第二十七話 至高の調律と決戦の前夜
狂獣たちの襲撃から一夜が明けた。
防壁の外に散乱していた魔獣の亡骸は、黒い霧となって空気中へ完全に溶け去り、削り取られた丸太の生々しい傷跡だけが昨夜の激闘の痕跡を留めていた。
「きゅうっ……!」
丸太小屋の寝床から、元気な鳴き声が上がった。
ハクだ。昨晩食べた滋養粥のおかげで完全に魔力が回復したようで、銀白色の毛並みに眩い燐光を取り戻し、僕の足元へピョコンと飛びついてきた。
「おはよう、ハク。もう身体は痛くない?」
抱き上げてお腹をくすぐると、ハクは「くぅん」と喉を鳴らして僕の鼻先をペロペロと舐めてくれた。
その温もりに安堵する一方で、僕たちの置かれた状況は一刻の猶予も許されないところまで来ていた。
「リュート、外の水脈……完全に黒い泥水になっちゃったわ」
小屋の外から戻ってきたアリアが、鉄のバケツを置きながら唇を噛んだ。
「あの滝の源流結界が完全に崩壊したんだわ。この岩棚の湧水池も、あと数日で完全に毒水に侵食される。……待っている時間はないわね」
「うん。『深淵の巨木』へ直接乗り込んで、元凶を倒すしかない」
僕は机の上に、神官長からもらった革張りの手帳を広げた。
手帳には、これまで僕たちが歩いて記録してきた食材やスパイスの群生地、そして昨日の狂獣から得た『黒蝕の呪核』の分析データがびっしりと書き込まれている。
「でもアリア、ただ突っ込むだけじゃダメだ。あの巨木の周りは、昨日の狂獣を遥かに超える濃度の瘴気が渦巻いてる。吸い込んだだけで身体が麻痺して、五分と戦えないはずだ」
「……私の【聖騎士】の神聖気でも、長時間防ぎ切るのは難しいかもしれないわね。何か対策はあるの?」
「僕に任せて。そのために、この【至高の食卓】があるんだから」
僕は棚に並べられた素材の数々を台所へ並べた。
商人ダグラスさんから手に入れた、純白に輝く『海嶺の白岩塩』と王都の『乾燥スパイス類』。
ハクが見つけてくれた『油椰子』の黄金オイル。
南の高台で採集した『紅玉蜜桃』と、痺れる麻味を持つ『ヴェルデ岩山椒』。
そして、東の森で手に入れた清涼な『ヴェルデ野生姜』。
――スキル全開:【至高の食卓】。
両手をかざすと、僕の身体から淡い金色の魔力が奔流となって溢れ出し、並べられた食材全体を包み込んだ。
脳内に、膨大な素材の相性と分子構造が滝のように流れ込んでくる。
(ただ美味しいだけじゃ足りない。呪素を分解する神聖気を極限まで増幅させて、二人の肉体と魔力の限界を突破させるひと皿を作るんだ……!)
僕が選んだ主役は、昨晩アリアが狩って保存処理を済ませていた『鎧猪の極上ヒレ肉』。
厚切りにしたヒレ肉に、細かく刻んだ野生姜と岩山椒を擦り込み、繊維の奥深くまで浸透させる。
さらに、紅玉蜜桃の果汁を煮詰めた濃厚なエキスに、白岩塩と王都のクローブを調合した特製ダレを絡ませる。
厚底の鉄フライパンに油椰子の油を熱し、強火で一気に肉を焼き付ける。
ジュワァァァッ……!!
立ち上る煙は、もはや料理の域を超えていた。
甘美な果実の薫香、ピリリと鼻腔を貫く山椒の刺激、そして焦げた肉の暴力的な旨味。それらすべてが黄金の光の粒子となってフライパンの上で渦を巻き、神々しいまでのアロマとなって小屋を満たす。
視界に、これまでに見たこともない虹色の鑑定文字が浮かび上がった。
――至高調律:限界突破調律の完了。
――完成料理:『深紅の蜜桃山椒ステーキ・聖浄仕立て』。
――付与効果(極大シナジー発動):
・対呪素・絶対浄化障壁(中規模瘴気の完全無効化・三時間持続)
・全身身体能力爆発的向上(筋力・敏捷・反応速度+25%)
・内在魔力回路の超活性化(神聖気および風属性威力を倍加)
・痛覚耐性およびスタミナ無限回復(小)
「……できた……!」
大皿の上に盛り付けられた肉は、飴色の艶やかな照りを纏い、まるで宝石のように輝いていた。
肉を切り分けると、溢れ出した透明な肉汁が皿を満たし、立ち上る湯気そのものが淡い光の結界を作っている。
「な、なにこれ……!?」
アリアが息を呑み、琥珀色の瞳を見開いた。
「匂いを嗅いだだけで、身体の奥の魔力が暴れるくらい熱くなってくる……! これ、本当に料理なの……!?」
「うん。僕たちのすべての旅路と、集めてきた森の恵みを注ぎ込んだ『決戦飯』だよ。……さあ、冷めないうちに全部食べて!」
「いただきます……!」
アリアが待ちきれない様子で、肉塊を口へと放り込んだ。
サクッ、ジュワッ。
噛み締めた瞬間、アリアの全身からドッと黄金の闘気が噴き上がった。
「――ッッッ!? んぐっ、…………う、美味ぁぁぁぁいっっ!!」
ゴクリと飲み干したアリアは、歓喜と衝撃のあまり瞳を潤ませて叫んだ。
「お肉が……噛む前から溶けていく! 山椒の刺激と蜜桃の甘さが完璧に一つになって、全身の細胞が沸騰しそうよ! 力が……力が溢れて止まらない……!」
「きゅうっ! きゅうっ!」
ハク用の一皿を差し出すと、ハクも夢中で食らいつき、銀の毛並みを全身発光させながらあっという間に平らげてしまった。背中に小さな風の翼が見えるかのような、圧倒的な霊気の奔流。
「ふふ、これで準備は完璧だね」
僕が笑いかけると、アリアは空になった皿を置き、力強く立ち上がった。
その琥珀色の瞳には、一切の迷いも不安も消え失せていた。
「ええ。これなら負ける気がしないわ。……行きましょ、リュート、ハク! あの森の主を叩き潰して、私たちのヴェルデの樹海を取り戻すわよ!」
手帳と短剣を腰に差し、三人で扉を開ける。
立ち枯れた死の森の彼方――黒い瘴気が渦巻く『深淵の巨木』へ向けて、僕たちは堂々たる一歩を踏み出した。
(第28話へ続く)




