第十七話 樹海の境界と迷い込んだ商人
丸太小屋の屋根から立ち上る燻製の煙が、夕暮れの淡い空へと溶けていく。
拠点となる小屋が完成し、魚や肉の保存食の仕込みを終えた翌朝。僕とアリアは、樹海の外縁部へと足を伸ばしていた。
目的は、生活に必要な「塩」の探索だ。
王都を出る際に持ってきた塩の残量が心許なくなってきたため、神官長の手帳を片手に、岩塩が採れそうな露出した岩肌を探してマッピングを広げていたのだ。
「きゅうっ、きゅう」
僕の肩の上で、ハクが風の匂いを嗅ぎながら鼻先をピコピコと動かしている。
「ハク、そっちは何があるの? しょっぱい匂い、する?」
「さすがにハクでも塩の匂いは難しいんじゃない? ……でも、この辺りは樹海の境界近くだから、街道に近いし魔獣の気配も薄いわね」
アリアが短剣の柄に手を添えながら、木々の隙間から差し込む日差しに目を細めた。
ヴェルデの樹海と平原を隔てる、巨大な結界樹の立ち並ぶ境界エリア。街道から外れた商隊が、稀に近道として掠めていくような場所だ。
その時だった。
――ピキィッ!
ハクの耳がピンと直立し、肩から僕の首元へと潜り込んだ。
同時に、森の静寂を切り裂くような悲鳴と、獣の濁った咆哮が木霊した。
「――っ、何だ!?」
「街道の近くだわ! 誰か襲われてる!」
アリアの表情が瞬時に狩人のそれへと引き締まる。
彼女は地面を一蹴すると、淡い黄金の闘気を身に纏い、風のような速度で低木の茂みを飛び越えていった。僕もハクを胸元に抱え込み、アリアの背中を追って全力で走る。
木立を抜けた先、少し開けた獣道で目撃したのは、横倒しになった一台の荷馬車だった。
車輪がへし折れ、散乱した木箱の周りを、体長二メートルを超える二頭の魔獣が取り囲んでいる。
硬質な外殻と巨大な牙を持つ、樹海の肉食獣『鎧猪』だ。
「ひ、ひぃぃっ! 誰か、誰か助けてくれぇぇっ!」
ひっくり返った馬車の下で、太った中年の男が頭を抱えて震え上がっていた。商隊の護衛らしき傭兵はすでに吹き飛ばされ、気絶して倒れている。
鎧猪の一頭が、血走った目を剥き出しにして、男めがけて突進の構えを取った。
「そこまでよッ!」
響き渡る凛とした少女の声。
頭上の太い枝から、アリアが音もなく宙へと舞い降りた。
黄金の光を帯びた狩猟弓が、限界まで引き絞られる。
――ヒュッ、ドスッ!!
放たれた一本の矢は、分厚い鎧猪の眉間を正確に貫通した。
巨体が断末魔の叫びすら上げられずにドスンと砂埃を上げて崩れ落ちる。
「グオォッ!?」
仲間の死に気づいたもう一頭の鎧猪が、怒り狂ってアリアへ狙いを定めた。丸太のような太い突進が、地響きを立ててアリアへと迫る。
「アリア、危ない!」
「甘いわ!」
アリアは避けるどころか、真っ直ぐ前に踏み込んだ。
腰の短剣を抜くと同時に、【聖騎士】の神聖な闘気が刃を黄金に染め上げる。
突進の軌道を紙一重でかわし、すれ違いざまに横薙ぎの一閃――。
――ズバァァァンッ!!
硬い外殻ごと、巨体が真っ二つに両断されていた。
ドサリ、と転がる二頭目の魔獣。
アリアは短剣の血糊を鋭い手首の返しで払い落とすと、フゥと息を吐いて鞘に収めた。
戦闘時間、わずか数秒。圧倒的で無駄のない、完璧な神速の狩猟だった。
「……す、すごい……」
僕が息を呑んで駆け寄ると、アリアはいつもの八重歯を覗かせてニカッと笑った。
「ふふん、この程度の猪、私の敵じゃないわよ!」
「きゅう~!」
ハクも僕の胸元から顔を出し、アリアの武勇を称えるように短く鳴いた。
「ひ、ひぃ……た、助かった……のか……?」
馬車の下から、泥だらけの男が恐る恐る顔を出した。
仕立ての良い上着を着た、小太りで人の良さそうな中年男性――行商人のようだ。
彼は両断された鎧猪の巨体と、弓を手にした十二歳ほどの少女の姿を交互に見比べ、目を白黒させて顎をガタガタと震わせた。
「お、お嬢ちゃん……まさか一人でこの鎧猪を……? 王都の上級冒険者でも手こずる森の暴れん坊を、一瞬で……!?」
「怪我はない? おじさん」
アリアが手を差し伸べると、商人は腰を抜かしたままペコペコと何度も頭を下げた。
「あ、ああ、怪我はない! 助かった、本当に助かったよ……! 近道しようとして森に迷い込んでしまってな……この御恩は一生忘れん! 儂は王都と東の商業都市を行き来している商人、ダグラスという者じゃ!」
ダグラスと名乗った商人は、気絶していた護衛の青年の息があるのを確認し、深く胸を撫で下ろした。
けれど、馬車の車軸は無残に折れ、積まれていた荷物の樽や木箱が転がっている。日暮れが近づく中、この場所で立ち往生するのはあまりに危険だった。
「車軸が折れちゃってるね……直すのはすぐには無理そうだ」
僕が馬車の損傷を確認して呟くと、ダグラスは顔を真っ青にして頭を抱えた。
「ああ……なんということじゃ……。護衛の彼も動けそうにないし、この森で夜を越すことになったら、今度こそ魔獣の餌になってしまう……!」
「おじさん、それなら僕たちの拠点においでよ」
僕の提案に、ダグラスは驚いて顔を上げた。
「拠点……? こんな樹海の中に、ねぐらがあるのかね!?」
「ええ。頑丈な丸太の壁もあるし、魔獣が寄りつかない安全な場所よ。……そこで護衛の人を休ませて、夜を明かしましょ」
アリアの言葉に、ダグラスは涙ぐみながら両手を握りしめてきた。
「あ、ありがたい……! 神の慈悲じゃ……!」
こうして僕たちは、気絶した護衛を馬車から下ろして背負い、怯える商人ダグラスを連れて、自分たちの小さな我が家へと戻ることにした。
樹海で初めて出会った、外の世界の人間。
彼らとの出会いが、僕たちのスローライフをさらに豊かに変えていく大きな転機になるとは、この時の僕たちはまだ気づいていなかった。
(第18話へ続く)




