第二十四話 侵食される水源と死の森
夜明けの冷気が、丸太小屋の頑丈な木の扉を叩いていた。
普段なら梢の間から小鳥たちの澄んださえずりが響き渡る時間帯だというのに、今朝の森は、耳を塞ぎたくなるほど異様な静寂に包まれていた。
「……アリア、起きてる?」
僕が身を起こして小声で尋ねると、すでに身支度を整えて狩猟弓の弦を確かめていたアリアが、険しい顔で振り返った。
「ええ。……鳥も虫も一匹も鳴いてないわ。風が止まって、森全体が息を殺してるみたい」
「きゅうっ……」
毛布の隙間から這い出してきたハクが、尖った耳を後ろへ倒し、落ち着かない様子で部屋の中を小走りに往復している。足裏に纏う風の魔力が、チリチリと乱れた火花のように散っていた。
昨晩、アリアと交わした約束。
東の谷のさらに奥――あの禍々しい三本爪の痕跡を残した元凶の影。
何かが、確実に動き始めている。
「リュート、水場の確認に行きましょ。拠点のすぐ脇の湧水池……あそこは樹海全体の水脈と繋がってるはずよ」
「うん、すぐ行こう」
僕たちは小屋の扉を開け、岩棚のテラスの脇にある天然のプールへと駆け寄った。
いつもなら水晶のように澄み渡り、底の白砂までくっきりと見通せるはずの湧水。
けれど、水面を覗き込んだ僕たちの喉から、同時に息が詰まった。
「……っ、そんな……!」
「嘘でしょ……水が……」
清らかだった水底から、湧き出る水泡と共に、ドス黒い油のような濁りがゆらゆらと立ち上っていた。
水面には虹色の毒々しい油膜が浮き、周囲の岩肌にびっしりと生えていたはずの鮮やかな青苔が、触れた端から黒ずんで腐敗臭を放っている。
胸の奥で、【至高の食卓】が警鐘を鳴らすように激しく熱を帯びた。
――環境看破:清流の岩棚(水質崩壊)。
――水源清浄度:著しく低下(猛毒性呪素の混入)。
――食卓適性:不可(飲用・調理完全厳禁)。
――汚染源:北東三キロ地点・樹海の源流結界における中規模破壊。
「水脈の上流がやられてる……! このままじゃ、僕たちの拠点の水まで完全に毒水になっちゃうよ!」
「あいつよ……! あの神木をへし折ったバケモノが、水脈の元凶を直接穢しにかかってるんだわ!」
アリアが短剣の柄を握りしめ、琥珀色の瞳に猛烈な怒りの炎を灯した。
「きゅうぅぅっ!!」
その時、岩肌の上に飛び乗ったハクが、北東の空を睨みつけて甲高い咆哮を上げた。
小さな身体を限界まで膨らませ、銀白色の毛を逆立てている。その双眸は、いつもの愛らしい甘えん坊の光ではなく、かつて母狼が見せたような、侵略者を決して許さない『霊獣の誇り』に燃え盛っていた。
「ハク……案内してくれるの?」
「きゅうっ!」
力強く一度頷くと、ハクはテラスの岩肌を蹴り、北東の原生林へ向けて矢のように走り出した。
足元から巻き起こる鋭い突風が、腐りかけた苔の臭気を吹き飛ばしていく。
「行くわよ、リュート! 遅れないで!」
「うん!」
僕たちは武器と手帳を握りしめ、ハクの背中を追って森の奥深くへと踏み込んだ。
進むにつれて、周囲の景色は目に見えて変貌していった。
青々としていた大木はことごとく葉を落とし、炭のように黒く立ち枯れている。地面に堆積した腐葉土は乾ききった灰へと変わり、踏みしめるたびにジャリジャリと不快な音を立てた。
生命の息吹に満ち溢れていたヴェルデの樹海が、まるで巨大な墓場のように死に絶えていく。
「……ひどい……」
昨日まで手帳に記していた甘い果実や香草の群生地も、黒い瘴気に覆われてドロドロに溶け崩れていた。
自然の恵みを侮辱し、食卓のすべてを奪い去るような暴力的な腐敗。
料理人として、この世界で美味しいご飯を愛する者として、僕の胸の奥底からも、これまでにない激しい怒りがフツフツと湧き上がってくるのを感じた。
やがて、巨木が折り重なるように倒れた天然のバリケードの先。
開けた盆地を見下ろす崖の上に辿り着いた時、ハクがピタリと足を止めた。
「……あれが、源流の結界の滝……?」
崖の下を覗き込んだアリアが、息を呑んで呟いた。
そこには、かつて壮大な滝が注ぎ込んでいたであろう、巨大な神聖湖があった。
けれど今、滝から流れ落ちているのは水ではない。泥水とコールタールが混ざり合ったような、ドス黒い呪詛の奔流だった。
湖の中央には、白骨化した巨大な魔獣の死骸が幾重にも積み上げられ、禍々しい紫色の霧が天へ向けて立ち上っている。
そして――。
その黒き湖のほとりに、異様な存在感を放つ影が蠢いていた。
「……グルルルルァァ……ッ!!」
地響きのような唸り声と共に、漆黒の霧を切り裂いて現れたのは、巨大な牙を持つ魔獣の成れの果てだった。
全身の毛皮が剥がれ落ち、筋肉の繊維が黒い呪素によって異常に膨張している。瞳は濁った赤色に発光し、理性など欠片もない殺戮の狂気を撒き散らしていた。
――対象看破:黒蝕の狂獣(汚染体)。
――脅威度:特級危険種。
――状態:呪詛による生体暴走、痛覚遮断、膂力三倍化。
「瘴気に呑まれて狂暴化した魔獣ね……! 元凶の手下ってわけ!?」
アリアが弓を引き絞り、黄金の闘気を爆発させる。
けれど、狂獣の濁った視線は、すでに崖の上の僕たち――何より、銀白色の光を放つハクの姿を狂気に満ちた眼で捉えていた。
樹海の平穏は完全に破られた。
母の命を奪った元凶が放つ刺客を前に、僕たちの拠点を、そしてこの森の未来を懸けた戦いが、いま幕を開けようとしていた。
(第25話へ続く)




