第十二話 白紙の手帳と赤らむ頬
清流のせせらぎが、静かな岩棚に心地よく響いている。
背負い袋を下ろし、鹿革の外套を脱いだアリアは、「んーーっ!」と両手を高く掲げて大きく背伸びをした。引き締まった腰のラインがしなり、薄手のシャツ越しでも分かる健康的な身体つきが夕暮れの淡い光に照らされる。
「ふぅ……! 歩き通しだったから、身体がバキバキよ」
「お疲れさま、アリア。危ないところを先導してくれてありがとう」
「なによ改まって。あんたを守るのは私の役目でしょ」
アリアは悪戯っぽく八重歯を覗かせて笑うと、すとんと僕の隣の岩に腰を下ろした。
そのまま、ためらいもなく――こてん、と僕の肩に自分の頭を預けてきた。
「……っ!?」
不意に鼻腔をくすぐったのは、深い森の匂いと、アリアの燃えるような赤髪から香る甘い少女の匂いだった。
さらりとした前髪が僕の頬を撫でる。耳元から伝わってくる吐息の温もりに、僕の心臓がトクンと跳ね上がった。
「ちょ、ちょっとアリア……?」
「んー……ちょっとだけ貸して。リュートの身体って、なんか陽だまりの匂いがして落ち着くのよね……」
「お、落ち着くって……」
前世では病室のベッドの上、誰かと触れ合うことすら滅多になかった。
村にいた頃はずっと「頼もしい幼なじみ」だったはずなのに、二人きりで魔境に足を踏み入れた途端、彼女が『一人の女の子』であることが急に意識されてしまう。耳たぶがカッと熱くなるのが自分でも分かった。
「……きゅ?」
僕の膝の上で丸くなっていたハクが、急激に上がった僕の体温に驚いたのか、金色の瞳をパチクリとさせて見上げてくる。お願いだからそんな目で見ないでほしい。
「……あ」
僕の動揺に気づいたのか、アリアが弾かれたように体を起こした。
僕の真っ赤になった横顔を見て、アリアの琥珀色の瞳が丸くなり――みるみるうちに、彼女自身の頬も赤銅色の髪と同じくらい真っ赤に染まっていく。
「な、なによ! 別に変な意味じゃないわよ! ただちょっと肩を借りただけでしょ!」
「わ、分かってるよ! 怒らなくてもいいじゃないか……!」
「怒ってない! ……もう、いいから! 夕飯の準備、するんでしょ!」
アリアはぷいっと顔を背け、誤魔化すように腰の短剣をガチャガチャといじり始めた。
照れ隠しにツンツンする仕草が、コハクのように精悍な普段の狩人姿とのギャップを生んでいて、なんだかたまらなく愛らしかった。
「……コホン。そうだね、暗くなる前に食材を集めようか」
僕は咳払いを一つして、鞄からあの一冊を取り出した。
王都を去る時、大聖堂の神官長が手渡してくれた、年季の入った革張りの手帳だ。
パラパラとめくると、王国の街道沿いに生える野草や木の実のスケッチが丁寧に記されている。けれど――後半のページは、すべて何も書かれていない真っ白な白紙だった。
「これ……神官長様がくれた覚書よね」
アリアが気を取り直したように、そっと隣から覗き込んできた。今度は少しだけ照れくさそうに、けれど自然と肩が触れ合う距離まで身を寄せてくる。
「うん。神官長様も、この『ヴェルデの樹海』の奥までは来られなかったんだと思う。だから……僕がこの手帳の続きを埋めていこうと思うんだ」
「続き?」
「【至高の食卓】で、この森に眠る美味しい食材やスパイス、安全な水場を調べて……僕たちだけの『食材図鑑』を作るんだ。アリアが狩りをして、僕が美味しく料理するためにね」
そう言うと、アリアは目を見張り、それからふわりと、とびきり柔らかい笑みを浮かべた。
その琥珀色の瞳が、夕暮れの陽光を浴びて宝石のようにきらめく。
「……いいわね、それ。世界でたった一つの、私たちの手帳」
アリアは僕の手帳の端を指先でなぞりながら、少しだけ声を潜めて言った。
「リュートの作る世界一のご飯を食べる特権は……誰にも譲らないんだからね」
独占欲が混ざったようなその響きに、また胸の奥がくすぐったくなる。
「きゅうっ!」
ハクが「僕もいるぞ」と主張するように前脚を上げて鳴き、僕たちは思わず顔を見合わせて吹き出した。
「よし、じゃあ手始めに、拠点の周りの安全な場所で素材を探そう」
僕は岩棚から数歩進み、森の入り口に群生している茂みへ意識を集中させた。
――スキル発動:【至高の食卓】。
視界が淡い光を帯び、木々の間に自生する植物の輪郭が、鮮やかな色分けと共に浮かび上がってくる。
――素材看破:ヴェルデ野生姜(根茎)。
――品質:極上。
――特性:血行促進、魚・肉の臭み消し。加熱により爽やかな柑橘香を発する。
――素材看破:木漏れ日葡萄(野生種)。
――品質:良好。
――特性:糖度高、微弱な疲労回復効果。果汁は極上の肉料理用ソースに適す。
「……あったよアリア! 肉の臭みを消してくれる極上の生姜と、甘い野生の葡萄だ!」
「嘘、あの毒々しい葉っぱの下に生姜があるの!? すごいわね、本当に何でも分かっちゃうんだ……!」
アリアが感嘆の声を漏らし、僕の掘り起こした丸々とした根茎を興味津々に覗き込む。
未知の香辛料と、甘酸っぱい果実。
手帳の最初の白紙のページに、僕たちの新しい生活の記録が、いま確かに書き込まれようとしていた。
(第13話へ続く)




