリアはその風の足場を蹴ってさらに上空へと跳び上がり、薙ぎ払われた巨大な尾を紙一重で回避した。尾が直撃した背後の巨岩が、まるで豆腐のように粉々に砕け散る。
「ハク、ナイスアシスト!」
アリアは空中で短剣を抜き放ち、落下の勢いを乗せて黒蝕竜の首元へと急降下した。
黄金の神聖気を刀身に極限まで圧縮した一撃。
――ガギィィィンッ!!
硬質な金属同士が激突する甲高い火花が散る。
短剣の刃は、竜の鱗を数センチ切り裂いたものの、骨までは届かない。
黒蝕竜の傷口から噴き出したドス黒い血液が、コールタールのようにアリアの短剣にまとわりつき、黄金の光を侵食しようと蠢く。
「くっ……なんて硬さなの……! 傷口から呪素を吹き出して刃を腐らせようとしてる……!?」
「アリア、一旦引いて!」
黒蝕竜の胸元が、禍々しい紫色の光を放ち始めていた。
体内にある『大呪核』から、高濃度の呪素ブレスを放つ前兆だ。零距離で受ければ、いかに絶対浄化障壁があろうとも障壁ごと吹き飛ばされかねない。
「グルァァァァッ!!」
黒蝕竜の巨大な顎門が開き、紫黒色の光弾がアリアめがけて放たれようとした、その瞬間――。
――ヒュオォォォッ!!
僕たちの頭上から、冷涼で神聖な嵐が吹き荒れた。
ハクだ。
母狼の真霊石の力を完全に覚醒させた銀色の小狼が、黒き祭壇の頂点、神木の太い根の上に立っていた。
ハクの全身を包む白銀の毛並みが、まるで夜空に瞬く星々のように眩い閃光を放つ。
額の三日月形の霊紋から、純粋な風の魔力が渦を巻き、竜の顎門めがけて一直線に吹き降ろされた。
「――ウォォォォンッッ!!」
霊峰の風を統べる、銀嶺狼の真なる神威。
ハクの放った神聖な突風が、黒蝕竜の口内で暴発しかけていた紫黒色のブレスを、喉の奥へと強引に押し戻したのだ。
ドゴォォォォンッ……!!
竜の体内腔でブレスが暴発し、黒蝕竜の巨体が激しく痙攣して横倒しに揺らいだ。
口の端から黒い煙を噴き出し、苦悶の唸り声を上げる。
「今よ、リュート!」
着地したアリアが叫ぶ。
僕の【至高の食卓】が、黒蝕竜の胸元――体内の暴発によって一瞬だけ露出した、禍々しく脈動する『黒き大呪核』の輪郭を鮮明に捉えていた。
あそこだ。
あの核を完全に砕かなければ、このバケモノは何度でも再生する。
僕たちの手に入れた力、ハクが受け継いだ母の祈り、そしてアリアの剣。
森の命運を懸けた決戦は、いよいよ互いの全存在をぶつけ合うクライマックスへと突入しようとしていた。
(第30話へ続く)




