第二十八話 出陣の朝と託された銀の牙
極大のバフ効果を宿したステーキを食べ終えた僕たちの身体には、内側から滾るような熱い活力が途切れることなく巡っていた。
肌を刺すような木枯らしが吹き込んでも、寒さなど微塵も感じない。手足の先まで張り巡らされた魔力は澄み渡り、五感のすべてが研ぎ澄まされていた。
「身体が信じられないくらい軽いわ。……まるで、全身に神聖な鎧を纏っているみたい」
アリアが短剣を握り直し、黄金の闘気を指先に宿らせて小さく息を吐いた。
その隣で、ハクも四肢でしっかりと白砂を踏みしめ、力強く尻尾を振っている。体毛の一本一本が銀色の光の粒子を放ち、以前のような怯えの色はどこにもなかった。
「出発する前に、ひとつだけ寄りたい場所があるんだ」
僕が背負い袋の紐を締め直しながら言うと、アリアは察したように琥珀色の瞳を和らげた。
「あの洞窟ね」
「うん。ハクが生まれた場所……母狼が眠るあの場所へ」
僕たちは丸太小屋の頑丈な木の扉をしっかりと閉ざし、慣れ親しんだ樹海の小道を南西へと進んだ。
かつてルミナ村から逃れるように足を踏み入れ、母狼の最期を看取ったあの天然の洞穴。
立ち枯れた木々を抜け、岩肌の裂け目へと辿り着くと、そこだけは不思議と黒い瘴気に侵されていなかった。母狼が遺した神聖な結界の残滓が、いまもこの空間を清らかに守り続けているのだ。
洞窟の奥、僕たちが母狼を手厚く埋葬した塚の前へ進み出る。
ハクは小走りに塚へと歩み寄ると、前脚を揃え、丸い鼻先をそっと冷たい石の上に押し当てた。
「きゅう……くぅん……」
悲しげに喉を鳴らしながらも、その瞳には凛とした光が宿っていた。
もう、ただ守られるだけの幼い子狼ではない。母の命を奪い、自分たちの安らぎの地を穢そうとする悪意と戦う覚悟を、母へ告げているかのようだった。
その時だった。
塚を覆っていた清らかな白石の間から、カチリと澄んだ音が響いた。
「……え?」
アリアが息を呑む。
石の隙間から、まるでハクの覚悟に呼応するかのように、一筋の銀白色の光がふわりと浮かび上がってきたのだ。
光の中心にあったのは、母狼の鋭く美しい牙から作られたような、三日月形の透き通った結晶石だった。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――素材看破:銀嶺狼の真霊石(母狼の誓い)。
――特性:上位霊獣が命の灯火と引き換えに遺す純粋魔力結晶。
――継承条件:血脈の継承者による強い覚悟。
――付与効果:暴風の加護、神聖気完全同調、霊獣真化の解放。
「母狼が……ハクのために遺してくれていたんだ」
僕が震える手でその結晶石を拾い上げると、石は温かな脈動を帯び、手のひらの中で優しく熱を持った。
「ハク、お母さんからの贈り物だよ」
僕が膝をついて結晶石を掲げると、ハクは力強く「きゅうっ!」と鳴き、自ら額を結晶石へと押し当てた。
パァァァッ……!!
瞬間、洞窟の奥一面が、昼間のような白銀の閃光に包まれた。
結晶石は淡い光の粒となってハクの額へと吸い込まれ、その毛並みの奥深くに溶け込んでいく。
ハクの全身を激しい突風が包み込み、耳の先、四肢の爪、そして鋭い牙が、目に見えて鋭利な神聖気を帯びて輝きを増した。背中には、風の魔力で編まれた透明な翼のような軌跡が揺らめいている。
「すごい……! 母狼の力を、完全に受け継いだのね……!」
アリアが感嘆の声を漏らし、ハクの気高い姿を見つめた。
ハクは一度大きく深呼吸をし、僕とアリアを見上げて、誇らしげに喉を鳴らした。
それは「準備はできたよ」という、相棒からの確かな合図だった。
「よし……行こう、二人とも!」
僕たちは洞窟に深く一礼し、踵を返した。
目指すは樹海の最深部――『深淵の巨木』。
北東へ進むにつれて、木々は完全に生気を失い、空は紫黒色の重い暗雲に閉ざされていく。
足元からはドス黒い瘴気がゆらゆらと立ち上り、皮膚を焼くような死の冷気が吹き荒れていた。
けれど、僕たちの周囲には、先ほど食べた決戦飯の『絶対浄化障壁』が黄金の膜となって展開され、毒霧を一歩も寄せ付けない。
やがて、盆地の最深部を覆う巨大な岩壁を登り切った時。
眼下に広がる異様な光景に、僕たちの息が止まった。
「……あれが……」
アリアが短剣を抜き放ち、前方を睨み据える。
盆地の中央にそびえ立っていたのは、天を突くほどに巨大な、けれど完全に狂気に侵された一本の神木だった。
幹はコールタールのような黒い樹液を滝のように流し、太い根は大地を締め上げて赤黒い脈動を繰り返している。
そして、その神木の根元、無数の骨が積み上げられた漆黒の祭壇の上に――。
大人の背丈の四倍を優に超える、規格外の巨躯が横たわっていた。
全身を分厚い黒蝕の外殻で覆い、三本の禍々しい鉤爪を大地の岩盤に突き立てた、樹海の元凶――『黒蝕竜』の姿があった。
ゴオォォォッ……と、巨竜の鼻孔から漏れ出た黒い息が、周囲の空気を凍りつかせる。
母狼を死に追いやった、憎むべき森の主。
ハクが低く喉を鳴らし、前脚に銀の旋風を宿らせる。
アリアが黄金の闘気を爆発させ、弓の弦を極限まで引き絞る。
そして僕は、手帳と調味料ポーチを握りしめ、二人の背中を支える位置についた。
樹海の運命を分ける戦いが始まろうとしていた。
(第29話へ続く)




