第十五話 小さな相棒と風の恵み
不気味な黒い樹液が滴る谷あいを後にし、僕たちは足早に岩棚の拠点へと戻ってきた。
張り出した一枚岩のテラスをくぐり、清流のせせらぎが耳に届いたところで、ようやく張り詰めていた肩の力を抜くことができた。
「ふぅ……。ここなら安心ね」
アリアが弓を岩壁に立てかけ、深く息を吐き出す。
けれど、僕の胸元にしがみついたままのハクは、まだ小さな身体を微かに震わせていた。尖った耳を後ろへぺたりと倒し、銀白色の毛を逆立てたまま、僕のシャツの布地をぎゅっと前脚で握りしめている。
「ハク……もう大丈夫だよ。怖いところからは離れたからね」
膝の上に降ろし、震える背中を指先で優しく撫でてやる。
母狼を死に追いやった元凶の爪痕。まだ目も開かない卵だったはずなのに、本能の奥底に刻まれた恐怖が蘇ってしまったのだろう。濁った空気の匂いだけで、この小さな身体には耐え難いショックだったはずだ。
「きゅう……っ、くぅん……」
鼻を鳴らし、僕の温もりを求めるように手のひらへ顔を押し付けてくる。
「可哀想に……。そりゃあんなの見せられたら、大人だって震えるわよ」
アリアがしゃがみ込み、心配そうにハクの頭をそっと撫でた。
「アリア、ハクにお昼ご飯を作ってあげたいんだ。心が落ち着いて、身体の芯から温まるようなやつを」
「賛成よ。美味しいものを食べるのが、一番の気付け薬になるものね。……でも、何を作るの? まだ固いお肉は食べられないでしょ」
「うん。さっき採ってきた野生のベリーと、山羊のミルク、それに保存用の穀粉を使って……特製の『果実ミルク粥』を作ってみるよ」
僕はかまどに小さな火を起こし、湧水で清めた小鍋を火にかけた。
鍋に注いだ山羊のミルクがふつふつと泡立ち始めたところで、すりつぶした野生のベリー果汁と、ほのかに甘いシダのデンプン粉を少しずつ加えていく。
木べらでゆっくりと円を描くようにかき混ぜると、ミルクは淡い桜色へと染まり、とろりとした滑らかな粥へと変化していった。
――スキル発動:【至高の食卓】。
立ち上る湯気から、甘酸っぱいベリーの爽やかなアロマと、ミルクの濃厚で優しい香りがふわりと広がる。
――対象料理:至高の果実ミルク粥(幼獣用)。
――付与効果:
・精神沈静(恐怖・動揺の緩和)
・生体魔力基盤の強化(小)
・消化吸収促進(完全順応)
「ハク、できたよ。おいで」
人肌まで冷ました木皿を砂の上に置くと、ハクの小さな鼻がピクピクと動いた。
金色の瞳を潤ませながら、おぼつかない足取りで皿へ近づき――ペロリと、皿の端の温かいミルク粥を舌先で舐めとった。
「……きゅ?」
その瞬間、ハクの丸っこい瞳がパッと輝いた。
ピタリと震えが止まり、耳がピンと前を向く。
「きゅうっ、きゅうっ……!」
夢中になって顔を突っ込み、小さな舌を忙しなく動かして粥を口に運んでいく。
甘酸っぱい果実の酸味と、ミルクのまろやかさ。そして【至高の食卓】が引き出した極上の滋養が、ハクの怯えていた心を内側からじんわりと解きほぐしていくのが見えた。
「ふふ、すっごい食べっぷり! 鼻の頭にミルクがついてるわよ」
アリアが破顔し、ハクの愛らしい姿を覗き込んで笑う。
あっという間に皿をピカピカに舐め尽くしたハクは、満足そうに「ふぁあ」と大きなあくびを一つした。
そして――。
――ファサッ。
ハクが短く尻尾を一振りした瞬間、岩棚のテラスの中に、ふわりと澄んだ『一陣の心地よい風』が巻き起こった。
それはただの突風ではない。淡く青白く輝く、清らかな魔力を帯びた風だった。
「え……?」
「リュート、見て!」
アリアが指差した先。
岩棚のすぐ外、背の高い低木に実っていた大きな木の実――硬い殻に覆われて手の届かない位置にあった『薄緑の油木の実』が、ハクの起こした風の刃によって、パチンと綺麗に茎から切り落とされたのだ。
コロン、コロンと、僕の足元へ転がってくる。
「……きゅう!」
ハクは胸を張り、短い前脚を揃えて得意げに僕を見上げた。まるで「僕だって役に立てるよ!」とアピールするかのように、尻尾をパタパタと振っている。
「ハク……風魔法を使ったの……!?」
「信じられない……! あんな生まれたての子が、もう属性魔法を扱えるなんて! さすがは銀嶺狼の血筋ね……ううん、リュートのご飯で魔力の基盤が一気に安定したんだわ!」
アリアが目を丸くして感嘆の声を上げた。
足元の木の実を拾い上げると、【至高の食卓】がその価値を告げる。
――素材看破:ヴェルデ油椰子(完熟)。
――特性:極めて良質な植物油を含有。炒め物、揚げ物、灯火用油脂として最良。
「すごいよ、ハク……! これ、料理に使える最高の油なんだ! 見つけて取ってくれたんだね、ありがとう!」
抱き上げてお腹をくすぐってやると、ハクは「きゅうぅ~!」と喉をゴロゴロ鳴らして大喜びで僕の頬をペロペロと舐めまわした。
森の奥には、母狼を奪った恐ろしい脅威がまだ潜んでいる。
けれど、僕たちにはこの温かい食卓があり、支え合える仲間がいる。
「よし……油が手に入ったなら、今夜はもっと美味しいご馳走が作れるね」
「賛成! あんたが美味い飯を作って、ハクが風を起こして、私が獲物を狩る……ふふ、最高のパーティじゃない!」
アリアがニカッと八重歯を見せて笑い、僕の肩をぽんと叩いた。
二人の少年少女と一匹の小さなもふもふ。
過酷な樹海の中、僕たちの小さな家族の絆は、一歩ずつ確かに強くなっていた。
(第16話へ続く)




