第十四話 樹海の朝と不穏な爪痕
森の冷涼な朝気が、微かに開いた岩棚の隙間から滑り込んできた。
まぶたの裏に届く柔らかな朝の木漏れ日と、梢の上で鳴く小鳥たちの澄んださえずり。硬いベッドではない砂の上だったけれど、不思議と身体の芯には鉛のような重さは欠片も残っていなかった。
「……ん……」
僕がゆっくりと身を起こそうとすると、胸のあたりにずっしりとした温もりを感じた。
視線を落とすと、そこには僕の腕を抱き枕のように両手で抱きしめて、すやすやと眠りこけているアリアの姿があった。
赤銅色の艶やかな髪が、僕の胸元にふわりと広がっている。夜の寒さを避けるように無意識に擦り寄ってきたのか、寝息が首筋に当たってくすぐったい。
「……っ」
心臓が不規則に跳ねる。
昨晩食べたキジ肉のバフ――『耐寒性微増』のおかげで凍えることはなかったはずなのに、アリアは僕の体温を求めていたのだろうか。無防備に緩んだ寝顔は、普段の勇ましい狩人の面影など微塵もなく、ただの愛らしい少女そのものだった。
起こさないようにそっと身体を引こうとした瞬間、アリアの長いまつ毛がピクリと震えた。
「……んぅ……リュート、いい匂い……もっとお肉焼いて……」
「アリア、朝だよ」
ぽんぽんと肩を叩くと、琥珀色の瞳がぼんやりと瞬いて、僕の顔と自分の体勢を数秒間かけて見つめた。
そして――。
「――っっっ!?」
音を立てて弾け飛ぶように、アリアが後ろへ飛び退いた。
背中を岩肌にぶつけ、耳の先まで真っ赤にして口元を手で覆う。
「なっ、ななな、なんであんたに抱きついてるわけ!?」
「いや、アリアが夜中にこっちに来たんだよ……」
「うそっ! わ、私そんな寝相悪くないもん! ……あ、あんたが寒そうだったから温めてあげただけよ!」
「あはは、ありがとうアリア」
「笑うなーっ!」
「きゅう?」
騒ぎに目を覚ましたハクが、僕の外套の裾からぽてぽてと歩み出て、不思議そうに首を傾げた。その愛らしい姿に、赤面していたアリアもたまらず吹き出し、張り詰めていた空気が一気に解けていく。
湧水で顔を洗うと、氷水のように冷たくて、頭が芯から冴え渡った。
朝食は、昨晩残しておいた森キジの骨で出汁を取った透明なスープ。採集しておいた野生姜を刻んで温め直し、木皿に盛る。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――付与効果:
・基礎代謝活性化(小)
・集中力持続(中)
熱いスープを一口啜ると、身体の内側からじんわりと活力が湧いてくる。
ハクにもスープの上澄みと細かくほぐした肉を少量与えると、尻尾をブンブンと振って平らげた。
「ふぅ……身体が軽いわ。本当にリュートの料理は規格外ね」
すっかり機嫌を取り戻したアリアが、短剣を腰に差して立ち上がった。
「さて、今日はどうする? 拠点の周りの安全確認を広げながら、食材のマッピングよね?」
「うん。神官長様の手帳を埋めるためにも、東側の森の様子を見にいこう」
朝の澄んだ空気の中、僕たちは岩棚のテラスを出て、巨木が林立する樹海の奥へと足を踏み入れた。
ハクは僕の肩の上に器用に前脚をかけ、風の匂いを嗅ぎながら案内役を務めてくれている。
途中、野生のベリーや甘みを持つシダの若芽を見つけては、手帳に丁寧にスケッチと効能を書き留めていく。【至高の食卓】のおかげで、毒草と薬草の選別は完璧だった。順調に食材図鑑のページが埋まっていく充実感に、胸が躍る。
けれど、拠点から東へ三十分ほど進んだ鬱蒼とした谷あいに差し掛かった時――。
「きゅうっ……!」
肩の上のハクが、突然全身の毛を逆立て、低く喉を鳴らした。
小さな身体が小刻みに震え、僕の首元にしがみついてくる。
「ハク……? どうしたの?」
「……リュート、伏せて!」
アリアの鋭い声と共に、僕は腕を引かれて太い木の陰へと引き倒された。
アリアの琥珀色の瞳は、先ほどまでの穏やかさを完全に失い、射抜くような鋭敏な光を宿して谷の奥を睨みつけていた。
「風の匂いが違う。……腐った鉄と、死臭が混ざったような淀んだ空気よ」
アリアに促され、低木の隙間から谷の斜面を覗き込んだ僕の呼吸が、喉の奥で止まった。
「……あれは……」
森を支えるようにそびえ立っていたはずの巨大な神木が、無残に裂け、半ばからへし折れていた。
ただ折れているだけではない。巨木の樹皮はコールタールをぶちまけたように真っ黒に変色し、傷口からはどす黒い樹液が濁った泡を吹いて滴り落ちている。周囲の草花は完全に枯死し、灰色の粉となって地面を覆っていた。
そして、その折れた幹の表面に、くっきりと刻み込まれていたのは――。
大人の背丈ほどもある、異様に巨大で禍々しい『三本の鉤爪痕』。
「……っ」
僕の脳裏に、あの洞窟の光景が鮮烈に蘇った。
血を流し、息も絶え絶えに我が子の卵を守っていた母狼――その腹部を抉っていた、黒ずんだ呪詛の傷痕。
――スキル発動:【至高の食卓】。
視界の隅に、警告を促す赤黒い文字が浮かび上がる。
――環境看破:呪詛汚染区域(微弱残留)。
――要因:深淵種の上位魔獣による縄張り誇示痕。
――食卓適性:最悪(毒素飛散、生命拒絶領域)。
「母狼の……傷口と同じだ」
僕が震える声で呟くと、アリアは短剣の柄をギリリと音を立てて握りしめた。
その横顔には、怒りと、狩人としての冷徹な警戒が宿っていた。
「間違いないわね。あの立派な銀嶺狼をあそこまで追い詰めたバケモノが……この樹海のさらに奥に潜んでるんだわ」
黒く枯れ果てた神木の隙間から、生ぬるい風が吹き抜ける。
のどかなスローライフの舞台であるはずの広大な樹海。その美しき深淵の底には、母狼の命を奪い、森を侵食しつつある凶悪な影が、確かに息を潜めていた。
(第15話へ続く)




