第二十六話 迫る黒蝕の影と拠点の砦
谷あいを脱出し、丸太小屋へ戻った頃には、ハクの小さな身体は完全に熱を帯びてぐったりとしていた。
急ごしらえの寝床に横たえ、湧水で冷やした布を額に当てる。
銀白色の毛並みは汗で湿り、呼吸は浅く荒かった。母の仇への怒りと恐怖をねじ伏せ、上位霊獣としての神聖な嵐を放った代償は、生まれたばかりの幼い身体にはあまりに重すぎたのだ。
「きゅう……くぅん……」
「大丈夫だよハク。もう拠点に戻ったからね」
指先を握らせると、ハクは弱々しく前脚で僕の指を抱きしめ、熱い鼻息を漏らした。
「リュート、ハクの容態は?」
外の防壁の点検を終えて戻ってきたアリアが、手についた泥を拭いながら駆け寄ってきた。
「魔力枯渇と極度の精神疲労だよ。幸い、あの黒い瘴気による直接の汚染はハク自身の風が防いでくれたみたいだけど……早く滋養をつけて休ませないと」
「あんな無茶して……ほんと、小さな聖騎士様ね」
アリアは痛ましそうに眉を寄せ、ハクの背中をそっと撫でた。
僕はすぐにかまどへ火を入れた。
今必要なのは、傷ついた生体魔力を内側から修復し、体力を急速に回復させる食事だ。
ダグラスさんから譲り受けた滋養の高い乾燥穀物と、南の高台で採取した『紅玉蜜桃』の果肉、そして清浄な湧水を使う。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――対象料理:蜜桃と穀物の滋養練り粥(霊獣急速回復用)。
――素材調律:果実糖の即効性エネルギー変換。自己修復を促進。
――付与効果:魔力枯渇の緩和(中)、生体リズムの正常化。
木匙ですくって人肌に冷まし、ハクの口元へ運ぶ。
甘酸っぱい桃の香りに、ハクの鼻先が微かに動いた。薄く目を開け、弱々しく舌を伸ばして粥をペロリと舐めとる。
「……きゅ」
一口、また一口と口に含むたびに、荒かった呼吸が目に見えて穏やかになっていく。毛並みに宿っていた熱が引き、淡い銀の燐光が再びその輪郭を包み始めた。
半分ほど平らげたところで、ハクは安らかな寝息を立てて深い眠りに落ちた。
「ふぅ……よかった。これで一晩眠れば、体力は戻るはずだよ」
「あんたの料理、本当に即効性があるわね。……でも、安心してる暇はなさそうよ」
アリアが立ち上がり、小屋の隙間から外の森へと鋭い視線を向けた。
風が、完全に止まっていた。
そして――。
――ガサリ。
――ギチ、ギチギチッ……。
静寂を破ったのは、無数の足音だった。
それも、通常の獣の足音ではない。樹皮を爪で引っ掻くような硬質な音と、濁った呼気。
丸太小屋の頑丈な防壁の外、木々の暗がりから、赤く濁った無数の光点が浮かび上がってきた。
「……っ、囲まれてる……!?」
「あの滝にいた狂獣の仲間よ! 私たちが核を持ち帰った匂いを追ってきたんだわ!」
姿を現したのは、十数頭に及ぶ森の魔獣たちだった。
巨大な角を持つ大鹿、牙の伸びた野犬、獰猛な大猿――本来なら互いに争い合うはずの生き物たちが、全員同じように全身を黒い呪素で覆われ、理性を失った赤い目で僕たちの丸太小屋を取り囲んでいた。
――環境看破:狂獣群による包囲(局所強襲)。
――敵戦力:中級汚染個体×12。
――防壁耐久度判定:丸太の砦・損傷許容限界まで約二十分。
「あいつら、群れで拠点を潰す気ね……!」
アリアが狩猟弓を背負い直し、腰の短剣を両手に引き抜いた。
「リュート、ハクのそばから離れないで。丸太の防壁の隙間から弓で数を減らす! 突破されたら、私が表に出て全部斬るわ!」
「アリア、無茶だよ! あんな数、一人で相手にするなんて――」
「無茶じゃない! あんたが作ってくれたこの家と、あの子の眠る場所……絶対に踏み荒らさせない!」
アリアの瞳に宿ったのは、狩人の冷徹さと、家族を守るための凄まじい覚悟だった。
彼女は丸太の狭間に弓を構えると、【聖騎士】の黄金の闘気を爆発させた。
――ヒュンッ、ドスッ!!
光を帯びた矢が、先頭の汚染猿の額を正確に撃ち抜く。
だが、狂獣たちは仲間の死骸を平然と踏み越え、地響きを立てて丸太の防壁へと突進してきた。
ドガァァァンッ!!
頑丈に組まれた丸太の壁が、激しい衝撃に軋む。
アリアが作ってくれた強固な木組みと、岩棚の天然の地形がなければ、最初の突進で一瞬にして押し潰されていただろう。
「グアァッ!」
「ギチチチッ!」
防壁の隙間から、黒く変色した凶悪な爪が何本も差し込まれ、丸太を削り取っていく。
アリアは狭間から矢を連射し、次々と魔獣を射倒していくが、敵は痛覚を失っているため、急所を完全に破壊しない限り突進を止めない。
「くっ……キリがないわね……!」
「アリア、これを使って!」
僕はかまどの熾火から、先端を真っ赤に燃え上がらせた太い松明を掴み取り、さらにダグラスさんからもらった『ヴェルデ岩山椒』の粗挽き粉を油椰子の油と一緒に布へ擦り込んだ即席の刺激玉を作り出した。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――即席調律:高濃度山椒油の刺激燻煙。
――効果:嗅覚鋭敏な獣類に対する極大の感覚麻痺・気管破壊。
「防壁の隙間から投げ込むよ!」
火をつけた油布を、丸太の隙間から群がる魔獣の足元へと放り投げた。
ボワッ!と立ち上った白煙が、山椒の暴力的な辛味成分を帯びて外の空間へ充満する。
「ギャオォォォッ!?」
「フシャァァッ!」
突進を繰り返していた狂獣たちが、鼻孔と目を激しい激痛に焼かれ、狂乱して互いに噛み合い始めた。足並みが完全に崩れる。
「ナイス、リュート!!」
アリアは閂を外し、分厚い扉を一瞬だけ押し開けて外へと躍り出た。
黄金の光を纏った神速の連撃が、混乱した魔獣たちを次々と薙ぎ払っていく。
数分後。
最後の狂獣がドスンと地に倒れ伏し、防壁の外は再び静寂に包まれた。
「ハァ……ハァ……ッ!」
血振りを済ませたアリアが小屋へと戻り、背中で扉を閉めて閂を下ろした。
服は煤と泥で汚れ、右腕の筋肉が微かに震えている。
撃退には成功した。
けれど、丸太の壁には無数の深い爪痕が刻まれ、周囲の森からは依然として冷たい瘴気の匂いが漂っている。
「……森の奥のやつ、本気で私たちを消しに来てるわね」
アリアが短剣を床に置き、荒い息を吐きながら呟いた。
「うん。……あいつの手下は樹海中にいる。待ってても、じり貧になるだけだ」
僕は眠るハクの頭を撫で、手帳を強く握りしめた。
もう防衛だけでは生き残れない。
森の主が潜む『深淵の巨木』へ攻め込み、元凶を直接叩き潰すための、究極の準備が必要だった。
(第27話へ続く)




