第二十五話 ハクの咆哮と母の記憶
「ガァァァァッ!!」
鼓膜を劈くような咆哮と共に、黒蝕の狂獣が泥水を蹴り上げた。
崖下の盆地から、重力を無視するかのような凄まじい跳躍力で、僕たちが立つ崖の上へと一気に肉薄してくる。
飛び散る泥水からは、ツンと鼻を突く強烈な腐敗臭と、母狼の傷口から漂っていたあの呪詛の匂いが立ち込めていた。
「ハク、リュートから離れないで! ここは私が食い止める!」
アリアが前に踏み込み、黄金の闘気を弓に宿らせて弦を引き絞る。
――ヒュンッ!
放たれた神聖な光の矢が、空中で狂獣の胸元を正確に射抜いた。
ギャンッ!と硬質な金属音が響き渡る。
だが、狂獣は怯みすらしない。胸に矢が突き刺さったまま、痛覚を失った真っ赤な瞳を濁らせ、丸太のような太い前脚をアリアめがけて振り下ろした。
「くっ……痛覚遮断と呪詛の硬化皮膜……ッ!?」
アリアは身を捻って紙一重で爪撃を躱すが、抉り取られた足元の岩盤が粉々に砕け散る。
着地した狂獣の巨体から、ドス黒い瘴気の霧が波のように周囲へ噴き出してきた。触れた低木が一瞬で黒く萎縮し、枯れ葉が灰となって崩れ落ちていく。
「きゅう……っ、くぅぅ……」
僕の足元で、ハクがその濁った黒い霧を見つめ、全身の毛を逆立てて小刻みに震えていた。
金色の瞳に宿るのは、底知れぬ恐怖。
まだ目も開いていなかった卵の殻越しに、母の命が冷たく失われていくのを感じていたあの日。あの暗闇の中で嗅いだ、死と呪いの匂いそのものだったからだ。
「ハク……!」
僕が抱き上げようと手を伸ばした、その時だった。
――ピキィンッ!
ハクの耳が、何かに弾かれたように跳ね上がった。
「きゃあっ……!?」
視線の先で、狂獣の猛攻を短剣で受け止めていたアリアが、力負けして数メートル後方へ吹き飛ばされていた。
受け身を取って着地したものの、右腕の袖が裂け、足元の枯れ草に膝をつく。
狂獣は唾液を撒き散らしながら、無防備になったアリアへ向けて牙を剥き出しにし、突進の体勢に入った。
アリアが、やられる――。
そう思った瞬間、僕の足元から、眩いばかりの銀色の光が爆発した。
「――グルルルルァァァァッッ!!」
それは、子犬の甘えた鳴き声などではなかった。
かつて霊峰に君臨し、神聖な嵐を統べていたとされる上位霊獣――『銀嶺狼』の威厳に満ちた、魂の咆哮だった。
ハクは自らの震えを噛み殺すように大地を強く蹴り、アリアの前へと飛び出した。
その小さな身体を、純白の旋風が包み込む。
ハクが短く頭部を振り抜くと同時に、圧縮された突風の刃が、十数条の銀色の軌跡を描いて狂獣の顔面へと叩きつけられた。
――ズババババッ!!
「ギャオォォォッ!?」
ハクの放った風魔法は、単なる物理攻撃ではなかった。清らかな霊気を含んだその嵐は、狂獣の全身を覆っていた黒い瘴気の皮膜を、バリバリと激しい音を立てて吹き飛ばし、剥ぎ取ったのだ。
視界を奪われ、守りの呪素を剥がされた狂獣が、たまらずよろめいて隙を晒す。
「……ハク……!」
立ち上がったアリアの琥珀色の瞳に、驚愕と、それ以上の熱い闘志が宿った。
「よくやったわ、ハク……! あんたが作ってくれた隙、無駄にはしない!」
アリアの全身から、これまでにない眩い黄金の神聖気が吹き上がった。
短剣の刀身が光の刃となって三倍近くまで伸びる。
【聖騎士】の奥義――。
「これで、終わりよッ!!」
閃光のような踏み込み。
すれ違いざまに放たれた神速の一閃が、狂獣の首元を光の軌跡で薙ぎ払った。
――ドサリ。
巨体が砂埃を上げて崩れ落ち、やがて動かなくなった。
切り裂かれた傷口からは、黒い泥のような血と共に、紫色に濁った蒸気がシューシューと音を立てて大気中へと霧散していく。
「ふぅ……っ、ふぅ……!」
短剣を収めたアリアが、肩で息をしながらハクの元へ駆け寄った。
「ハク……! あんた、本当にすごいわ! あんな強い風、どこから出したのよ……!」
「きゅう……くぅん……」
先ほどまでの勇ましい姿はどこへやら、限界まで魔力を使い果たしたハクは、ふらふらとおぼつかない足取りで僕の足元へ倒れ込んできた。
抱き上げると、小さな心臓が早鐘のように激しく脈打っている。
恐怖で震えながらも、大切な仲間を守るために、母の仇への本能的な怒りを力に変えて戦ったのだ。
「ありがとう、ハク……。本当によく頑張ったね」
胸元に抱きしめて頭を撫でてやると、ハクは安心したように小さく息を吐き、僕の服に顔を埋めた。
「リュート、見て。こいつの体内から、こんなものが……」
アリアが短剣の先で指し示したのは、消滅しかけた狂獣の心臓部から転がり出た、拳大の黒ずんだ鉱石だった。
ドクン、ドクンと、まるで生きているかのように脈動し、禍々しい紫色の光を放っている。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――素材看破:黒蝕の呪核(中級汚染核)。
――特性:生命力を強制的に奪い、宿主を呪素の傀儡に変貌させる触媒。
――汚染経路:樹海最深部『深淵の巨木』より魔力ラインが直結。
――調律判定:現在の調味料・調理法では解毒・中和不可。
「……アリア。この魔獣は、ただ凶暴化しただけじゃない」
僕は手帳を取り出し、黒い核のスケッチと共に警告の文字を走らせた。
「森の最深部にある『深淵の巨木』……そこにいる何者かが、この呪核を使って樹海全体の生き物を手下に変え、水源を腐らせようとしてるんだ」
「やっぱり、大元がいるのね」
アリアは谷の奥、重く立ち込める黒い雲を見つめ、キッと口元を引き結んだ。
「あのバケモノを倒さない限り、森の侵食は止まらない。私たちの拠点も、ハクの未来も守れないわ」
「うん。……でも、今の僕たちじゃ、あの黒い瘴気の中に入っただけで身体が蝕まれちゃう。戦う前に、まず僕たちの拠点で『準備』を整えよう」
手帳に記された未知の素材、そして僕の【至高の食卓】。
母狼の無念を晴らし、樹海の平穏を取り戻すため――僕たちは未知なる「対呪詛の神バフ飯」の完成へ向け、強い決意を胸に一度拠点へと引き返すのだった。
(第26話へ続く)




